ソ連 アフガニスタン 侵攻。 アフガン侵攻1979

ソ連崩壊|原因と崩壊後までをわかりやすくまとめて解説

ソ連 アフガニスタン 侵攻

このソ連の行動を非難した西側諸国は、モスクワオリンピックをボイコットし、軍縮交渉・デタントも停滞、東西は再び緊張状態に戻ってしまう。 10年後、ソ連軍はアフガンから撤退するも、この長い戦争が、 ソ連解体の遠因となるのである。 イスラム主義の台頭で不安定化したアフガニスタン 戦後の冷戦構造の中で、非同盟中立を維持してきたアフガニスタンでは、1973年に王族の ダーウドがクーデターを起こして、王政から共和制に移行した。 しかし、78年には親ソ連派の アフガニスタン人民民主党が革命を起こし、 タラキー書記長が首相に就任。 土地改革や男女平等などの改革を行った。 こうした社会主義的改革に対し、イスラム主義を掲げた ムジャーヒディーンと呼ばれる反体制派が各地で蜂起する。 ムジャーヒディーン ムジャーヒディーンとは「ジハード 聖戦 を行う者」を指し、反政府組織や対ソ連軍ゲリラの各組織が名乗った。 イスラム世界から多くの志願兵が集まり、後に アルカイダを率いる ウサマ・ビンラディンも参加している。 ソ連の軍事侵攻に際し、アメリカがソ連を疲弊させる目的から、ムジャーヒディーンを支援している。 不安定なアフガニスタン政権 新たに政権を取った人民民主党政権も内部での対立がやまず、79年9月には副首相の アミンがクーデターで政権を奪った。 しかし、アミン政権がソ連から距離を置こうとすると、同年12月、イスラム主義の台頭を恐れたソ連はアフガニスタンに正規軍を派遣し、親ソ連派の カルマルを支援してアミン政権を打倒した。 ソ連の軍事行動と、西側諸国の非難 このソ連のアフガニスタン侵攻に対し、西側諸国は激しく反発してソ連軍の撤退を要求する。 ソ連が拒否すると、日本を含む西側諸国は翌80年に開催されたモスクワオリンピックをボイコットして抗議した。 さらに、81年に就任したアメリカの レーガン大統領は、 ソ連を「悪の帝国」と呼んで激しく非難。 米・ソ間の軍縮交渉を通じて進んでいたの雰囲気は吹き飛び、東西は再び緊張状態に突入してしまう。 アフガンは泥沼化し、ソ連も疲弊 また、親ソ連派政権樹立後も、アメリカの支援を受けたムジャーヒディーンの攻撃は続き、 アフガニスタン情勢は泥沼化する。 ソ連軍は89年に撤退するが、この間に進んだ経済・社会の疲弊が、 ソ連解体の遠因となってしまう。

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アフガニスタンの歴史1 ソ連の侵攻

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それはもう、ランボーの活躍が有ったから・・・・なんてね。 世間知らずのピーナッツ畑の親父の代わりに、ハリウッドスターが大統領に就任したから。 ソ連に取っては悪夢でしたが。 東西冷戦でのパワーバランスを理解してない、カーター大統領が、同じ世間知らずの学者馬鹿ブレジンスキーの妄想に付き合って、アフガニスタンを見捨てた為、空白地帯を埋める為、ソ連は仕方なくアフガニスタンへ侵攻しました。 カーターはデタント!デタント! を合い言葉に、軍縮を進めCIAも切って行ったので、ソ連は対米国の経費が楽になっていたので気楽に侵攻しました。 ところが、ドナルド・レーガンが大統領になった事で、状況が激変。 レーガンはご存じパックスアメリカーナを合い言葉に、軍事力を拡大。 退役した、バトルシップまで復帰させてトマホークの発射台に仕立てて、ソ連を軍拡に誘い出しました。 日本列島まで不沈空母!と言わしめて。 実際 横須賀を第七艦隊CV-41空母ミッドウェーの母港にしましたから。 そのため、ソ連はすでに70年台経済破綻していたにも関わらず、レーガンの軍拡競争に付き合わなければならなくなり、アフガニスタンにかまってられなくなったのよ。

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これをうけて1979年にはがを行ったが、東側社会以外の支援を受けたムジャーヒディーンを駆逐することはできず、1989年には撤退した。 しかしソ連軍の撤退以降はムジャーヒディーン同士が内戦を起こし、軍閥を形成して戦闘が続いた。 1994年頃から軍の支援を受けたの武装勢力であるが勢力を拡張し、国土の大半を制圧した。 しかし、ターリバーン政権は的政権であり、同様に原理主義的思想を持つとを国内に保護し、テロリストの訓練キャンプを設置していた。 このためターリバーン政権を承認したのはパキスタン、、の三国に留まり、アフガニスタンのにおける代表権はを大統領とするが保持していた。 ラッバーニーをはじめとする旧ムジャーヒディーン勢力はターリバーンに対して同盟を組み、通称「」として北部で抵抗を続けたが、ターリバーンに押されつつあった。 1998年、とのが発生し、アメリカは報復としてアフガニスタン国内の訓練キャンプをで攻撃した。 このため12月8日にはで が採択され、テロリストの国際司法機関への引き渡しが要求され、1999年には で、アル・カーイダとビン=ラーディンらを名指ししての引き渡しが要求された。 しかしターリバーン政権は従わず、決議に基づくが行われた(アメリカ同時多発テロ事件後はこのが拡大され、やで人権侵害が問題化する )。 アル・カーイダの攻撃は引き続き起こり、2000年10月にはが発生した。 このため12月に が採択され、再度アル・カーイダの引き渡しが求められたがターリバーン政権はこれにも従わなかった。 ターリバーンとしては、アフガニスタンの客人歓待の伝統、ウサマ・ビン・ラーディンからの資金援助等の事情から、犯罪の証拠が示されることなく、ウサマ・ビン・ラーディンを引き渡すことはできなかった。 2001年2月26日にターリバーン政権は偶像破壊を名目にを破壊した。 しかしこの事件も非イスラム諸国だけでなく、イスラム諸国からの批判も受けターリバーン政権は孤立状態にあった。 開戦までの経緯 [ ] 炎上する世界貿易センタービル 2001年9月11日、が発生した。 12日、アメリカの大統領はを宣言した。 またこの中で、ターリバーン政権の関与が示唆され、はウサーマ・ビン=ラーディンが容疑者であり、また単独の容疑者ではないと発言した。 この決議1368は9月11日のテロ攻撃を「国際の平和及び安全に対する脅威」と認め、「テロリズムに対してあらゆる手段を用いて闘う」というものであった。 また前段には「個別的又は集団的自衛の固有の権利を認識」という言葉があり、これは同日にが創設以来初めての第5条の条項によるの発動を決定する根拠となった。 この後アメリカはターリバーン政権にビン=ラーディンらの引き渡しを要求した。 しかしターリバーンは引き渡しに応じなかった。 9月14日、も第4条に当たるとして集団的自衛権の発動を表明した。 9月15日、アメリカのはパキスタンがアフガニスタン攻撃に協力すると声明した。 16日、を構成するアラブ諸国はテロ攻撃を批判し、アフガニスタン攻撃を支持する声明を出した。 タリバンを承認してきたアラブ首長国連邦、パキスタン、サウジアラビアも国交を解消した。 しかし16日にターリバーンの情報相は重要拠点を要塞化したと声明し、徹底抗戦の姿勢を示した。 17日、の大統領はテロを非難したが、やと同じようにアフガニスタン攻撃の際は民間人の被害を最小限にするよう要請した。 9月18日、でとする合同決議が上院98対0、下院420対1で通る。 9月21日、ラムズフェルド国防長官は北部同盟と共同して作戦に当たることを発表した。 また外相会議も全会一致で攻撃を支持した。 9月28日、で初の「立法行為」 とされる が採択され、「全ての国」に国連憲章第7章に基づく強制措置としてや情報交換および資金援助禁止などのテロ対策とその報告が義務化され、11月12日にはではテロは「全国家と全人類への挑戦」とまで非難された。 アメリカはこの間に協力する国々と連合を組み、攻撃の準備に入った。 これらの国は諸国と呼ばれ、ラムズフェルド国防長官は「人類史上最大の連合」であるとした。 有志連合諸国はという統一作戦名で、アフガニスタンを含むテロ組織勢力地域への作戦を実行した。 開戦の正当性に対する論議 [ ] アメリカは・・・等と共同でアフガニスタンに攻撃を行った。 これはに定められたではなく、国連憲章第51条によって定められ、事前に国連決議を必要としないの発動によるという論理であった。 この論理は、、そしてを含む同盟国と法学者に広く認められた。 しかし、テロ攻撃に対して自衛権は発動出来ないという法学者も少なからずおり 、議論が発生している。 また、これらは後のやをめぐる国会論議でも取り上げられている。 以下、『テロ特措法の期限延長をめぐる論点』 に沿った争点の整理を行う。 自衛権 [ ] 「テロ攻撃」は自衛権の対象となる「武力攻撃」にあたるかという問題である。 また、自衛権は急迫不正の侵害に対して自国を防衛するための権利であり、テロ攻撃が今後も続く「除去しなければならない脅威」にあたるかという議論があった。 肯定派• 安保理決議1373はのもとに行動することを定めている。 これは個別的又は集団的自衛権を確認するものであり、テロ攻撃に自衛権が発動出来るということを示している。 派遣される武装集団の規模や影響が武力攻撃に匹敵するほどであれば武力攻撃を構成しうるというの判例がある(判決)。 アル・カーイダの以前からの活動を見ると今後の攻撃も予想され、除去しなければならない脅威にあたる。 否定派• 安保理決議1373にあげられた「すべての国がとるべき行動」には武力行使自体は書かれていない。 テログループは「私人」であり、国際法上の主体ではなく、その行動は「武力攻撃」 armed attack ではなく「武力行使」 use of force であり、自衛権の対象にならない。 有志連合諸国による攻撃は一ヶ月以上後であり、自衛権の要件の一つである「時間的要件」(差し迫った脅威を取り除くため)に該当しない。 安保理決議1378にあげられた必要な措置に、武力行使は含められない。 ターリバーンへの攻撃 [ ] テロ攻撃を行ったのは、ターリバーン政権自体ではなく、その庇護下にあるアル・カーイダである。 この場合、ターリバーンに攻撃を行うのは正当かという問題がある。 肯定派• 安保理決議1368および1373はテロ組織援助禁止を規定しており、ターリバーン政権のアル・カーイダへの援助は問題がある。 ターリバーン政権は1996年以来、安保理決議1267および1333によるアル・カーイダ引き渡しの要求を再三拒否しており、ターリバーンの擁護者である。 では、テロ組織の育成を禁じており、ターリバーンの行為はこれにあたる。 11月14日に定められた は「タリバン政権を交代させようとするアフガニスタン国民の努力を支援」するとあり、ターリバーン政権の打倒を明確に支持している。 否定派• ターリバーン政権は対する兵站支援や武器供与を行ったにすぎず、直接攻撃を行っていない。 一テロ組織の行動をターリバーン政権の責任とするのは問題がある。 政権崩壊に至るというターリバーン政府が受けた結果は、自衛権の要件である均衡性要件を欠く。 アルカーイダ問題 [ ] 同時多発テロ当時、アルカーイダによる犯行声明などは行われておらず、アルカーイダを犯人と推定したのはアメリカ当局によるものであった。 明確な関与が判明していない以上、攻撃を行うのは正当かという点も問題となった。 経緯 [ ] 開戦後 [ ] 2001年 [ ] オマーン海で「不朽の自由」作戦を行う5カ国空母艦隊(2002年4月18日) 2001年9月のは不意打ちだった為、アメリカ軍はアフガニスタンで戦争を行うプランを持っていなかった。 急きょ作戦が立てられ、アフガニスタンの軍閥にアルカーイダやターリバーンを攻撃させること、を装備した特殊部隊を派遣して空爆を支援させることなどが決まった。 アメリカ合衆国政府はこの作戦をの一環と位置づけ、国際的なテロの危機を防ぐための防衛戦であると主張し、作戦名を OEF: Operation Enduring Freedom 」と名付けた。 なおでは「ヘリック作戦」 Operation Herrick と呼んでいる。 アメリカは同時多発テロの前からウズベキスタンの空軍基地でを運用していたので、無人偵察機にミサイルを積んで攻撃機としても使えるようにした。 10月2日、NATOは集団自衛権を発動し、とを始めとした有志連合諸国は10月7日から空爆を開始した。 アメリカ軍は米国本土や、の、から発着する航空機やを動員して、アフガニスタンに1万2000発 の爆弾を投下した。 アメリカは軍事目標だけを攻撃していると発表していたが、実際には投下した爆弾の4割 は非誘導型爆弾であり民間人に多くの犠牲が出たと言われている。 11月13日には軍が首都を制圧した。 開戦当初、ターリバーンの指導者のはの自宅に居たので、空爆によって殺害する機会はあった。 しかしアメリカは民間人の被害を恐れてオマルの逃亡を許した。 オマルはを通じて降伏に同意したが、アメリカは降伏を認めなかった。 アメリカは数千人のターリバーンを殺害したので、ターリバーンは自然消滅すると考えていた。 アルカイーダのや人、人やアフリカ人などの外国人兵士はカブールが陥落すると都市部を放棄して、対ソ戦時代に建設されたパキスタン国境の地下要塞に立てこもった()。 対ソ戦時代、ソ連軍は爆撃で地下要塞を破壊しようとしたが上手くいかなかった。 アメリカ軍も同様に爆撃を行ったが地下要塞を破壊することは出来なかった。 トラボラ周辺の国境地帯は広大だったが、2000~3000人のアメリカ軍が包囲すればビンラディンを捕らえることが出来たと考えられている。 しかしアメリカ軍は派遣できる部隊が存在していたにも関わらずリスクを恐れてトラボラ周辺に部隊を派遣しなかった。 代わりに派遣されたアフガニスタン軍閥の戦意は低く、パキスタン軍はヘリコプターが揃わないため十分に兵力を展開することが出来なかった。 ビンラディンは死を覚悟していたが、国境を越えてパキスタンに脱出することが出来た。 アメリカのブッシュ政権は最小限の被害でターリバーン政権を崩壊させたことに満足し、戦後の国家建設や平和維持には興味を示さなかった。 アフガニスタンの国家建設や平和維持は国連に託された。 ハーミド・カルザイ大統領 2001年11月、の近郊のケーニヒスヴィンターにおいて北部同盟を含むアフガニスタンの4つのグループの代表を国際連合が招集して会議が開かれた。 ボン会合当時、ターリバーンとの戦闘は継続していたが、すでに北部同盟軍がカーブルを占領しており、早急に暫定政府の設立、国際的な部隊による治安維持を決める必要が生じたので、急遽、ボン会合が招集されることとなった。 これによりの成立、の招集、 ISAF の成立と UNAMA の設立が合意され、翌日において承認された()。 これをといい、以降のアフガニスタン復興計画のスタートとなった。 同月、が採択され、はタリバンを非難し、有志連合諸国と北部同盟によるターリバーン政権の打倒を支持した。 また、その後の国内外の軍事行動は、、等複数の決議によって承認されており、等と連携して行われている。 12月、ISAFは、UNAMAはによって正式に承認され、以降のカーブル周辺の治安維持活動はISAFが担うこととなった。 しかし、ターリバーンはボン合意に参加しておらず、また、ボン合意に基づき成立した暫定政府にが多かったため、パシュトゥン人の不満が高まり、ターリバーンが復活する一因となった。 2001年12月22日にはを議長とする、が成立し、正式な政府成立までの行政を行った。 同月、に基づいてのがに参加し、2010年までで給油活動を行った()。 2002年 [ ] 2002年1月、アルカーイダには数百人から2000人ほどの兵力があり、の都市付近のシャーヒーコート渓谷に潜伏していた。 シャーヒーコート渓谷にはの基地があり、主にの兵士が立てこもっていた。 3月、アメリカ軍は「」を行い、シャーヒーコート渓谷を掃討した。 この作戦でアメリカ軍は150人~800人ほどのアルカーイダを殺害したと考えられているが、アメリカ軍の損害も比較的多かった。 生き残ったアルカーイダの兵士はパキスタンのに撤退した。 アメリカのブッシュ政権はアフガニスタンに深入りすることを恐れて、少数の部隊(5200人)しか派遣していなかった。 ブッシュ政権はアフガニスタンの国家建設も各国の分担で行うことを主張し、の再建はアメリカ、警察の再建は、司法の再建は、麻薬取り締まりはに任せて、国連に統括させた。 6月11日から8日間、カーブルにおいて緊急が開催された。 会議の結果、暫定行政機構に代わり、カルザーイを大統領とするが成立した。 ブッシュ政権はターリバーンは打倒されたと考えており、今後は敗残兵の掃討を行えばよいと考えていた。 アメリカのアフガニスタンに対する予算は極めて少なく、援助を期待していた地方住民は失望した。 また少ない予算の中から学校の建設が行われたが、アフガニスタンの特に田舎では女学校の建設は社会の急進的な変化や欧米の価値観の押し付けとみなされ、一部の住民が反発した。 パキスタンではなどのターリバーンの幹部が郊外で公然と暮らしており、結婚式に州の幹部や軍人を招くほどだった。 アメリカはいずれ撤退するとターリバーンや周辺諸国は考えており足元を見ていた。 ターリバーンはパキスタンから近隣のに出撃して迫撃砲で攻撃し、「夜の手紙」(シャブナーマ)を使って住民を脅迫し支配下に組み入れた。 2003年 [ ] 2003年、アフガニスタンで戦闘は続いていたが、ブッシュ政権はアフガニスタンについてほとんど何も考えていなかった。 特に国防長官は戦争は終結したと公言しており、を教訓に外国軍の長期的な駐留を避けようとしていた。 アメリカ軍もイラクで次の戦争を始めようとしていた()。 8月11日、国連とアフガニスタン政府の要請により、ISAFの指揮権がに委譲された。 10月13日のにおいてISAFの活動範囲がアフガニスタン全土に拡大され、OEF-A参加部隊の指揮権はISAFに移譲されることとなった。 またが行われ、アフガニスタン北部ではなどが中心となり軍閥から武器を取り上げた。 パキスタンはアメリカ同時多発テロ事件の後、アメリカ政府から「空爆して石器時代に戻す」と脅迫され、アメリカに協力していた。 しかしパキスタンは19世紀のや20世紀のなどの結果、やなどの複数の民族が相互不干渉の微妙なバランスの下で1つの国家を形成しているだけで、パンジャーブ人が主体となる中央政府がパシュトゥーン人の領域()を支配している訳ではなかった。 大英帝国の時代から連邦直轄部族地域(FATA)はパシュトゥーン部族の自治が認められており、中央政府の法律は現在でも及んでいない。 また中央政府の軍隊が連邦直轄部族地域に入ったことも無かった。 パキスタンは建国後も苦難の歴史が続き、で3回インドに敗北し、東パキスタン()を失い、現在も地方をいつ失うか分からない状態が続いている。 インド軍はパキスタン軍の2倍の戦力を誇りパキスタンは通常戦力では歯が立たない為、(ISI)がターリバーンやカシミール過激派を養成して、インド軍に対してゲリラ戦やテロ攻撃を仕掛けることを黙認している。 またパキスタンは国家統一を図り、インドのに対抗するためにイスラム化を進めたので、パキスタン国民の大半はオサマ・ビン・ラディンを英雄だと思っていた。 パキスタンが国内でターリバーンやアルカーイダを取り締まることは困難であり、また将来の印パ戦争やに向けてターリバーンを取り締まりすぎることは国益に合致しない。 アメリカに対する協力は国内の反発を生み、2003年12月にカシミール過激派が大統領の暗殺未遂事件を起こした。 パキスタン政府は重い腰を上げ、建国以来初めて南に軍を派遣した()。 しかしパキスタンは国内のターリバーンの存在は否認しており 、アメリカ軍の無人攻撃機や特殊部隊もクエッタなどの大都市には手を出せないでいた。 連邦直轄部族地域の国境警備は現地採用の辺境部隊が担当しているが、辺境部隊の兵士はターリバーンと同じ民族であり思想的にも近いため、取り締まりには非協力的でありターリバーンの越境時に援護射撃を行う場合すらあった。 2004年 [ ] カンダハール 2003年12月14日から2004年1月4日にかけて、カーブルにおいて制定ロヤ・ジルガが開催された。 これによりが成立し、2004年1月26日から施行された。 10月9日にはアフガニスタン全土および・を投票地域とする選挙が行われ、カルザイが55. 初代大統領に選出された。 カルザイは12月に大統領に就任し、が正式に成立した。 しかし地方の政治は軍閥に委ねられており、住民サービスを行うどころか住民に対して州知事がゆすり集りを行い、敵対部族をターリバーンとみなしてアメリカ軍に攻撃させていた。 カルザイ大統領の異母弟のもの実力者として権勢をふるい、麻薬取引にも関わっていたと言われている。 同年、ターリバーンの最高評議会()が軍事作戦の再開に向けた文書を作成したと言う。 アルカーイダはパキスタンの南ワジリスタンのやシカイ渓谷に拠点を持っていた。 ワナはの武装組織指導者のが支配していたが、アメリカは無人攻撃機を使って爆殺した。 同年、アメリカでが行われ、ブッシュ大統領が再選した。 ブッシュ政権はパキスタンに協力を求める一方で、パキスタンの主敵であるインドとについて協議を行うなど政策が首尾一貫していなかった。 アメリカはアフガニスタンの国家建設が順調に進んでいるため、ターリバーンの復活の可能性は低いと考えており 、アフガニスタンの治安維持をNATO軍に任せて、イラク戦争に専念した。 第一回大統領選挙後 [ ] 2005年 [ ] ターリバーンの勢力拡大(2002年~2006年) 2005年9月18日、下院議員選挙と県会議員選挙が行われた。 2005年後半からタリバンを中心とした武装勢力が南部各地で蜂起した。 このタリバンの蜂起は国際治安支援部隊(ISAF)が南部や東部に展開し始めた時期と重なっている。 当時、ISAF側はタリバンの攻撃増加はタリバンがISAFに追い込まれた結果として抵抗するためのものである、という強気の見方を示していた。 しかし、ISAFの説明とは異なりアフガニスタンの治安は急速に悪化していった。 対ソ連戦争や軍閥内戦時代にもなかった自爆攻撃(2005年27件、2006年139件)が行なわれるようになったことから、イラク戦争で伸張し数多くのを行なってきたの影響を指摘する声もある。 同年、パキスタン軍は南ワジリスタンで和平を結び、北ワジリスタンに進軍した。 一方、(ISI)はサウジアラビアの支援を受けて、ターリバーンに対する支援を積極化させたと言う意見がある。 軍統合情報局は2万5千人の職員を擁し、秘密工作を行うS局など様々な部門があり統制が取れていなかった。 アメリカはビンラディンの探索を続けていたが難航していた。 アメリカは連邦直轄部族地域にターリバーンやアルカーイダが潜伏してアフガニスタンを攻撃していることを理解していたが、核兵器保有国のパキスタンに対する遠慮があり越境攻撃をためらっていた。 また住民の協力も得られないため攻撃を強行しても成果が出なかった。 ターリバーンやアルカーイダは「アッ=サハーブ」や「トラボラ」などのウェブサイトやネットマガジンを使って宣伝戦を積極的に行っており 、イギリス在住のパキスタン人などがテロを行っていた()。 2006年 [ ] 有志連合の月別の損害(2002年~2015年) 2006年、アフガニスタン南部に(ISAF)が展開し、「」を実施した。 イギリス軍は手付かずだったに展開したが、ターリバーンに包囲されて苦戦した。 ではターリバーンが攻勢に転じてカナダ軍に塹壕戦を挑んだが、カナダ軍に撃退された(マウント・スラスト作戦、)。 ではがを実行した。 連合軍はターリバーンの最高指導評議委員の1人を殺害するなどの戦果を挙げたものの 、アフガニスタンの治安は大幅に悪化し、アフガニスタンにおける治安事件の数は2003年の10倍に達した。 またアヘンの収穫量が急増し、 UNODC が警告を発した。 アヘンの大半はヘルマンド州で生産されており、ターリバーンの資金源となっていると言う。 またアヘン生産者が国内の混乱を継続させるためにターリバーンに献金を行っているという意見もある。 アフガニスタンのアヘンの生産量(1994年~2016年) 同年、パキスタンではパキスタンの特殊部隊がハッカニー・ネットワークの複数の拠点を攻撃したことに地元武装勢力が反発したことなどにより 、パキスタン軍の被害が増大した。 ハッカニー・ネットワークは北ワジリスタンの郊外のダンデ・ダルパヘイルにある大規模な神学校を拠点にしている。 パキスタン軍はのオークラザイ知事の提案で、ワジリスタンの部族長やターリバーン、外国人戦闘員と和平協定を結んだ(ワジリスタン和平合意)。 パキスタン軍は連邦直轄部族地域から撤退したので、ターリバーンはアフガニスタンに自由に越境できるようになった。 パキスタン政府は数千人の戦闘員を擁し政府に対して好戦的なに対抗するために、ワズィール族と手を結ぼうとしていた。 一方、パキスタンの(ISI)はISAFの展開はアメリカ軍撤退の兆しであると考え、アメリカ撤退後のターリバーン政権の樹立について真剣に考えていたという意見がある。 アメリカではでが勝利し、アフガニスタンに対する予算がようやく増加した。 2007年 [ ] 2007年、アフガニスタンではやによってISAFや民間人に多数の犠牲者が出ていた。 ターリバーンはカブールで自爆テロを開始した。 歩兵戦も続き、(ISAF)はアフガニスタン南部で(ヘルマンド州)や(カンダハール州)などを行った。 またウルーズガーン州ではターリバーンが攻勢に出てオランダ軍と戦闘を行った()。 アフガニスタン北部ではドイツ軍などがを実施した。 連合軍はターリバーンの最高指導評議委員の1人ムラー・オバイドゥラー・アクンドを拘束し、を殺害するなどの戦果を挙げたがターリバーンの勢いは衰えなかった。 ではターリバーンの力が州都のすぐそばの幹線道路にまで及んでおり、州内の3分の2の郡では職場放棄が起き、郡裁判所などが業務を停止していた。 アフガニスタン大統領のはターリバーンに和平を提案したが、ターリバーンは外国軍の存在を理由に拒絶した。 ターリバーンは外国人を敵視しておりが起きた。 パキスタンではが起き、ワジリスタン和平合意が破れ戦闘が再開した。 アメリカは権力を失いつつあるムシャラフ大統領に代わって元首相を再登板させようと考えたが選挙中に爆殺された。 9月、ISAFの活動期限延長を主題とし、 OEF に対する謝意が前文に盛り込まれたが採択されたが、が棄権にまわった。 2008年 [ ] 2008年、アフガニスタン北部では雨不足による穀物の不作により出稼ぎや難民が発生した。 アフガニスタン南部では(カンダハール州)、(ヘルマンド州)などが行われた。 ウルズガーン州ではの製作した反イスラム的な短編映画に対する報復と称してターリバーンがオランダ軍にIED攻撃や自爆攻撃 、待ち伏せ攻撃を行った()。 アフガニスタン東部のなどの結果、アメリカ軍の戦死者は155人に及び(3割増)、NATO軍の戦死者も増加した。 アフガニスタンにはNATO軍を主力とする39か国5万5千人の部隊が展開していたが、統一した指揮がなく各部隊がバラバラに戦っていた。 ターリバーンは効果の薄い自爆攻撃や空爆を招く大規模な歩兵戦を避けて、(IED)による攻撃を増加させた。 ターリバーンはアルカーイダやパキスタン軍の訓練によって練度を上げ、迫撃砲の命中精度を向上させた。 またアフガニスタン政府の支配が地方まで及ばないため、ターリバーンがもめごとの仲裁などの住民サービスを行って住民の心をつかんだ。 ターリバーンと同じようにやがアフガニスタン政府に代わって住民サービスを担ったが、ターリバーンはNPOを攻撃しが起きた。 米国のマコネル国家情報長官は「ターリバーンはアフガニスタンの約10~11%を支配している」と述べた。 パキスタンではパキスタン・ターリバーンが首都から240キロのを占領した。 (ISI)が後援するカシミール過激派はインドとの戦いを続けていた()。 アルカーイダは連邦直轄部族地域でパキスタン・ターリバーンとも連携を取り、両国のターリバーンと行動を共にするようになった。 アメリカ軍は無人攻撃機や特殊部隊を使って連邦直轄部族地域のアルカーイダを攻撃したが、アルカーイダもなどで反撃した。 また無人攻撃機の活用により民間人の被害が急増した。 事態は緊迫し、もはや単なるテロ対策ではなく反乱鎮圧を真剣に行う必要があるとアメリカも認めざるを得なかった。 一方、イラクでは戦争がようやく落ち着きつつあった。 ではオバマ候補がアフガニスタンへの関与を拡大する考えを示し、アメリカ軍も新大統領の下で増派を行う決意を固めた。 2008年9月20日、OEF参加諸国、への謝意を前文に盛り込んだが採択され、全会一致で採択された。 2009年 [ ] ヘルマンド州サンギン郡のJackson前線基地 1月、アメリカ合衆国ではがに就任し、アフガニスタンでは二回目の大統領選挙が迫っていた。 アフガニスタンでは2008年から将軍が正規戦によって敵兵を殺害するテロ対策を行っていた。 しかしアメリカ軍はアフガニスタン東部では勝利していたものの、アフガニスタン南部で劣勢だった。 アメリカはイラクに15万人を派兵していたが、アフガニスタンには3万8千人しか派兵していなかった。 アフガニスタンにはその他にNATO軍2万9千人 や現地人で構成された3千人の対テロ追撃チーム(CTPT) などが居た。 2月、オバマ大統領はアフガニスタンの大統領選挙を支援するために戦闘部隊1万7000人と訓練要員4000人を派兵した。 増派した(8000人)は手薄だったヘルマンド州に配置され、やが行われた。 しかし、そこはケシの大生産地ではあるものの過疎地帯の「死の砂漠」であり、カンダハールのような大都市は手薄なままだった。 5月、オバマ大統領はマキャナン将軍を事実上更迭して 、将軍を後任に任命した。 アメリカの軍部はイラクで成功した反政府活動鎮圧をアフガニスタンでも行おうとしていた。 反政府活動鎮圧とはイラク駐留アメリカ軍司令官の将軍が考案した作戦で、「敵を殺しても戦争を終わらせることは出来ない」「住民を守り、人心を収攬し、ともに生活し、安定した有能な政府が栄えるように治安を維持しなければならない」と言う考えに基づく作戦である()。 8月、マクリスタル将軍は反政府活動鎮圧を行うためにオバマ大統領に4万人の増派を要求した。 しかしオバマ大統領は大統領選挙ではアフガニスタンに増派すべきと主張したものの、際限のない駐留や出費には反対だった。 反政府活動鎮圧を行うには40~50人の住民を守るために軍人や警察官が1人必要で、理論上はアメリカ軍が10万人必要だった。 また10年以上の長期的な国家建設を行い、アフガニスタンの警察や軍を40万人養成する必要があり、その場合の経費は8890億ドルに及ぶと予想された。 しかしソビエト連邦はかつてアフガニスタンに10万人を派兵し、100万人のアフガニスタン人を殺害したが戦争に勝利することは出来なかった。 アメリカ政府は反政府活動鎮圧や国家建設に深入りして、アフガニスタンから撤退出来なくなることを恐れていた。 アメリカの軍部はアフガニスタンに4万人を増派して、時間をかけて反政府活動鎮圧を行いターリバーンを撃滅したいと考えており、もそれを支持していた。 しかしオバマ大統領は短期間で迅速に軍事行動を行って撤退することが出来るを求めていた。 軍部や政権内で議論が行われ、結局オバマ大統領は本格的な反政府活動鎮圧やアフガニスタン軍の長期的な養成は行わず、一時的に3万人の増派を行ってアフガニスタンの軍や警察が治安を管理できる程度にターリバーンの戦闘能力を弱体化させ、2011年7月から撤退を始める「掃討・堅守・建設・転移」を行うと決断した。 12月1日、オバマ大統領はニューヨーク州の陸軍士官学校で新戦略を発表し 、残りの1万3000人を派兵した。 アメリカの軍部はオバマ大統領の決断に従ったが本心では納得しておらず、不足した兵力をNATO軍の増派で補って反政府活動鎮圧を行おうとした。 一方、NATO加盟国には様々な国情があり、例えばドイツでは戦争継続について国論が分裂していた。 ターリバーンや(IJU)はドイツ軍を撤退に追い込むため、駐留のNATO軍にを加えた。 その結果、巻き添えで民間人に死傷者が出て()、ドイツの閣僚が辞任した。 イギリスはアフガニスタンに9000人を派兵していたが、更に500人の増派を発表した。 マクリスタル将軍は兵力不足に対応するために、アフガニスタン全土での反政府活動鎮圧は諦めて400郡中80郡を重点地域に指定し、ヘルマンド州やカンダハール州、カブール周辺やパキスタン国境などで反政府活動鎮圧を行って支配地域を広げることにした。 戦争は激しさを増し、2008年と比べてアメリカ兵の死者が急増した。 アフガニスタンの大統領選挙はが再選したものの、選挙不正や汚職が酷くアメリカの言う事を聞かなくなっていた。 パキスタンではが首都から100~160キロにまで迫り、核兵器備蓄基地のタルベラを脅かした。 パキスタン政府は連邦直轄部族地域(FATA)に14万人の軍を派遣してパキスタン・ターリバーンと戦った。 パキスタン軍の戦死者は2006年以降の5年間で2300人に及んだ。 一方、パキスタンはアフガニスタン・ターリバーンに対しては複雑な態度をとっていた。 パキスタン政府はアフガニスタン・ターリバーンと戦うアメリカ軍やNATO軍に対する軍需物資の通過を認め、連邦直轄部族地域に対する無人機攻撃も認めていた。 一方、(ISI)はやとの関係を継続しており、連邦直轄部族地域はアメリカ軍やNATO軍や諜報機関が侵入できない安全地帯と化していた。 アフガニスタン・ターリバーンはアフガニスタン東部や南部に2万5千人の兵力を展開し 、パキスタンの連邦直轄部族地域で十分な休息を取って戦争を続けていた。 アルガンダーブ川 アメリカ軍やオバマ政権はターリバーン発祥の地であるカンダハール州や麻薬取引の中心地であるヘルマンド州を戦争の重心とみなしていた。 2010年2月、国際治安支援部隊(ISAF)はヘルマンド州のマルージャ郡でを行った。 マクリスタル将軍はマルージャ郡にアフガニスタン政府の公務員を派遣して住民にサービスを行う移動政府を試みたがうまく行かなかった。 同月、アメリカ軍はカンダハール州に精鋭部隊であるの第二旅団(4800人)を投入した。 ターリバーンはアルガンダーブ川沿いの灌漑地帯に潜み、アメリカ軍を(IED)で攻撃し、から奇襲攻撃を行ったので 、アメリカ軍の損害が増大した。 6月、マクリスタル将軍が兵力不足を嘆き、マクリスタル将軍の部下がバイデン副大統領などを批判したことを誌が面白おかしく報道し、マクリスタル将軍が辞任した。 9月、国際治安支援部隊(ISAF)はドを実施して、ターリバーンを灌漑地帯から一掃した。 辞任したマクリスタル将軍の後任には、反政府活動鎮圧理論の考案者である将軍が就任した。 ペトレイアス将軍はによる夜間襲撃を前年の5倍に増やし、365人のターリバーン指揮官を殺害し、1400人のターリバーンを捕虜にした。 また国際治安支援部隊(ISAF)は重点地域を96郡に増やしてターリバーンを攻撃した。 しかし戦況に劇的な変化は生じなかった。 10月、北大西洋条約機構(NATO)の首脳会議がで開かれ、国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン治安軍への段階的な治安維持権限の移譲(撤退)が決まった。 パキスタンでは連邦直轄部族地域(FATA)が(5月)のようなアメリカ本土に対するテロ攻撃の温床になっていた。 CIAは連邦直轄部族地域に対して無人攻撃機で122回の攻撃を行い 、アフガニスタン人で構成された対テロ追撃チーム(CTPT)を越境させた。 9月、アメリカ軍の攻撃ヘリコプターがパキスタンに領空侵犯し、パキスタン軍の検問所と交戦した。 パキスタンは抗議のためを一時的に封鎖し、NATOの補給路を妨害した。 ハッカニーネットワークもクエッタなどでNATOの燃料輸送車を攻撃した。 2011年 [ ] アメリカ合衆国のオバマ大統領は2009年の増派の際、2011年7月から撤退を始めると決めていた。 撤退開始が間近に迫った5月、アメリカ軍のがパキスタンの首都郊外のにあった邸宅を急襲し、 した。 一方、「掃討・堅守・建設・転移」戦略の進展は思わしくなかった。 ターリバーンはアメリカ軍と互角の戦いを行い、カルザイ政権の汚職は改善せず、アフガニスタン軍の規模拡大も計画通りには進まなかった。 7月、カンダハールからアメリカ軍とカナダ軍が撤退を開始した。 同月、カンダハールの実力者が暗殺された。 パキスタンではアメリカ軍が前線基地を設置するためにアメリカ軍の関係者285人を非公式に活動させていたが臨時職員のモラルは低く、1月にが起きた。 11月、NATO軍が再びパキスタン軍と交戦・誤爆したので、パキスタンはを一時的に封鎖し、NATOの補給路を妨害した。 2012年 [ ] 2012年7月、「アフガニスタンに関する東京会合」が開催された。 アフガニスタン治安軍の年間予算(41億ドル)の負担割合(米国24億ドル、欧州12億ドル、アフガニスタン政府5億ドル)などが決まった。 2013年 [ ] 2013年6月、国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン治安軍への治安権限の委譲が完了した。 同年11月、アメリカ軍はパキスタン・ターリバーンの指導者を空爆し殺害した。 2014年 [ ] 2014年12月、(ISAF)が終了し 、最盛期には約13万人にも及んだ外国軍の多くが国外に撤退した。 多国籍軍はに移行し、治安はアフガニスタン軍や警察が独力で維持することになった。 同年5月、がファーリヤーブ州ゴールマーチ郡から越境してきた武装集団に襲撃された。 ウズベキスタン人やトルクメニスタン人などで構成された武装集団はISAF撤退を機に永世中立国であるからアフガニスタンを攻撃しようとしていた。 同年4月、の報復として、パキスタン軍が北ワジリスタンを攻撃した(作戦)。 12月、パキスタン・ターリバーンは軍が運営する学校を襲撃し、140人以上の生徒を殺害した()。 第三回大統領選挙後 [ ] 2015年欧州難民危機 2015年 [ ] 2015年、はなどを起こし、世界に活動の輪を広げていた。 1月、ターリバーンの一部がに寝返って「ホラサン州」(ISIL-K)の設置を宣言した。 5月、アフガニスタン政府とターリバーンとの間で非公式協議が行われ、ターリバーンの政治事務所をカタールのドーハに開設することで合意した。 7月、パキスタンの仲介でアフガニスタン政府とターリバーンとの間で公式の和平協議が行われ、ターリバーンの最高指導者が声明を発表した。 ところがその直後オマルが2013年に病死していたことが明らかとなり交渉は中断した。 ターリバーンの内部で抗争が勃発し、武力衝突が起きた。 その後、ターリバーンの最高指導者にが就任した。 9月、ターリバーンはアフガニスタン第六の都市を短期的に占領した()。 10月、衝撃を受けたアメリカ合衆国の大統領はアメリカ軍の完全撤退を断念した。 同年、多くのが欧州に避難しようとして、の一因になった。 2016年 [ ] 2016年3月、ターリバーンの内部抗争が勃発し、で150人が死亡する大規模な戦闘が行われた。 5月、アメリカ合衆国はターリバーンの最高指導者を殺害した。 一説によるとアフタルは和平協議には否定的だったと言う。 後任の最高指導者にはが就任した。 2017年 [ ] 2017年10月、イスラム国の首都が陥落した。 アフガニスタンでもイスラム国の最高指導者がアメリカ軍による空爆で死亡し、後継者争いにより組織が2つに割れ、ムアウィア・ウズベキスタ派がアフガニスタン北部に移動した。 同月、アフガニスタン政府の支配地域は407郡中231郡(57%)にすぎないことが判明した。 政府とターリバーンは122郡(30%)の支配を争っており、ターリバーンが54郡(13%)を支配していることが分かった。 ターリバーンの支配地域は2015年11月から2017年8月の間に倍増しており、紛争地域も1. 4倍に増加した。 特に(7郡中5郡)や(7郡中5郡)、(14郡中9郡)は大半をターリバーンに支配されていた。 アメリカ合衆国の大統領は状況の悪化を防ぐために増派を決定した。 12月、約200人のイスラム国の部隊がダルザーブ郡(Darzab)を支配下に置き、基地を建設していた。 部隊にはから逃げてきた人や人なども居た。 2018年 [ ] 2018年2月、アメリカ軍はジョウズジャーン州のイスラム国部隊をで爆撃し、特殊部隊で急襲して現地司令官を殺害した。 ターリバーンもし、大打撃を受けたイスラム国の部隊は8月にアフガニスタン政府に投降した。 投降したイスラム国の部隊は約250人でフランス人の他に人やウズベキスタン人やタジキスタン人、パキスタン人なども加わっており、女性や子供の戦闘員も居た。 一方、イスラム国は戦闘員にアフガニスタンへの入国を呼び掛けており 、アフガニスタン北部に潜伏中の戦闘員は5000人に達するという説があった。 8月、ファーリヤーブ州ゴールマーチ郡のチャイニーズ・キャンプ基地が1000人のターリバーンに包囲され、孤立無援で陥落した。 基地には106人の守備隊が居たが 、アフガニスタン軍はやジョウズジャーン州のイスラム国部隊の降伏などに忙殺されてヘリコプターが足りず、ゴールマーチ郡まで支援の手が回らなかった。 同年5月、パキスタンはを廃止し、に併合した。 国連によるとに対する軍事作戦により、アルカーイダ系の武装集団がアフガニスタンに退避した。 2018年現在アフガニスタンには1万人~1万5000人の外国人戦闘員が居り、そのうちアルカーイダは265人~400人だった。 アルカーイダはターリバーンの保護の下でに訓練基地を設けており、ウサマ・ビン・ラディンの息子に統率されている部隊もあった。 同年6月、アメリカ軍はパキスタン・ターリバーンの指導者をアフガニスタン領内で空爆し殺害した。 2019年 [ ] 2019年3月、ファーリヤーブ州では州都マイーマナをはじめ州内の大半の郡がターリバーンに包囲され、アフガニスタン軍に多数の戦死者が出た。 9月、が行われた。 12月、でNPO活動を行っていたが殺害された。 同年2月、インドはの報復のために、パキスタン領内のカシミール過激派の拠点を爆撃した()。 8月、インドはパキスタンのテロを防ぐためにの自治権を廃止・はく奪し直轄領化した()。 第四回大統領選挙後 [ ] 2020年 [ ] 、アメリカ合衆国とターリバーンの間で和平合意が成立した()。 アメリカ合衆国は135日以内に駐留軍を縮小し、14ヶ月後にNATO軍と共に完全撤退すること、ターリバーンはアフガニスタン国内で攻撃を停止することが決まった。 また合意にはアフガニスタン政府が5000人、ターリバーンが1000人の捕虜を解放することも盛り込まれた。 しかし和平合意に参加していないアフガニスタン政府は5000人の解放に同意せず、1500人の解放しか認めなかった。 3月、ガニー大統領が再選し大統領就任を宣言したが、対立候補のアブドラ行政長官は納得せず、4月現在も混乱が続いている。 4月、アフガニスタン政府は合計300人の捕虜を解放したが 、ターリバーンは納得せずアフガニスタン政府との交渉を打ち切った。 また交渉中も戦闘は継続しており、ターリバーンは3月から4月中旬までに2804回の攻撃を行い、789人の民間人が死傷した。 年表 [ ]• 2001年9月11日 -。 2001年10月2日 - 北大西洋条約機構が集団自衛権を発動• 2001年10月7日 - 有志連合諸国によるアフガニスタン領内への攻撃開始• 2001年11月14日 - ()。 2001年12月6日- 、(ISAF)の設立、アフガニスタン暫定行政機構が発足。 トラボラの戦い。 2002年3月 - (UNAMA)が発足。 2002年6月 - アフガニスタン・イスラム移行政府が成立。 2003年2月 - アフガニスタン「平和の定着」会議(東京)。 日本政府主導の DDR を開始• 2004年1月 - 新 ()公布。 2004年3月16日 - パキスタン軍によるアル・カーイダへの攻撃が開始(の始まり)。 2004年10月 - ()。 2004年12月 - ハーミド・カルザイが初代大統領に就任し、正式新政府が発足。 2005年6月 - DDRが完了。 2006年10月 - アフガニスタン東部の指揮権を米軍から国際治安支援部隊に移管。 2006年12月 - 治安が大幅に悪化。 2009年1月 - アメリカ合衆国において政権発足。 2009年2月 - 米軍増派。 2009年8月 - ()。 2009年12月 - 米軍増派。 テロ対策から反政府活動鎮圧に方針を転換。 2011年5月 -• 2014年4月 -• 2014年9月 - が大統領に就任。 2014年12月 - 国際治安支援部隊が終了。 2015年1月 - がホラサン州の設置を宣言。 2015年7月 - ターリバーンの最高指導者の死亡が発表される。 2015年9月 -• 2017年1月 - アメリカ合衆国において政権発足• 2017年8月 - 米軍増派。 2019年9月 -• 2020年2月29日 - アメリカ合衆国とターリバーンの和平合意 [] 注釈 [ ]• FoxNEWS• Stefan Talmond, 'The Security Council as World Legislator' 2005 99 American Journal of International Law p. 175. 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