東海 村 臨界 事故 症状。 東海村臨界被ばく事故裁判 11月16日 第15回法廷

よくわかる原子力

東海 村 臨界 事故 症状

現在、太平洋上での北朝鮮の水爆実験の可能性が世界を現在、脅かしている。 また、放射能の恐怖を実感させられた「東海村JCO臨界事故」の被害者は、染色体破壊によりわずか数カ月で死亡している。 被ばくの恐ろしさは、誰もが知るところであろう。 しかし大量の放射線を浴びながら、生きながらえた奇跡の男も地球には存在する。 彼は、「アトミックマン」と呼ばれた。 突如、化学爆発が起き彼は放射性物質とガラスや金属の破片を全身に浴びた。 当時64歳だったマクラスキーに、記録にある中で最も高い線量の放射線(人間の年間許容量の500倍の放射線)が降り注いだ。 html】 当時、マクラスキーはハンフォード核処理施設で煙探知機や爆弾で使用される高放射性物質のプルトニウム副生成物であるアメリシウムの回収を行う作業に携わっていた。 事故の起きる4カ月前にストライキが起き、実験室や機器は数カ月間稼働していなかった。 マクラスキーは以前設計者から、短期間でも管理されていなかった古い樹脂混合物は不安定になるので危険だと警告されていた。 そこで作業再開は危険だと上司に話したが、上司はその訴えを無視した。 その時マクラスキーは命令を拒否することもできたが、こう思ったと言う。 「私は高校しか出ていなく、この仕事しか知らない。 そして間もなく退職できるというのに今、上司に逆らうことは賭けだ」 そして彼が作業を再開したとき、化学反応が起きグローブボックス(内部に手だけが入れられるよう設計された密閉容器)が爆発した。 「マクラスキーはグローブボックスに茶色の煙がたまっているのを見て、危険を察知し、逃げようとしたがまさにその時、爆発が起きた。 彼が着けていたゴム製防毒マスクは裂け、彼は有毒なアメリシウムを吸入した。 彼の肌には金属片とガラス片が突き刺さり、目は酸で焼け見えなくなった。 彼を治療したハンフォード環境健康財団の医師ブライス・ブレインテンシュテイン医師によれば、マクラスキーはほんの数分で放射線医師が生涯安全と考える500倍の放射線を浴びて被ばくした」(著書より) その後、血まみれのマクラスキーはワシントン州リッチランドにあるハンフォード緊急除染施設に運ばれ、彼はここに3週間近く隔離されていた。 訪れた彼の妻と2人の娘は彼がまだ放出している放射線を恐れ、10メートル以内には近寄れなかった。 マクラスキーは1984年「ピープル」誌に、治療時のことをこう語った。 「多くの医師のうち9人はチャンスは半々だと考え、残りは頭を横に振った」 5カ月間医者は毎日ピンセットを使って、マクラスキーの肌に食い込んだガラス片と金属片を掘り出した。 彼はその痛みを深い信仰によって耐えた。 また医師たちは毎日マクラスキーの肌を擦過し、体毛も剃った。 そして放射性物質を排泄するのに役立つ実験的薬物である「亜鉛DTPA」を600回にわたって注射した。 2015年、医学博士のユージン・カルバウはマクラスキーの除染過程についてこう述べている。 しかし帰宅すると彼は、治療とは別の苦しみに遭遇した。 彼の故郷のワシントン州プロッサーで、彼は今や「アトミックマン」として知られていた。 除染により彼の体からアメリシウムの大部分は取り除かれていたが、頭の近くに放射線検出器を持っていくとまだアラームがなるような状態であった。 このため、人々は彼から放射線が発せられていて危険だと思った。 マクラスキーは人々から避けられ、幾人かの友人は「ハロルド、あなたのことは好きだけど、私は決してあなたの家には行けないよ」と口にした。 1984年のインタビューで彼は、散髪する時も床屋に迷惑をかけたくないので、行く店を転々と替えていると話した。 マクラスキーの妻のエラによると、彼はハンフォード核処理施設を運営するエネルギー省に1億円の損害賠償を訴えた。 しかし政府は賠償金を払うことに難色を示し、結局支払われたのは約3000万円だった。 それもマクラスキーが死亡した時に、検死解剖をするという条件付きのものであった。 事故後、マクラスキーはこう語った。 「時には嫌な気持ちになるが、恨みを持ち続けても事態はさらに悪くなるだけだ」 しかし妻のエラの意見は異なり、「核処理施設の広報は、この事故をよくある産業事故のように見せようとしています。 でもこれは夫の人生を破壊した大惨事なのです」と怒った。 マクラスキーは事故後から死亡するまで、医師によって研究され続けた。 1987年8月、75歳で彼は持病の心臓疾患が原因で亡くなったが、解剖してもがんの徴候は見られなかった。 そして2010年になってようやく、放射線防護服を着た人々がマクラスキー・ルームの清掃を開始した。 施設から汚染された設備は全て取り除かれ、ニューメキシコ州の埋め立て地に処分された。 事故から40年以上たち、マクラスキーがアトミックマンになった場所は遂に解体され、ハンフォード核処理施設の歴史が終わったのだ。 この施設は悪名高いマンハッタン秘密プロジェクトの一環として1943年に建設された。 ハンフォード核処理施設では何十年もの間、核兵器のためのプルトニウムのほとんどを生産し、ここで生産されたプルトニウムは、1945年に長崎に投下された原爆に使われた。 将来的には一般公開される予定で、「マクラスキー・ルーム」と名付けられた部屋も作られる。 この建物の中心部分は、ハンフォード核処理施設で最も有名なマクラスキーの事故があった現場になる予定だ。 「アトミックマン」の記録から、私たちが学ぶべき教訓はまだまだ数多い。

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被曝したらどうなる?(閲覧注意アリ)

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日本初の事故被曝(ひばく)による犠牲者を出した核燃料加工会社「ジェー・シー・オー(JCO)」東海事業所(茨城県東海村)の臨界事故から、30日で20年。 不適切な作業は、2人が死亡、消防隊員や住民が被曝する重大事態を招き、放射線との戦いは現場を混乱に陥れた。 日本の原子力防災体制の転換点となった事故。 対応に当たった関係者は、当時の状況を鮮明に語った。 (福田涼太郎) 「東海村で臨界事故があったようだ」 平成11年9月30日の昼前ごろ。 東京都内で式典に出席していた日本原子力研究所(原研、現日本原子力研究開発機構)元理事長で、当時は東海研究所長だった斎藤伸三(しんぞう)さん(78)は職員からそう耳打ちされ、即座に席を立った。 臨界は核分裂反応が継続して起こる状態で、人体に重い障害を引き起こす中性子が放出され続ける。 「まずいな…」。 現場から約5キロ離れた東海研究所に戻ったのは午後2時50分。 放射線は低減の兆しを見せていない。 「放射線の発生源となっている沈殿槽は、『裸の原子炉』の状態になっている」。 そう確信した。 この時点で、村は国やJCOから満足に情報を得られず、自主的に350メートル圏内の住民に避難を要請するありさまだった。 夕方、東海研究所に国の現地対策本部が置かれた。 「現地対策本部が立ったものの、他に誰も対応できる人がいなかった」 PR.

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臨界事故発生と経過 1999 年9月30 日、午前10時35分頃、茨城県那珂郡東海村の株式会社ジェーシーオー(以下JCO)(注1)の東海事業所・転換試験棟(注2)で、3人の作業員が硝酸ウラニルを製造中、突然の青い閃光と共にガンマ線エリアモニターが発報し、臨界事故(注3)が発生。 3人の作業員が多量の中性子線などで被ばくしました。 この事故で核分裂を起こしたウラン燃料は全部で1 ミリグラムでした。 注1)ジェーシーオー 1980年に、住友金属鉱山核燃料事業部東海工場が独立し、住友金属鉱山の100%出資の子会社として、設立され、1998年までは日本核燃料コンバージョンと称していました。 (注2)転換試験棟での作業内容 転換試験棟は、JCOの本来の業務とは別に、核燃料サイクル開発機構(旧動力炉、核燃料開発事業団、以下核燃機構)から委託された、高速増殖実験炉「常陽」の燃料を加工する試験的な施設でした。 この時は、18. 8%という高い濃縮度のウランの硝酸溶液をバケツを用いて沈殿槽に移送していました。 (注3)臨界事故 臨界とは、核分裂反応が原子炉内のように連鎖的に起こって、継続されていく状態をいいます。 この事故では、原子炉施設でもない核燃料工場の一角に突如、「裸の原子炉」が出現したことになります。 自宅から出ないように」呼びかける。 まずJCOから地元や国への通報が遅れたことが問題です。 消防本部への通報も正確さを欠いていました。 JCOには、一斉送信システムも備えられていなかったそうです。 科学技術庁は約44分後に「臨界事故の可能性」について連絡を受けているのですが、政府が事故対策本部を設置したのはそれから3時間40分も経過しています。 その間住民は危険に晒されていました。 (この点について当時の野中官房長官は「・・・今回のような民間施設での事故は想像を絶する事態だった。 ・・・事故の深刻さの認識があまかったのを率直に認めなければならない。 」と述べています。 1999. 2 朝日新聞)• 東海村が国の判断を待たずに村の措置として住民に避難を要請したことは高く評価できますが、それでも避難開始までに付近の住民はかなり多量に被ばくをしていたと考えられます。 安全宣言については、放射性ガスの放出が約1ヶ月続いていることから考えて、判断が早すぎたと考えられます。 避難の範囲についても根拠があいまいでより広い範囲で被ばくの危険性があります。 風向きの変化を含め避難の方法も再考すべき点がありました。 被ばくの実態 今回の事故では、わずか1mgのウランの核分裂が大きな被害をもたらしました。 ) 臨界による放射線の放出で、東海事業所内の人々はもちろん、付近の多くの住民までが被ばくしてしまいました。 放射線の種類は、中性子線及びガンマ線、そして気体の放射性物質ですが、今回の被ばくの主な原因は中性子線でした。 中性子線は透過力が極めて強く、厚いコンクリートも通り抜けます。 中性子線を止めるのは水素を多く含むものです。 人の体は多くの水でできているので、中性子線は人体によく吸収され、細胞を傷つけたり、死なせたりします。 以下被ばくの状況についてまとめてみましょう。 1.労働者などの被ばく• 5シーベルトの被ばく、一時白血球がゼロになり危険でしたが、その後退院されました。 ) 大内さん、篠原さんの死因は放射線被ばくによる多臓器の機能不全です。 以上の3人の方は、1999年10月6日、急性放射線症で労災に認定されました。 (大内さんの容態については、NHK取材班「被ばく治療83日間の記録」を参照してください。 救急隊員3人 事故の内容を知らされずに出動し、13 ミリシーベルト被ばくしました。 臨界終息のための作業をした人たちや東海事業所の従業員・政府関係機関の職員など最大で120ミリシーベルトに達してします。 その他に50ミリシーベルトを超えてしまった人は6人もいます。 (放射線を扱う作業に従事する人は年間50ミリシーベルトを限度にしています。 この数字は胸につけた線量計によるものです。 ) 2.住民の被ばく JCOの施設は普通の街の中にあります。 臨界事故では、隣接の施設で作業をしていた7人や周辺の住民が長時間中性子線などを浴びました。 はじめ事故調査委員会(事故報告書参照)は、住民の被ばくを7人としていましたが、その後200名が追加されました。 最大の人は、25ミリシーベルト、公衆の年間被ばく線量限度の1ミリシーベルト以上の被ばく者は112名に達しています。 (この数字は科学技術庁の事故調査対策本部が行動調査によって被ばく線量を推定した結果です。 科学技術庁の線量評価については、後述の大泉さんの場合、阪南中央病院の調査の6分の1以下という例もあり、切り下げられています。 )なお、被爆者の総数は、公に認められただけで2000年4 月までに667名にのぼりました。 中性子線・ガンマ線の他,1ヶ月間も放射性ガスが放出されており、付近から放射性ヨウ素群も検出されています。 3.風評被害や心理的影響 参照 事故報告書 原子力安全委員会は、「ウラン加工工場臨界事故調査委員会」を設置し、11回の会合で事故の原因究明や再発防止について議論をしました。 委員会の構成は吉川弘之委員長(日本学術会議会長)を含め24人でその中の2 名は核燃機構のメンバーです。 報告は、1999年12月24 日 大内さんがなくなって3日後にだされました。 1.事故報告書の要旨• 事故原因 直接原因は「使用目的が異なり、臨界安全形状に設計されていない沈殿槽に臨界量以上のウラン溶液を注入したこと」としています。 また、作業工程・運転管理・経営管理についても適切でなかったとし、許認可上の問題点もあげて、今後の規制に生かすべきと書かれています。 しかし、最後の委員長所感では、「直接の原因は全て作業者の行為にあり、責められるべきは作業者の逸脱行為である。 」と結ばれています。 事故対応について 臨界事故が想定されていなかったことから「国の初動対応が十分でなかった」としています。 放射線の影響について 「住民や環境に影響を及ぼすものではない」としています。 2.報告を読んで不十分な点を考えてみましょう• 今後のことを考える時最も大切なのは、事故原因の徹底究明です。 JCOの作業者がなぜ逸脱せざるを得なかったのか、その根本原因をもっと詰めるべきではないでしょうか。 委員会の構成員の中に、発注者である核燃機構のメンバーが入っています。 公正を欠くのではないでしょうか。 転換試験棟は核物質を取り扱う施設ですが、必要な防護が施されていませんでした。 それについて触れなくて良いのでしょうか。 住民や環境に影響はないとされていますが、事故から3ヶ月足らずで報告がだされ、まだ、調査できていないことがあるのではないでしょうか。 今後の防災対策を含め、住民の不安に十分応えて欲しいと思われます。 刑事裁判 事故から1 年半後(2001年4月)水戸地方検察庁は、JCOとその社員6名を起訴し、刑事裁判が始まりました。 罪状は、JCO には労働安全衛生法違反と原子炉等規制法違反、社員6名については業務上過失致死その他で、6名の中には、2人の犠牲者と共に作業をしていた横川豊さんも含まれています。 公判は、計23回開かれ、2003年3月3日に次のような判決がありました。 起訴から判決まで、裁判は臨界事故の真相を究明できたのでしょうか? 裁判の批判と根本原因 裁判は殆ど求刑通りの判決で終了しました。 しかし、真の原因は他にもありそうです。 起訴されなかった部分も含めて考察してみましょう。 前述したように、事故の直接の原因は作業者が中濃縮ウランを規定に反して大量に沈殿槽に入れたことです。 では、なぜ「規定に反して」しまったのでしょう?また、作業者が「規定に反して」過ちをしても臨界にならない方法はなかったのでしょうか?そして、臨界の認識そのものは周知されていたのでしょうか? まず明白なのは、転換試験棟が硝酸ウラニル溶液をつくるようには設計されていなかったことです。 そこで硝酸ウラニル溶液製品をつくり、出荷していたこと、そのことが真の事故原因なのです。 もう少し詳しく調べましょう。 本来、この種の施設では、取り扱い上のミスがあっても絶対に臨界を起こさないような設計が必要とされています。 容器の形やサイズを臨界を起こさないよう制限することを形状管理と言いますが、事故を起こした沈殿槽には、この形状管理が施されていませんでした。 (JCO の多くの作業員は、放射線量をはかるための線量計もフィルムバッチも着用していませんでした。 臨界についての教育も受けていなかったそうです。 また、中性子の測定器やホウ酸水の注入装置もないなど、臨界の恐ろしさに対する認識が欠けていたことがわかります。 JCO は、1983年、科学技術庁に、ウラン使用施設から加工施設への変更申請をしています。 その際の安全審査は科学技術庁と原子力安全委員会で行なわれ、ダブルチェックされたはずなのですが、上記の1の欠陥を見落とし、翌年許可されています。 (安全審査をしていたのは、当時の動燃から科学技術庁に出向していた人でした。 この事業の発注者は核燃機構です。 核燃機構は、粉末ではなく、溶液の製造を「高濃度でしかも均一化して」という無理な形で注文しています。 この均一化工程は、許可申請書には記載されていません。 この注文が施設にあわず作業を難しくさせ、試行錯誤の末規定違反につながったと考えられます。 以上直接原因を作ったのはJCO ですが、それを許可した国と無理な注文と知りながら発注を続けてきた核燃機構に深い原因があることがわかります。 さらに、背景まで探ってみると、斜陽化する原子力産業の中で、コスト削減が要求され、施設の不備やリストラなどの労働条件の悪化が重なり、深刻な事態につながったことを見逃してはならないでしょう。 今後の課題と対策 1954年 米ソの核開発競争のさ中に、「原子力の平和利用」という言葉を用いて、国策として原子力発電が導入されて既に半世紀になります。 この間を振り返ってみますと、大惨事に至らないのが不思議なくらい、国の内外で多くの事故がありました。 「起こらない」はずだった事故はエスカレートし、1995年12月「もんじゅ」ナトリウム漏洩火災事故、1997年3 月の東海再処理工場固化施設火災爆発事故、そして1999 年9月のJCO 臨界事故へと続き、ついに2人の犠牲者と多くの被ばく者を出してしまいました。 今後、絶対にあってはならない事故ですが、要因や原因が解消されていない現状を考えますと、重い課題がたくさんあります。 1.住民の被ばくや風評被害、心理的影響などについて 事故後、住民の被ばく者たちは、「臨界事故被害者の会」を結成し、JCO と交渉を続けてきましたが、十分な対応はありません。 現場から120mしか離れていない自分の工場で働いていた大泉昭一さん、恵子さん夫妻は、体調悪化のため工場も廃業せざるを得ず、ついに,2002年9月3日、損害賠償を求めてJCO と親会社の住友金属鉱山を水戸地裁に訴えて、民事訴訟を起こしました。 被ばくの真実を知ってもらうためです。 住民には様々な心理的影響も広がっています。 今後実態調査や心身のケアーを行ってゆくことが望まれます。 また,風評被害を含めた経済的な損害も大きく、被害者補償の課題は困難を極めています。 (損害補償や心理的影響については「JCO臨界事故と日本の原子力行政」七ッ森書館を参照してください。 ) 2. 防災対策 原子力の中心地東海村での臨界事故は、日本には原子力事故に対する現実的な備えが全くなかったことを露呈しました。 「事故などありえない」と決めつけていたからです。 今後は、原子力政策を抜本的に見直すとともに、万が一に備え、防災体制を整えることが大切です。 原子力産業を規制・監督する機関は、原子力を推進する機関から独立し、より公正で規制権限の強い機関にすることが必要です。 情報を広く公開し、住民や自治体が監視できる体制をつくることが大切です。 モニタリングポストなどの測定設備や防災器具を充実し、万が一に備えてヨウ素剤を各家庭に配給しておくことが望まれます。 事故を想定した防災訓練を徹底し、自治体独自で避難できる体制を作ることが必要です。 緊急時の医療体制の再検討が望まれます。 おわりに JCO は2003年8月末,国に対して転換試験棟内部の解体撤去を申請しました。 これに対して、企業や国から独立した市民による検証と次世代への教訓のために保存してほしいという主張があります。 事故を忘れないために。 最後に大内さんを司法解剖した三澤章吾医師の次の言葉でこの項を締めくくりたいと思います。 「もう一つ大内さんが訴えていたような気がしたことがあります。 それは、放射線が目に見えない、匂いもない普段多くの人が危険だとは実感していないということです。 そういうもののために、自分はこんなになっちゃったよ、なんでこんなに変らなければならないの、若いのになぜ死んでいかなければならないの、みんなに考えてほしいよ。 心臓を見ながら,大内さんがそう訴えているとしか思えませんでした。 JCO臨界事故患者の初期治療 鈴木 元 保健物理 35, 4-11 2000年.

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