本能寺 の 変 信長 遺体。 本能寺の変、死を覚悟した信長がとった最期の行動 織田信長「遺体」の行方は? 戦国時代の謎と真実に迫る(1/3)

織田信長の死因は何だったのか? 遺体は見つかっていない?

本能寺 の 変 信長 遺体

粉々になったんでしょう 本能寺の地下に何らかの空間があったのは発掘調査でも明らかになっています そこが火薬庫だったと言う確証はありませんが ルイス・フロイスの日本史には「信長様は本能寺の地下に多量の火薬や火縄銃などを備えてある」と記載があります 本能寺が燃えていた時間は30分程度 しかし延焼する前に地下の火薬に引火して吹っ飛んだなら辻褄は合います 爆発すれば燃えずに粉々になりますからね ただ 爆発と言っても小規模で 京都中が大火になった などと言う記録はありません 当時二条御所にいてそそくさと脱出して難を逃れた誠仁親王の記録にも 火の手が上がった本能寺で突然大音が響いた と記録しています とすれば この爆発で信長が粉々になった と考えるのが自然でしょう ちなみに本能寺に居た殆どの従者の遺体が発見されていません 記録では当日本能寺に居た者は100名程度 しかし遺体が見つかったのは10数名です それから森蘭丸の遺体も実際は見つかってません 安田国継や明智方の記録では蘭丸の遺体を見つけたとありますが 「信長公記」や「日本史」では信長と蘭丸の遺体は発見されなかった とあります ちなみに この2つの資料の信憑性は第一級品です 蘭丸は信長の最も近くにいた小姓です 爆発に巻き込まれ粉々になったと考えても不思議ではありません 蘭丸の弟の坊丸と力丸の遺体は確認されています もしかすると それを蘭丸と見誤った可能性も否定は出来ません 外国人宣教師の記録に、「本能寺には大量の火薬が貯蔵されており、最後はこれに引火し大爆発した」という記述があります。 もし、信長が大量の火薬に囲まれて爆死したとしたら、焼死体どころか、遺体は粉々になって燃え尽き、本当に何も残らなかったでしょう。 本能寺跡の発掘調査では、「焼けた瓦も一部にあるが、焼けていない瓦も大量に発掘されたため、本能寺の炎上は半焼程度だった可能性が高い」ことが明らかにされました。 襲撃した明智方からしたら、信長の首をなんとしてでも持って帰りたいので自分の方から火をかけることはありません。 とすると、本能寺での出火は、信長が自害するにあたって火を掛けさせたとしか考えられませんが、本能寺の襲撃はわずか30分で終わったとされています。 大きな寺を確実に燃やすほどの入念な準備をしている時間はありませんでした。 なにしろ木造といえども大きな建物であれば、普通に火をかけても勢いよく燃え上がるには何時間かはかかります。 (また、仮に信長が自害して火をかけた時点では一部の建物しか燃えていなかったとして、数時間して勢いが強まって寺全体に火が回ったのだとしたら、本能寺はそのまま間違いなく「全焼」していたはずです。 ) つまり発掘調査の「瓦の半分は焼けていなかった」「半焼だった」というのは、炎が急激に燃え上がり、そして急激に勢いがなくなり鎮火した・・・ということを如実に示しているのではないか・・・それはとりもなおさず「火薬」が使われたからではないか・・・と推測します。 蘭丸に関してはで明智光秀配下の安田国継に討ち取られてますので、首はのこってますので見れば分かるでしょう.

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【織田信長の噂】信長の遺体が見つからない理由と天皇に就任しようとしていた説

本能寺 の 変 信長 遺体

Contents• 織田信長の遺体を探すも見つからず 明智光秀が本能寺を包囲したのは、午前6時頃で典型的な奇襲作戦でした。 諸説ありますが、本能寺は城郭寺院とも言われており、それなりの防御力はあるようですが、1万~3万の大軍の前にはいくら戦上手の信長でも、為す術はなかったことでしょう。 焼け落ちた本能寺で明智光秀はまず、織田信長の遺体を探しますが見つけることができませんでした。 その後、山崎の合戦にて光秀を破った羽柴秀吉も、信長の遺体を捜索させるも見つかりませんでした。 そのため、京都で行われた織田信長の葬儀には、見つからない遺体の代わりに等身大の木像を作らせて、その遺灰を骨壺に納めました。 このように、戦国時代の合戦において、特に負けた側の 大将の遺体を確保するのは、 最重要課題とされていました。 合戦において、打ち取られれば首を取られると言うのが、この時代の常識だったのです。 どうして信長の首が必要だったのか? 信長を追い詰めることに成功した光秀ですが、それを世間に知らしめるには証拠が必要でした。 この時代、【 織田信長を獲ったど~!】だけでは信じてもらえず、証拠がないと、まだ信長様は生きているという噂まで流れてしまいます。 これから、 天下分け目の戦いにたくさんの大名たちを取り込むには、信長を討ち取った証を示し味方に引き入れなければいけませんでした。 その証である、信長の首が無いと【 信長はどこかへ逃げていて軍を整えてまた来るのでは?】と思われ、光秀の味方になることができないのです。 一方で、羽柴秀吉は信長の遺体の見つからないのを逆手に取り、【 信長様は生きているからともに光秀を討とう!】と呼びかけていたほどです。 合戦の後は首実検後にさらし首 この時代、合戦に勝ったものは、相手の大将の首を本人かどうか確かめるために、 首実検を行いました。 現代のように写真やメールなどなかった時代なのだから、打ち取った敵の大将が本物であるか、元の家臣や接点のあったものを呼び確認作業を行いました。 この首実検で本人確認が取れると、さらされることになり、敵の大将を討ち取ったと公にしたのです。 首がさらされることで、他国や自国に敵の大将が打たれたと言う事を知らしめる事が出来ました。 一定期間さらされた首は埋葬され、首は首塚として、胴は胴塚としてほとんどの場合別々で埋葬されました。 織田信長自身も合戦のたびに、首実検を行ってきました。 1560年の桶狭間の戦いでは、 今川義元の首を清須城に持ち帰りさらし首にしています。 1573年の浅井・朝倉攻めでは、 朝倉義景と浅井長政の首を頭蓋骨に漆と金粉をまぶし新の宴の際に披露しています。 このように敵将の首をさらすという行為は、信長自身もとても効果のある事と理解してことから、自らが死に直面した時、真っ先に考えたのは死後の自分の遺体の扱われ方だと想像します。 自分の遺体が光秀の手に渡れば、必ずさらし首にされ、明智光秀の謀反が正当化されることは、信長自身がよく理解していたことでしょう。 さらし首になると言うのは、 名誉の戦死ではなく、罪人として殺されたことになるのです。 史料の【 信長記】では、本能寺を落とした明智光秀は、 「首を求めけれども更に見えざりければ、光秀深く怪しみ、最も其の恐れ甚だしく、士卒に命じて事の外尋ねさせけれども何とかならせ給ひけん、骸骨と思しきさへ見えざりつるとなり。 」 と記載されています。 この文面からわかることは、 織田信長の首を捜索させたが骨すら見つからず、明智光秀はいら立ちを隠せない様子だったようです。 もし明智光秀が織田信長の首を見つけることができたのなら、謀反の大義名分を得ることができ、その後に行われた羽柴秀吉との決戦にも多くの味方を引き入れることができ、勝つことができたかもしれません。 <スポンサーリンク> 織田信長の遺体はどこにいったのか? さて、問題の織田信長の遺体はどこへ行ったのか? ここで考えられるのは、 何者かが信長の遺体を本能寺の外へ運んだか、 本能寺と共に遺体を完全に焼き切ったかどちらかです。 この謎も様々な研究がなされており、実際に本能寺から織田信長の遺体が運ばれたと言う説もあります。 その説が出てきたのは、織田信長の遺体を埋葬したという寺の伝承をもつ寺院が二つ存在することから始まります。 一つ目は、京都にある 浄土宗の阿弥陀寺で、本能寺の変の直後、信長とかねてから親交のあった清玉上人が、信長の遺体を運び、埋葬したと言われています。 寺の境内には、【 織田信長信忠討死衆墓所】があり、信長以外に信忠や森蘭丸などの本能寺の変で討ち死にした面々も共に弔われています。 しかし、 清玉上人が本能寺から信長の遺体を運び出すことができたのならば、秀吉がわざわざ信長の木像を焼いて遺灰代わりにする必要がありません。 また、この寺は織田家ゆかりの人が埋葬されていることから、本能寺で討ち死にした人たちを集めて、まとめて供養したのかもしれません。 二つ目は、現在の静岡県である 駿河国の日蓮宗の西山本門寺です。 この寺の日海上人が本能寺の変前夜に鹿塩利賢と囲碁の対局を行っています。 ちなみに、日海上人はのちの本因坊算砂と言う囲碁の名手なのはまた別の話です。 この 日海上人が本能寺で織田信長が自害したのち、信長の首をひそかに持ち出し本門寺に埋葬したと言われています。 この説も京都から駿河へ行くには、尾張を通るわけで嫡男・信忠が自害したとしても、他の親族や織田家家臣たちに首を渡さず尾張をスルーするのは少し疑問が残ります。 敗将が一番恐れているのは、 戦死ではなく死んだ後の自身の首の行方だったのは、織田信長も良く知っているはずです。 この時、信長は信忠の死を知りません。 自分の首が光秀に渡れば、自分の子供たちを危険にさらされてしまうと考えるのは自然の流れだと思います。 そう考えたときに信長は、 自分の遺体をわからないほど焼かせる か 本能寺以外へ運ばせる 以外に選択肢はないと考えます。 光秀に見つかり途中で奪われるリスクを考えたら、灰も残らないほど焼くと言うのが一番ではないかと思います。 実際に、イエズス会の宣教師 ルイスフロイスの日本史でも、【 髪から骨まで灰燼となった】と記しています。 また、本能寺にはたくさんの火薬が保管されていたことから、 爆発的な火災になり遺体が確認できないほどバラバラになったとも考えられています。 まとめ 明智光秀による動機もさることながら、討たれた本人信長の遺体のありかまで謎が多い本能寺の変で、調べれば調べるほどそれらしい説が出てきてきりがありません。 遺体と言えば、明智光秀自身が打たれた時にも遺体の身元がハッキリと分からなくて、 明智光秀=南光坊天海と言う説がありましたね。 それほど、首実検と言うのは当時の大名たちにとっては大切だったと言う事なのかもしれません。

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本能寺の変~信長の遺体

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粉々になったんでしょう 本能寺の地下に何らかの空間があったのは発掘調査でも明らかになっています そこが火薬庫だったと言う確証はありませんが ルイス・フロイスの日本史には「信長様は本能寺の地下に多量の火薬や火縄銃などを備えてある」と記載があります 本能寺が燃えていた時間は30分程度 しかし延焼する前に地下の火薬に引火して吹っ飛んだなら辻褄は合います 爆発すれば燃えずに粉々になりますからね ただ 爆発と言っても小規模で 京都中が大火になった などと言う記録はありません 当時二条御所にいてそそくさと脱出して難を逃れた誠仁親王の記録にも 火の手が上がった本能寺で突然大音が響いた と記録しています とすれば この爆発で信長が粉々になった と考えるのが自然でしょう ちなみに本能寺に居た殆どの従者の遺体が発見されていません 記録では当日本能寺に居た者は100名程度 しかし遺体が見つかったのは10数名です それから森蘭丸の遺体も実際は見つかってません 安田国継や明智方の記録では蘭丸の遺体を見つけたとありますが 「信長公記」や「日本史」では信長と蘭丸の遺体は発見されなかった とあります ちなみに この2つの資料の信憑性は第一級品です 蘭丸は信長の最も近くにいた小姓です 爆発に巻き込まれ粉々になったと考えても不思議ではありません 蘭丸の弟の坊丸と力丸の遺体は確認されています もしかすると それを蘭丸と見誤った可能性も否定は出来ません 外国人宣教師の記録に、「本能寺には大量の火薬が貯蔵されており、最後はこれに引火し大爆発した」という記述があります。 もし、信長が大量の火薬に囲まれて爆死したとしたら、焼死体どころか、遺体は粉々になって燃え尽き、本当に何も残らなかったでしょう。 本能寺跡の発掘調査では、「焼けた瓦も一部にあるが、焼けていない瓦も大量に発掘されたため、本能寺の炎上は半焼程度だった可能性が高い」ことが明らかにされました。 襲撃した明智方からしたら、信長の首をなんとしてでも持って帰りたいので自分の方から火をかけることはありません。 とすると、本能寺での出火は、信長が自害するにあたって火を掛けさせたとしか考えられませんが、本能寺の襲撃はわずか30分で終わったとされています。 大きな寺を確実に燃やすほどの入念な準備をしている時間はありませんでした。 なにしろ木造といえども大きな建物であれば、普通に火をかけても勢いよく燃え上がるには何時間かはかかります。 (また、仮に信長が自害して火をかけた時点では一部の建物しか燃えていなかったとして、数時間して勢いが強まって寺全体に火が回ったのだとしたら、本能寺はそのまま間違いなく「全焼」していたはずです。 ) つまり発掘調査の「瓦の半分は焼けていなかった」「半焼だった」というのは、炎が急激に燃え上がり、そして急激に勢いがなくなり鎮火した・・・ということを如実に示しているのではないか・・・それはとりもなおさず「火薬」が使われたからではないか・・・と推測します。 蘭丸に関してはで明智光秀配下の安田国継に討ち取られてますので、首はのこってますので見れば分かるでしょう.

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