多摩川 トライアングル どこ。 鶴見川と多摩川、どこで差がついたのか

多摩川氾濫はどこ?二子玉川駅周辺、川崎市高津区諏訪の平瀬川氾濫情報、2019年台風19号のまとめ

多摩川 トライアングル どこ

玉川上水 内を流れる玉川上水 延長 43 元 () () 先 - 流域 備考 国の 玉川上水(たまがわじょうすい)は、かつて市中へ飲料水を供給していた上水(として利用される)であり、の一つである。 多摩の羽村からまでの全長43kmがに築かれた。 また、一部区間は、現在でもの現役の水道施設として活用されている。 でから取水し、を東流し、現在の四谷四丁目交差点付近のに付設された「水番所」(水番屋)を経て市中へと分配されていた。 羽村から大木戸までの約43キロメートルはすべて露天掘りで、水番所以下は木樋や石樋を用いた地下水道である。 羽村から四谷大木戸までの本線は武蔵野台地の尾根筋を選んで引かれているほか、大規模な分水路もおおむね武蔵野台地内の河川のを選んで引かれている。 (7年)以降のによって、やなど多くの(用水路)が開削されての農地へも水を供給し、農業生産にも大いに貢献した。 羽村堰近くに建つ玉川兄弟像 井の頭の水を利用する為に、鈴木・秦 久我山 の両豪族によってからの区間が掘削され、更に高井戸から北沢用水として方面へ分水がされていた。 『玉川上水起元』()によれば、元年()、によりの飲料水不足を解消するため多摩川からの上水開削が計画された。 工事の総奉行にで主の、水道奉行に(没後は)が就き、庄右衛門・清右衛門兄弟()が工事を請負った。 資金として公儀6000両 が拠出された。 幕府から玉川兄弟に工事実施の命が下ったのは1653年の正月で、着工が同年4月、四谷大木戸までの本線開通が11月15日とされるが、1653年2月10日着工、翌年8月2日本線開通とする史料もある。 羽村から四谷までの標高差が約100メートルしかなかったこともあり、引水工事は困難を極めた。 2度目はを取水口としたが岩盤に当たり失敗した。 こうした事情を受けて、総奉行・松平信綱は家臣の川越藩士を設計技師に起用。 この第3案に従って工事を再開し、約半年で羽村・四谷大木戸間を開通し、承応2年()11月に玉川上水はついに完成。 翌承応3年()から江戸市中への通水が開始された。 しかし、工費が嵩んだ結果、まで掘ったところでついに幕府から渡された資金が底をつき、兄弟は家を売って費用に充てたという。 庄右衛門・清右衛門は、この功績により玉川姓を許され、玉川上水役のお役目を命じられた。 なお、玉川上水の建設については記録が少なく、よく分かっていないことも多い。 安松金右衛門についてはの『安松金右衛門』に詳しく記されている。 給水地域 [ ] 玉川上水の給水地域は『』に簡略で分かり易く説明されている。 この節のが望まれています。 営繕 [ ]• 水上修復料銀 水番屋、水衛所 [ ] 江戸の飲料水の貴重な水源であり、水質を守るため、洗い物、、水浴び、塵埃の投棄などはご法度とされ、厳重に取り締まられていた。 また水路の両側幅3間は保護地帯とし、樹木の伐採のみならず下草刈りの類も厳禁であった。 羽村、代田村(現在の京王線付近)、および四谷大木戸には水番所(水番屋)がおかれ、水番人が詰めて塵芥の除去などを行っていた。 このほか大木戸の水番所は、市中への配水量を調節しつつ、余った水を() へと放流する役割も行っていた。 近代になるとより多数の「水衛所」が置かれ 、同様の管理を行ったが、淀橋浄水場の閉鎖とともに多くの水衛所は役割を終えた。 現在はが水質監視・管理の業務を行っている。 上水の桜 [ ] 上水沿いには桜()の木が多く植えられた。 花見客に堤を踏み固めてもらうのと、桜の花びらが水質を浄化すると信じられていたことによる。 なかでも「小金井の桜」は評判を得、江戸期から戦前にかけて多くの花見客で賑わった。 13年に国のに指定された。 流域の自治体 [ ] 東京都 、、、、、、、、、、、、 流路 [ ] - - - この節では、玉川上水の流路について、現在の状況に基づいて概観する。 現在の玉川上水は、保存状態・利用状況の違いによって、おおまかに3つの区間に分けて考えることができる。 すなわち、上流から順に、「多摩川からの導水路として今も供用されている区間」、「清流復活事業によって少量の水を流している区間」、「大部分が暗渠化され、水路としても水辺としても利用されていない区間」である。 以下では便宜的に、これらの区間をそれぞれ「上流部」、「中流部」、「下流部」と呼ぶこととする。 上流部(羽村取水堰から小平監視所まで) [ ] 江戸時代同様、多摩川から取水した水がそのまま流れ、水量も豊富な区間である。 東京都羽村市のでの水を取水し、東流する。 2立方メートルの水が用水の原水として利用されている。 取水された水の大部分は、取水堰の下流約500メートルに位置する第3水門( )から埋設鉄管によって(狭山湖)・(多摩湖)へ送水され、最終的にはにあるで利用される。 残りの水はさらに下流、・の付近の清願院橋から300メートルほど下流にある(旧称:小平水衛所)で取水され、東村山浄水場、および現役の農業用水路であるの双方に送水されている。 なお、小平監視所は、かつては玉川上水との分水地点であった。 小平監視所。 多摩川からの水が見られるのはここまで。 (立川市幸町6丁目・小平市中島町 ) 中流部 (小平監視所から浅間橋まで) [ ] 東京都のに従って処理水を流している区間である。 古くからの樹木がよく茂り、豊かな木立に覆われている箇所が多い。 小平監視所より下流は、かつては多量の水がのまで送られていたものの、(昭和40年)の同浄水場廃止とともに送水を停止し、以降は水道施設としての利用はない。 宮沢町にあるにて高度二次処理を施したが、このために送水されてきている。 流路は一貫して東流、ないしは南東流をつづける。 小平キャンパスの傍らにある商大橋地点から前述の境橋まではと併走。 その後の脇を流れ、の直下をくぐりぬけ、を横断し、の500メートルばかり南方を並ぶようにして流れる。 ・の南方、往時には橋が架かり浅間橋(せんげんばし)と呼ばれていた地点の付近でにぶつかる。 開渠区間は浅間橋の200メートルほど上手でひとまず終わっており、清流復活事業の区間も当地点までとなっている。 開渠の終了地点 (杉並区久我山 ) 下流部(浅間橋から水道局新宿営業所付近まで) [ ] この区間では、一部の例外を除いて、水路のほとんどが暗渠化されている。 しかしながら、道路の下になってしまった一部の区間を除き、大半の区間では流路の痕跡を辿ることができる。 現在では、その多くはや公園として整備されている。 浅間橋からしばらくの区間は、中央自動車道の下に隠れる形になり、同道建設時に化されている。 流水は1キロメートルほど地下を流れた後、と交差するかつての中の橋地点にて同線に埋設された鉄管へと導かれ、前付近でに放流されている。 北方地点から、流路は中央自動車道を離れ、公園として整備された形態がしばらく続く。 との交差地点では玉川上水が線路をまたぐ形になっており、地上に露出した巨大な鋼管を見ることができる。 そのすぐ東には、流路の真上に立地する形で東京都水道局のが設置されている。 ここはかつて旧上水と玉川上水新水路との分岐点であった。 京王線付近から付近にかけては、一部区間(3ヶ所)が暗渠化を免れて遺っており、流れはほとんどないものの水を湛えていて、鯉や亀などの姿が見られる。 これは付近の地層から湧出したが流下しているもので、上流の高度処理水よりも水質がよい。 京王線・間にある本町一丁目交差点地点から東方・西新宿二丁目交差点地点までは、(昭和11年)以来、京王線の敷地として利用されている。 当初は玉川上水に並行して電車が走っていたが、その後上水は暗渠化されて路線用地に転用された。 現在は路線も地下化され、地上部は遊歩道などに再転用されている。 新宿駅近辺より東では、玉川上水の面影は再び途絶えるように見えるが、流路は地下に保全されている。 1986年(昭和61年)の清流復活事業に際し行われた東京都の通水試験では終点のまで通水可能であった。 終点に近い付近では、旧上水は御苑北縁の道路下に埋設されていて、大雨時などの越流時には千駄ヶ谷幹線()へ連なる排水路として利用されている。 地上には新宿区により「玉川上水を偲ぶ流れ」(玉川上水・内藤新宿分水散歩道)の整備が進められ 、2012年3月に完成した。 この流れの水源には共同溝内に湧出した水を使用している。 玉川上水の終点である旧四谷大木戸地点には東京都水道局新宿営業所及び新宿区立四谷区民センターがあり、傍らに「水道碑記」(すいどうのいしぶみのき)が建てられている。 往時、ここに水番所があり、ここから先は埋設された石樋・木樋を通して市中各地へと配水していた。 同左(2010年4月25日撮影) 玉川上水新水路 [ ] (31年)、の新設に伴い、現在の和泉給水所地点から浄水場まで定規で引いたような一直線の水路が開削され、これを新水路と呼んだ。 1921年の竜ケ崎地震で一部が損壊したが、後に旧水路から新水路への揚水用ポンプ8台が畠山一清による寄付で設置された。 の発生時には、隧道部の損壊や盛土が崩壊して水路が決壊したため 、旧水路と揚水用ポンプが利用された。 1937年(昭和12年に)には、代わりとなる導水管が甲州街道の下に埋設され、新水路は廃止された。 跡地のほとんどは、と都営住宅に転用されている。 上水の分水 [ ] 『上水記』によれば、玉川上水からは飲料および目的で33の分水が作られ、武蔵の開発などが行われる。 明治3年()には、複数の分水口をまとめる分水口改正が行われ、取水箇所の整理が行われた。 一方、明治期に新たに開設された分水も存在する。 主な分水口 往時のと玉川上水()。 手前のT字路が新宿追分(現在の)、最奥部にの水番所が見える。 江戸期 [ ]• (2年)4月4日 - 開削工事開始。 同年11月15日 - 羽村 - 四谷大木戸間開通。 (承応3年)11月 - 四谷大木戸 - 虎ノ門間が開通。 江戸市中への通水が開始される。 (万治2年) - 維持管理費用として水上修復料銀(みなかみしゅうりりょうぎん)の徴収が始まる。 近代 [ ]• 江戸幕府の滅亡とともに一時期厳重管理が途絶える。 (3年)4月15日 - 通船が許可され、農産物等の水運が可能になる。 (明治5年)4月15日 - 船員による汚染(とりわけ上水への放尿)事例多発のため、通船が再度禁止される。 これ以降水源地としての(三多摩地区)の管理の重要性が認識され、後の編入の理由となったという。 夏 - 流行。 多摩川上流でコレラ患者の汚物を流したとの流言が東京市内に広まる。 (明治23年)3月 - の衛生局雇間技師が下の水道建設のための調査設計報告書を提出。 計画では、玉川上水路により多摩川の水を千駄ヶ谷村の浄水工場に導き、沈殿・ろ過した後、麻布及び小石川の給水工場へ送水し、浄水工場に併設された給水工場を含めて3箇所の給水工場からポンプ圧送あるいは自然流下で市内に配水しようとするものだった。 11月 - 前年のバルトン案を内務省技師補だったが再検討、浄水工場設置場所を千駄ヶ谷村から淀橋町に、給水工場設置場所を麻布・小石川から本郷・芝へ変更、さらに和田堀、淀橋間に新水路の築造する計画案に変更された。 4月 - 東京市街の飲料水汚染防止のため、三多摩地区が神奈川県からに移管される。 12月1日 - 完成(現在のエリア)。 原水は玉川上水を利用し、杉並区から淀橋浄水場まで新水路を敷設。 1月 - 全域に給水開始。 6月 - 東京市が上水としての及び玉川上水(代田橋から四谷までの旧水路)を廃止。 11月 - 三鷹村(現・三鷹市)の付近で児童が玉川上水に落ち、救出のために・松本虎雄がした。 1921年12月8日 - により損壊し、東京市は3日間断水した。 - 関東大震災。 村付近など4箇所で新水路の一部が破損し、9月13日の復旧まで旧水路を使用した (江戸時代に作られた旧水路は無事であった)。 - 現在の和泉給水所付近から淀橋浄水場まで直下に導水管を新設。 新水路は廃止。 6月13日 - 北多摩郡三鷹町(現・三鷹市)にて、がと共に自殺。 現代 [ ]• 3月31日 - 浄水場機能のへの移転により、淀橋浄水場廃止。 杉並区高井戸以東の水路は一部を残し暗渠化。 千川上水取水分を除き、原水は(東京都小平市、完成)から東村山浄水場へ送水。 - 杉並区高井戸以東の水路の一部が中央自動車道建設用地に転用される。 - 王子工場が千川上水からの取水を停止。 以降、小平監視所以東ほぼ空堀化。 ただし、三田用水への配水のため、からは放水。 8月 - 恵比寿工場の水道水への切り替えにより、三田用水も廃用となり、境浄水場からの放水も停止。 8月27日 - 東京都の「」により、小平監視所以東に下水処理水を使用して水流が復活。 12月19日 - 東京地方裁判所で国と東京都間の調停が成立し、玉川上水の所有権が東京都に帰属することが確定。 8月 - 開削350年。 に基づく国のに指定。 7月 - 「玉川上水保存管理計画策定に関する委員会」を東京都水道局内に設置。 3月 - の名所であった玉川上水堤の桜並木を復活させるため、「玉川上水・小金井桜整備活用計画」が立案され、からまでの640mがモデル区域に指定され、95本のの苗木が補植された。 4月 - 新宿御苑北縁に、新宿区による「玉川上水・内藤新宿分水散歩道」(大銀杏区間)が完成。 9月 - 東京都水道局が東京水道名所の一つに選定。 史跡指定 [ ] 玉川上水は、初期における優れた測量技術に基づいた長大な土木構造物であり、当時の水利技術を理解していく上で重要であり、さらに、大都市江戸の用水供給施設として、また武蔵野台地における近世用水としても貴重な土木遺産であることから、2003年(平成15年)8月に国のに指定された。 指定範囲は、羽村取水口から四谷大木戸までの水路敷のうち開渠部分の約30. 4キロメートルである。 脚注 [ ] []• 渡部一二『図解武蔵野の水路:玉川上水とその分水路の造形を明かす』東海大学出版会、2004年、14ページ• 7500両とする資料もある。 渡部前掲書、2-3ページ• 渡部前掲書、3-5ページ• この功績により、信綱は幕府より建設の許可を得たとされる。 渡部前掲書、3ページ• 4年に建てられたには、「此上水道において魚を取、水をあび、ちり芥捨べからず 何にても物あらひ申間敷 並両側三間通に在来候 並木・下草其外草刈取申間敷候事」と記されていた。 この文面は、大木戸水番所跡に設置された新宿区教育委員会による銘板にも参考として記載されている。 新宿御苑内に源頭をもち渋谷へと流れる。 水番所からは数百メートルばかり離れているが、水路で結ばれていた。 『江戸名所花暦』には「開花のとき小金井橋のうへより是を望めば、岸を挟む櫻繽紛として前後つくる所をしらず」また「小金井橋より西は眼もおよばず、両岸花咲つづきて白雲の中に遊ぶがごとし。 貫井橋、留橋、車田新田両岸果てしなくみな櫻なり」とある• () - JR線路下の地中を通る玉川上水を保全しつつ進める工事の様子が図示されている。 2011年8月26日閲覧。 39-46, 歴史地震研究会• 580-591, :, 土木学会• 給水地は・地区であった。 の園内に碑がある。 比留間博『玉川上水 -親と子の歴史散歩-』財団法人たましん地域文化財団、1991年、195ページ• 読売新聞(都内版)2003年5月7日付け夕刊1面「玉川上水 40年論争決着」• 小金井市、2013年12月21日• (東京都水道局・東京水道名所)• 『』朝刊2017年9月22日(東京面) 参考文献 [ ]• 『日本の歴史 16 元禄時代』(1974年、)• 「御府内備考巻之6御曲輪内之4玉川上水」『』第1巻、、、1929年8月。 関連項目 [ ]• - - -• - -• 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - 国指定文化財等データベース()•

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<東急が経営構想>「綱島」と「新横浜」は再開発など仕掛けるエリア拠点に

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多摩川のダム~満々と水をたたえた小河内ダムと奥多摩湖 多摩川水系には、小河内ダム・白丸ダム・村山上ダム・村山下ダム・山口ダムの5つのダムがあります。 このうち、小河内ダムと白丸ダムは多摩川本川に設置したダム、村山上ダムと村山下ダムおよび山口ダムは多摩川から取水した水を内陸部の貯水池に貯留するためのダムです。 ここでは、これら5基のダムについてその概要を紹介します。 多摩川は笠取山を源流とし、山梨県・東京都・神奈川県を流下して東京湾にそそぐ、全長138kmの大河です。 したがって、小河内ダムは、多摩川の事実上の出発点ともいえる重要な位置にあるダムなのです。 まずはこの由緒ある小河内ダムからスタートして、「多摩川のダム」を順次、観ていくことにしましょう。 ダム名 堤高 形式 用途 ダム湖名 管理 小河内ダム 149. 0m 重力式 コンクリートダム 水道用水・発電 奥多摩湖 (小河内貯水池) 東京都 (水道局) 白丸ダム 30. 3m 重力式 コンクリートダム 発電 白丸湖 (白丸調整池) 東京都 (交通局) 村山上ダム 24. 2m アースダム 水道用水 多摩湖 (村山上貯水池) 東京都 (水道局) 村山下ダム 34. 5m アースダム 水道用水 多摩湖 (村山下貯水池) 東京都 (水道局) 山口ダム 33. 5m アースダム 水道用水 狭山湖 (山口貯水池) 東京都 (水道局) 多摩川のダム(個別解説):多摩川本川に設置したダム 小河内ダム(おごうちダム) 小河内ダム(画像:wikipedia) 小河内ダムは、東京都水道局が多摩川上流の東京都奥多摩町に建設したダム。 水道専用ダムといわれていますが、発電にも利用されています。 1936年着工、57年完成。 貯水池は奥多摩湖。 奥多摩湖に蓄えられた水は、ダム直下の多摩川第1発電所で発電に使用後、多摩川に放流され、下流の小作取水堰(3. 4km下流)と羽村取水堰(3. 6km下流)で水道原水として取水されます。 取水された原水は、地下導水路を経て村山貯水池(多摩湖)と山口貯水池(狭山湖)に送水され、そこから東村山浄水場および境浄水場に送られて都民の水道水として各家庭に供給されています。 ちなみに、多摩川第1発電所(東京都交通局管理)の最大出力は1万9千kW。 ここで作られた電気は、約6キロメートル下流にある東京電力の変電所へ送られ東電に売電されています。 白丸ダム(しろまるダム) 白丸ダム(画像:ダム便覧) 白丸ダムは、小河内ダム下流の多摩川に築造された東京都交通局管理の発電専用ダムです。 ダム左岸の住所は東京都奥多摩町白丸。 JR青梅線の白丸駅または鳩ノ巣駅から歩いて行けます。 白丸ダムで堰き止められた水は、同局の多摩川第三発電所およびダム直下の白丸発電所に送水され、合計最大1万7,500kWの電力を水力発電します。 発電した電気はすべて東電に売電されています。 どうして東京都交通局が発電用ダムを持っているのか不思議ですが、じつは、1911年(明治44年)に発足した東京市電気局が発電供給事業を行なっていたからです。 1942年(昭和17年)に電気の供給事業は廃止しましたが、翌年に東京都制が施行された時に東京市電気局は東京都交通局に改称され、いまでも発電事業だけを継続して実施しています。 多摩川のダム(個別解説):内陸部に設置したダム 村山上ダム/村山下ダム 村山上ダム(左)、村山下ダム 右) 東大和市の狭山丘陵の渓谷に造られた東京都水道局が管理するダム。 貯水池は西側(上流側)の村山上貯水池と東側(下流側)の村山下貯水池に分かれていますが、両者を合わせて「村山貯水池」=通称「多摩湖」と呼ばれています。 村山貯水池は東京都水道局の水源のひとつ。 多摩川の水を羽村取水堰で取り入れ、導水管にて村山貯水池に導いて貯水し、東村山浄水場と境浄水場に原水を送水しています。 二つのダムはいずれもアースダムで、周辺の丘陵地とも調和がとれた美しいフォルムを形成しています。 とりわけ村山下ダムは、ダム堤体を含めてサイト全体が都立狭山自然公園になっていて、四季を通じて大勢の人々の憩いの場所になっています。 村山下第一取水塔(画像:ダム便覧) ここの取水塔(村山下第一取水塔)は、日本で一番美しい取水塔だとも言われています。 大正14年の建設で、ネオ・ルネッサンス様式。 土木学会の「日本の近代土木遺産~現存する重要な土木構造物2000選 」にも選定されています。 後に類似デザインで第二取水塔が建設されました。 山口ダム(やまぐちダム) 山口ダム(画像:ダム便覧) 村山貯水池に隣接して、東京都水道局が建設した水道専用のアースダム。 多摩川の小作取水堰および羽村取水堰から導水した水を主要な水源としていますが、一部金堀沢や大沢などの天然の湧き水も流れ込んでいます。 貯水池の正式名称は山口貯水池ですが、一般には通称名である狭山湖と呼ばれています。 山口貯水池は隣の村山貯水池と連絡管でつながっていて、両貯水池は一体運用されています。 貯水した原水は東村山浄水場と境浄水場へと導かれ、東京都の上水道として供給されます。 なお、隣接する村山貯水池がダムも含めて東京都(東大和市)に位置するのに対して、山口貯水池の方はダムともに埼玉県(所沢市および一部入間市)に位置しています。

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多摩川梨のご紹介|管内の農業|JA東京みなみ

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現在東京でのナシ生産の中心は稲城市周辺です。 JA東京みなみの管内には稲城市(110戸)と日野市(25戸)のナシ生産農家があります。 ナシ栽培は、元禄年間(1688~1703)に川島佐治衛門と増岡平右衛門が山城国(現在の京都府東南部)に旅をして、「淡雪」という品種を持ち帰ったこ とが始まりとされている。 その後、天保、弘化の頃に増殖され、江戸時代末には長沼村・矢野口村(現在の稲城市)、菅村(現在の川崎市多摩区)にかけてナシ 畑が広がり、長沼村には10数戸の栽培農家があったといわれています。 明治17年に13名のナシ栽培農家により共盟社が設立され、苗木や肥料、かご(ナシかごには明治30年代から大正末期まで利用され、東京・横浜方面に出荷 した「東京かご」(4貫目=3. 75キロ)と、明治末から戦前まで使われ、八王子、青梅、所沢方面に出荷した「八王子かご」(8貫目=7. 5キロ)があっ た)などの共同購入が行われました。 その後共盟社は加入者が増えたため、一旦解散をし、大字ごとに東長沼、矢野口梨山組合を設立、「稲城梨」として販売を行った。 明治10年代の販路はせいぜい府中宿、五宿(現在の調布市)あたりでしたが、明治後半になると栽培面積も増え、西は八王子から青梅、東は東京市内、南は横 浜と拡大しました。 明治30年の作付面積は13ヘクタールで「長十郎」の導入は明治32年、「二十世紀」は明治38年からです。 大正8年に東長沼と矢野口の組合が合併して「稲城果実生産組合」を作り、品種の統一、技術講習会、品評会などを行い、肥料、農薬、出荷かごの共同購入等をおこなって産地化を進め、販路の拡大を目ざしました。 大正12年9月1日の関東大震災はちょうどナシの収穫最盛期の直前で、当時稲城の作付面積は46ヘクタール、樹数32,000本、収果1,400トン、栽培農家150余戸でしたが、全生産の3分の1が落下してしまいました。 大正末期には出荷容器を竹かごから木箱に変え、昭和初期には2台のトラックを買い入れて、東京、横浜、川越、所沢等の市場へ出荷している。 (参考「稲城市史」・川島琢象「東京多摩川梨の歩み」・「多摩川誌」河川環境管理財団) 「多摩川梨」の代表的な品種と販売時期 多摩(たま) 8月中旬 赤ナシ。 「祇園」と「幸水」の掛け合わせ。 酸味が少なく、肉質が柔らかで多汁。 糖度が高い。 東京都農業試験場の作出品種。 幸水(こうすい) 8月中旬~8月下旬 赤ナシ。 「菊水」と「早生幸蔵」との掛け合わせ。 酸味が少なく、肉質が柔らかで多汁。 糖度が高い。 早生の代表的な品種。 全国で栽培されている。 稲城(いなぎ) 8月下旬~9月上旬 赤ナシ、「八雲」と「新高」の掛け合わせ 作出者談。 早生の品種では珍しい大玉で、酸味は無く、肉質は軟らかく多汁。 糖度が高い。 稲城市東長沼の進藤益延氏が作出した。 東京都内だけで栽培されている。 清玉(せいぎょく) 8月下旬~9月下旬 青ナシ。 「二十世紀」と「長十郎」の掛け合わせ。 酸味が少なく、肉質・糖度とも中くらい。 「二十世紀」よりも病気に強い。 稲城市の川島琢象氏の作出品種。 二十世紀 (にじゅっせいき) 9月上旬~9月下旬 青ナシ、偶発発見。 酸味がややあり、肉質は柔らかで多汁。 糖度は中くらい。 東京での栽培は少ない。 豊水(ほうすい) 9月中旬~9月下旬 赤ナシ。 「幸水」と「イー33」 の掛け合わせ。 酸味があるが食味が良い。 肉質は柔らかで多汁。 糖度は高い。 新高(にいたか) 9月下旬~10月下旬 赤ナシ。 「天の川」と「長十郎」との掛け合わせ。 酸味はなく、肉質は柔らかで多汁。 糖度は高い。 大玉の品種で、貯蔵性に優れている。 東京生まれの晩生梨の代表品種。

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