先週から雨で延期になっていたPTA行事、青灯台のノロ落しに参加しました。 毎年この時期に小中学校の先生、父兄、子供達が集まって、青灯台の岸壁にこびりついたノロや貝殻を落とし、ブイやフロートを設置する作業です。 デッキブラシやケレン棒を手に、何十人もがカリカリ、ゴシゴシ!強い風にもめげず、終了後は子供達がさっそく海に入って遊んでいたようです。 午後2時半、防災無線で消防団に招集がかかりました。 ちょうど東町を通りかかってふと見ると、三日月山の麓から白い煙がもくもくとー!!炎は見えませんがかなり燃えていそうです。 役場の裏(小笠原釣具センターさんの前あたり)にはおじさん達が集まって見物中。 プロの消防士さんがいてくれるに越したことはないのでしょうが、地元の人ならではの使命感や責任感に支えられる消防団というのはとても意義ある活動ですよね。 消火活動がひと段落した夕方近く、現場付近の交通整理をしていたお巡りさんに聞いたところによれば、燃えたのは廃屋だそうです。 はあ~ちょっぴり安心。 隣の「三日月荘」だったら顔見知りも住んでいるし…と心配だったんです。 誰も住んでいない建物なので漏電が原因だろうとのことでした。 こんな風の強い日に火事だなんて怖いですよねー。
次の明暦の大火(めいれきのたいか) 明暦3年(1657年)1月18日から1月20日にかけて当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災 振袖火事・丸山火事とも呼ばれる。 この火災により焼けるなど多数の名刀にも影響があった。 徳川家では三十口ほどいれた刀箱が二十箱あり、そのうち十五箱が焼失した。 焼失刀剣• この火災で失われた将軍家は、「明暦三丁酉正月十九日火事ニ致焼失御道具之覚」にまとめられている。 そのうち、刀剣については「御腰物之覚」で罹災した38口が記載されている。 一、三吉 一、 一、 一、對馬 一、 一、道合 一、シノキ 一、小脇指 一、青木國次 一、骨ハミ 一、大シマ國吉 一、村雲當麻 一、岐阜國次 一、三吉江 一、西カタ江 一、 一、 一、紀州江 一、、此外ノ刀数多。 一、 一、左馬頭 松平綱重様ノ道具、上野紀新大夫ノ一振ノ法國綱、、宗近、此作無類ニシテ丸シ、、右ハ、此外千貫計ノ数多、百枚二百枚ノ御道具数多、三十腰計入箱二十計ノ内、五箱出ル、十五箱ハ御本丸ニテ焼失。 (天享吾妻鏡) 恐らく元は「寛明事跡録」だと思われるが、後半「左馬頭様ノ道具」以後の改行位置がおかしく読みづらい。 「天享吾妻鏡」ではやや読みやすくなっているが、のあたりがおかしい。 なお両方共誤字らしき表記ブレがあるが、原文のままとした。 公方様御道具焼失の事 今度の大火事に、上様並に日本の大名・小名・待ち方・寺社方に年々貯置きし重寶共、幾千萬共なく焼失の儀筆紙の及ぶ所にあらず。 公方様御道具焼失の御帳面の其の中に、別して天下無雙の御腰物・御脇刺・御等は、幾萬年經ても御重寶なるに、此の度世に絶えぬる事、惜敷次第哉と諸人奉存に付き、是のみ記し、せめて其銘也とも聞傳へ、末世の物語の爲置く事斯の如し。 不動國行 天下一三好郷 吉本郷 左文字 初雁郷 兩方郷 温海 此の外二百枚内外の郷・の御腰物數多なれ共略せしむ。 御脇指は。 米津藤四郎 しのぎ藤四郎 北條藤四郎 此の外三百枚内外の御脇指は數しらず。 御には。 天下一 對馬 利常公より上らるる 道雲 宗近 シノギ 青木國次 三斎國次 村雲當麻 岐阜國吉 醍醐屋國吉( ) 蜂屋郷 北野紀新太夫 大國綱( ) 一振の影 主馬丸( ) 宗近 大坂 此の外百枚内外の御數多ありといへ共畧せしむ。 依之世の中に古作の道具大切になり、一倍増・八割増・五割増と段々に其の出来不出来新古に随ひ、代付等も出すべき由、公儀より本阿彌家に被仰渡、何れも身を持出でたり。 他の寶物は年經て朽ちくさりけれ共、金物・土物は幾世を經ても猶見るにいとまなし。 上古より以來火事と云ふ事なかりせば、古物の絶えぬる事あらじと、皆人惜しみあへりけり。 こちらではではなく「」から始まり、「」、「」、「」と並んでおり、幕府にとって重要な刀剣から並んでいることがわかる。 また「初雁郷」、「兩方郷」、「温海」など上記二者では載っていない刀剣も多く含んでいる。 越前康嗣に命じて再刃させている。 、、、、豊後、延寿物、吉岡助光、鵜飼雲次、中堂来光包、二振り、 影響• 御三家の屋敷を始め、北の丸の大名屋敷、井伊、上杉、伊達、島津、黒田など桜田門近くの大名屋敷(214家の内160家)、旗本屋敷(約810家)、町家(800町余)、神社仏閣300余、橋60余、倉庫9000余が焼けた。 被害者数は諸説あり。 (「元延実録」の牛島新田に葬った死者6万3400余+漂着した死体4600余)している。 当時の江戸の人口は、約78万人と推計されており、約1割弱が死亡したことになる。 武家人口は約50万とされる。 この甚大な被害により、上述の名刀を含め将軍家・御三家・大名家所蔵の刀、さらに旗本常備の刀なども多くが焼けた。 その結果一時的に数万振りに達すると思われる規模の刀剣需要が起こり、それが「寛文」といわれる鍛刀の盛り上がりを引き起こした。 年号が変わって万治~寛文(1658~1673年)の寛文期には、長曾祢や江戸法城寺正弘などの江戸ののほか、大坂の、、肥前陸奥守などが活躍する時期と重なっている。 この明暦の大火による需要の高まりが寛文の旺盛な製作を支えたという点も否定出来ない。 大坂が畿内のすぐれた経済力を背景にもっていたのにたいして、江戸の後背地であった関東の経済発展が遅れており、とうてい百万人の人口をもつ都市の需要をみたすことはできなかった。 生活必需品である油、木綿、鉄・銅などの金属製品、皮革製品、薬種、酒にいたるまで、多くの商品が大坂から江戸へ送られていたのはそのためであった。 (略)とくに重量があり、かさばる金属類は、京都へ運ぶより、大坂で加工するのがあきらかに有利であった。 (近世大坂の町と人).
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