とんねるず 曲。 とんねるずのヒット曲

木梨憲武 石橋貴明と「とんねるず」内での年収格差で不仲に?!需要なく引退か?!嫁、安田成美は子供をつれて離婚準備中?!

とんねるず 曲

「知らない 教えない 語らない」 「伊代ちゃん 伊代ちゃん 伊~代~ちゃん…伊代ちゃん」 などなど、当時のネタを散りばめた「ブリキのダンス」。 「最悪!」なんてタカさんの口癖すら入ってたり。 当時中学生で、「成増」はLPで、「仏滅そだち」はカセットで。 LPとCDとでジャケットが違ってたりして、いつかCDで買おう買おうと思ってたら 廃盤になっちゃって、中途ハンパなベストも買うのを見送ってたし、 そしたらビクター時代の音源を丸ごと収録のこのゴルベス。 買わずにいられなかった。 タカさんの初恋の人? いつぞやのオールナイトフジに出演し、 タカさんたじたじ。 その方が「Chadawa」でタカさんとデュエット。 ん~~、当時はなんでもアリだった。 「仏滅そだち」の「青年の主張」の「1…2…1,2,3」というカウントは あれは誰の声だろう? 明菜なのかな? とか思ったけど、真相がわからない。 ビクター時代の初期アルバム3枚と シングル4枚を完全網羅した大満足の2枚組アルバムです。 特にアルバム『なります』『仏滅そだち』は CDが長らく廃番で希少だったので涙もんです。 軽いプレミアアルバムでしたから。 やっぱりアルバムで聴くとコンセプトが秀逸です。 アルバム全体で「作品」になっています。 矢沢永吉、松山千春、佐野元春、チェッカーズなどなどw さらには今でも得意の東武東上線、小田急線ネタとかw パロディーの元ネタ知っていると笑えます。 センスがいいですね。 たまにかっこいい曲もあり、捨て曲なし。 歌詞カードが当時の原文のままというのがまた最高。 やっつけの復刻ベストが多い中でホントありがたいです…。

次の

buildandquote.challenger-ag.com: ゴールデン☆ベスト とんねるず: 音楽

とんねるず 曲

10週勝ち抜きグランプリ 第23回芸能賞新人賞 1985年 第18回最優秀新人賞 1985年 第18回最優秀新人賞 1985年 第14回特別賞 1985年 第11回話題賞 1985年 第18回全日本有線放送大賞上半期新人賞 第14回特別賞 1986年 第5回特別賞 1986年 第12回全日本歌謡音楽祭特別賞 第10回話題賞 第26回ゴールデンアロー賞芸能賞 第6回タレント部門賞、番組部門賞 第22回大賞 とんねるず 出身地 ジャンル 活動期間 - レーベル (1981年) (1982年) (1984年 - 1986年) (1986年 - ) 事務所 (1983年 - 1994年) (1994年 - ) 共同作業者 メンバー とんねるず Tunnels は、とからなるの、である。 所属レーベルは。 概要 [ ] 1980年、の同級生である石橋、木梨によりコンビ結成。 1982年に『』でグランプリを獲得。 1980年代半ば『』、『』などの出演によって、若者を中心に爆発的な人気を獲得する。 1987年『』が始まり「ねるとんブーム」を起こし、深夜番組ながら視聴率上位常連の大ヒット番組となる。 社会現象になるほどの番組となり、彼らの地位が確立した。 その後も『』、『』、『』など名番組を輩出する。 一方歌手としても活躍し、数々のヒット曲を生み出している。 1991年「」は日本歌謡大賞受賞、1992年「」がミリオンヒットに。 全国コンサートツアーも1995年まで毎年開催しており、1989年11月には公演を成功させている。 メンバー [ ] 名前(よみ) 生年月日(年齢) 出身 愛称 (いしばし たかあき) 1961-10-22 (58歳) ・成増 貴(タカ)さん (きなし のりたけ) 1962-03-09 (58歳) ・東京都千歳台 憲(ノリ)さん 人物 [ ] コンビ名 [ ] 現在のコンビ名「とんねるず」は、当時のであったが貴明のTと憲武のNをもじった「 とんまとのろま」と「 とんねるず」を提案し、本人たちに選ばせた。 「とんねるず」というコンビ名に関して井原は(、に続く)次代のお笑いスターになって欲しいという願いと、素の2人を見て「暗い奴ら」と思ったのをかけたという。 芸風 [ ] コンビだがボケとツッコミの役割が特に分れていないスタイルである。 デビュー当時のプロフィールには「カリスマ芸人」と記載していた。 二度目の下積み時代(新宿御苑のパフォーマンスバー「昆」時代など)を経て破天荒な芸風へと変わっていった。 『』出演以降に若さとエネルギー全開「ナ! わけだァ! 」節炸裂の過激トークや、スタジオで所狭しと暴れるなどの行動が日常的だったが、同時に人気を獲得することとなった。 特に『』ではアイドルによって態度が激しく違うため、自分が好みのアイドルが不本意なイジられ方をすると「あの石橋や木梨の態度は絶対に許さない」とアイドルファンからの不満を買った。 一方でスタジオ観覧の若者が「とんねるずに蹴られた」ことを自慢する時代でもあった。 とんねるずのトークの中にはその時代の流行を反映した言葉が多く用いられている。 」と語尾に「みたいな」を付ける言葉は若者中心に使われているが、これは主に東京近郊の女子大生が使う言葉を敢えてとんねるずがテレビで誇張して用いることで、全国的に広まった。 とんねるずにとっては、親交の深い放送作家、の口癖である「みたいなみたいな」を真似ていただけだったらしい。 ほかにも『』から端を発した「」「」、『』で使われた「元サヤ」など、彼らが発信元となった言葉は数多い。 また芸能界・テレビ界でよく使われる専門用語、いわゆる「」を多用して広めた経緯があり、今では一般でも使われている事がある。 「 内輪ネタ」もとんねるずの特徴である。 ただし、これは一部の放送関係者だけに理解できる発言であることも多く、その発言内容は一般視聴者にはわかりづらいものである事も多かった(古くは『』でもこの傾向は見られ、当時は「楽屋落ちネタ」と呼ばれた)。 また、『』ではトーク内容がほとんどスタッフ(、、、高校時代の友人など)の話題で占めるため、の書くネタの内容もその話題を受ける格好で放送関係者絡みのネタが目立った。 業界の慣例だった製作会社社員・スタッフに支給される弁当とタレントの弁当にあった区別をとんねるずが取っ払った。 そのスタイル「各業界に壁などない」「スタッフ、素人が同じ舞台に居る」という形が『』、「」の結成であり、その「一般人、スタッフネタ」から生まれた番組企画、コントも多数企画された。 とんねるずを育んだもの [ ] 2人とも、幼少時から好きであり、特に『』のをはじめ『』の、、や、「ベンジャミン伊東」の、「小松の親分」の、の、密室芸人時代のなど、漫才ブーム以前のバラエティ番組全盛の時代の影響が強い。 漫才ブームの時期は共に部活動に忙しかったこともあり、の以外に受けた影響は少ない。 デビュー当初はであると絡む事が多く、共演時のとんねるずは素人時代に戻ったかのように彼の芸を心から笑ってしまう場面も多々あり、前にあまり出ることはしなかった(時代背景としてあまり前に出られなかった環境でもあった)。 そのほか若手の時代には、由利徹やの、らのエンターテイナーや喜劇俳優、やらに公私共に可愛がられていた。 バラエティ以外で影響を受けた者としては、、『』のらが挙げられる。 経歴 [ ] 学生時代 [ ] 共に出身でを卒業。 在学中、石橋は野球部、木梨はサッカー部に所属。 この2つの部は互いに交流が盛んで、部室内でのモノマネや一発芸などの披露を通じ、それぞれの部の「一番面白いヤツ」とお互い認識したのが出会いのきっかけ。 当時は主に先輩や先生のモノマネなどで、共に校内の人気者だったという。 石橋は高校在学中から『』()や『』()をはじめとした、素人参加番組の常連であり、のモノマネやスポーツ選手の形態模写をはじめとする芸で一部の視聴者から注目されていた。 なお同時代のにはがおり、『TVジョッキー』のザ・チャレンジ(素人お笑い勝ち抜きコーナー)の第1回グランドチャンピオン大会では、第3代チャンピオン石橋と初代チャンピオン竹中が対決している。 このときの勝者は石橋であり、初代グランドチャンピオンを獲得した。 また、木梨も第5代チャンピオンを獲得。 木梨が出場した第2回グランドチャンピオン大会には、石橋も出演している。 石橋ほどの頻度ではないが主にのモノマネで素人参加番組に顔を出していた木梨を、高校卒業の記念として石橋が誘い、司会の『』()に出演 したのがコンビとして初めてのテレビ出演となる。 『』の出演までは、賞金を合計で多く得るために、意図的にバラバラで出演することもあったという。 お笑いスター誕生への挑戦 [ ] 卒業後、石橋は、木梨はと2人とも一般企業に就職するものの、『』へのチャレンジ決意を機に再会。 ではなく、や、の『』や『』のパロディ、学校やアイドルタレントの一コマを演じるなど面白いものは何でもエネルギッシュに演る多彩さで、素人ながら4週目まで勝ち抜く。 それを契機に2人は勤務先を退社し、プロデビューへと意志を固める。 「とんねるず」結成、プロデビュー [ ] 退社後のに正式にコンビ結成。 コンビ名も「とんねるず」と改め『お笑いスター誕生!! 』にプロとして再挑戦して挑むが、10週目で落選してしまう。 またこの時期、同番組担当の日本テレビ・の紹介で、赤坂のクラブ「」にの後釜として所属したが、クラブの客層に芸風が合わず、受けなかった。 『お笑いスター誕生!! 』では、に開催されたゴールデンルーキー賞の15組にエントリー。 決勝まで進むが、に敗れて、特別敢闘賞(事実上の第2位)に終わった。 には10週目に合格、グランプリを獲得した。 その後も末まで歌合戦などの企画や、グランプリ受賞者のネタ披露コーナーなどへ定期的に出演した。 には司会の朝の情報番組『』(日本テレビ)にレギュラー出演したが、些細なことから赤尾プロデューサーと衝突。 一貫して日本テレビ系番組出演タレントだったとんねるずは同局から完全に干されることになる。 この間は新宿御苑のパフォーマンスバー「昆」(後にKONと改名)に出演するなど、下積み時代を過ごした。 また、この頃は同じショーパブ系タレントである(いそがしバンド)やらと交流を持ち、特に石橋は宅に居候していたこともある。 石橋とグッチは当時のグッチの妻にと誤解されるほど、仲が良かった。 1983年頃、所属する事務所を通さず友人の結婚式の司会をコンビで引き受け、これを知った事務所社長が激怒しテレビに出演できなくなってしまった。 スーパーの駐車場やデパートの屋上などで木箱をステージ代わりにして営業回りをしていたこともあった。 しかし営業は結構いいお金稼ぎになり、食べていくには苦労しなかったと明かしている。 さらにこの頃は既に『オールナイトフジ』への出演が決まっていたので、夜は連日豪遊していた。 その後、西城秀樹の初代マネージャーだった秦野嘉王が設立した新事務所「」の所属第一号タレントになり再浮上の機を窺うことになった。 秦野は、当時のお笑い芸人には無縁だったスタイリストをとんねるずに付け、派手なブランドの代名詞でもあったK-FACTORYの衣装をコンセプトとするなど、イメージプロデュース戦略を図った。 また現在に至るまでとんねるずの重要なであり、彼らの楽曲の作詞を行っているとの出会いもこの時期である。 人気の拡大 [ ] 12月、系の深夜番組『』を皮切りにテレビ復帰。 当初は番組後半に5分のコーナー「とんねるずの見栄講座」をもらったものの、番組内での些細なトラブル(石橋曰く「誤解によるもの」)によって、1984年1月に一旦降板。 半年後の同年6月にレギュラーへと復帰している。 その後「とんねるずの何でもベストテン」「とんねるずなっわけだぁ! 」とコーナーや番組内の放送時間が早まるにつれ人気を集め、翌に放送した同番組の「女子高生スペシャル」の発展形としてスタートした『』(フジテレビ、 - )ではやを脇役に追い立てるほどだった。 その後も『』()『』()などレギュラー番組を増やしていく。 『』( - )では火曜1部を担当し、数々のコーナーを輩出。 聴取率ランキングでは当時絶大な人気を誇っていた『』を抜き、『』と熾烈な競争をしていた。 『トライアングル・ブルー』では、、、などと共演する。 またこの頃、『』(日本テレビ)のテーマ「」の後にリリースされた「」以来のシングル「」をリリース。 その際には、系の音楽番組『』でのコーナー「今週のスポットライト」に登場。 この出演をきっかけに、深夜番組だけでなく、本格的にとんねるずが世に知られることとなった。 同曲は『オールナイトフジ』のコーナーでも毎回歌われ、勢い余ってセットの高所や吊り下げられた照明によじ登ったり、1500万円のテレビカメラを壊すなどの行動や、自ら勝手に「カリスマ芸人」と名乗るなどの行動や言動を見せた。 1985年には、「一気! この際、ビートたけしととんねるず(特に石橋)はお互いに意識しあい打ち解けるような雰囲気ではなく、緊張感が漂っていたという。 後にこの2人は番組で共演することになる。 『オールナイトフジ』 - 『夕やけニャンニャン』などいわゆるの看板的存在になっていたため、当時確執があった率いる横澤班の本丸的な番組であった『』に「一気! 」で「ひょうきんベストテン」に出演した際、ひょうきん族レギュラー陣にに等しい、過激なリアクションを課された。 その際に二人は「もう日テレには出ないから勘弁してくれ」と漏らしており、日本テレビの出演解禁により、蜜月のフジテレビとの関係が冷えることを危惧した石田が、横澤にとんねるずの出演を派閥の壁を越えて懇願し実現した出演であった。 なお、当時石田班、横澤班両方の番組に出演できたタレントは、ら数人しかおらず、この派閥争いにより横澤班の代表番組の1つで若手タレントの登竜門的な存在である『』のレギュラーにはなれなかった。 しかし、石田・横澤とも第一線から退いた2014年(横澤は2011年死去)、29年ぶりに「笑っていいとも」に出演した際にに直訴し、念願のレギュラーとなっている。 この当時は『』(フジテレビ)にも出場しており、映画『』のパロディに、ペンギンの着ぐるみ姿で顔すら判別しにくい状態でセリフなしの数秒のチョイ役出演や、と体を張ったカマヌンチャク芸を披露するなどしていた。 彼らは不遇な扱いを受けていた頃を皮肉る時に「あの時はペンギンでした」と例にとって挙げることがある。 1980年代、巷でブームが巻き起こった際には彼らも、「セシカ」や、当時の番組『ねるとん紅鯨団』(関西テレビ)とのタイアップショップ「バレンタインハウス」を原宿や京都に出店しており、関連グッズをヒットさせた。 女性からの人気も獲得しており、『』()や『』()などさまざまな雑誌の表紙を飾った。 安定期(1987年 - 1995年) [ ] 1987年10月『』を引き継ぐ形でスタートした『』(制作、フジテレビ系)がヒット。 初年度から深夜枠ながらバラエティ年間平均視聴率ランキング3位にランクインした。 当時で番組の企画・総合演出などをしていた伊藤輝夫(現:)や後藤喜男と出会ったのがこの時期。 一般参加者による集団お見合い形式の企画が好評を得る。 今では集団お見合いパーティーそのものが『』と呼ばれることもある。 また1986年からで数回特番を行い、1988年10月からは、『』がレギュラー放送を開始。 番組内では、『』『 保毛尾田保毛男』などのコントやパロディを披露した。 1989年3月のスペシャル時には番組シリーズで過去最高29. 更にこの頃には、13本のCM契約もしていた。 1991年10月には、『闘牛』『カートグランプリ』『PK対決』などロケ主体のコーナーが人気を得た『』(日本テレビ)が開始。 1995年には、一時期疎遠状態になっていたTBSでの初のレギュラー番組『』が開始。 1997年3月には『とんねるずのみなさんのおかげです』が完全終了し、同年6月に『』と改題し、リニューアルした。 この頃、出演する番組が軒並み高視聴率を記録しギャラが爆発的に跳ね上がり現代まで芸人としてのギャラは20年以上1位だと言われている。 レギュラー番組をこなしながら、並行して音楽活動にも行い、「」「」をはじめとする曲がヒット。 また1995年まで毎年全国コンサートツアーも開催する。 1991年大晦日には『』に初出場を果たした。 テレビ、ラジオ、歌、CMなどメディア上での活動の傍らで、1991年からにかけての10年間、のにて、とんねるず単独コントライブ「 こんと いん なえば」を開催し、一お笑いコンビとして生で客を笑わせることも重視していたが、コンビとしてのコントライブはその後行われていない。 1994年には独立し個人事務所「」を設立。 石橋が社長、木梨が副社長を務めている。 当時の事務所に向かっていた途中、六本木・星条旗通りでお互い運転していた車を降り、「独立すればもっと正しい方向に向かう」と考えた石橋が、立ち話で木梨に独立の話を持ちかけた。 木梨は「貴明がいいならいいよ。 」と二つ返事で了承したというエピソードがある。 なお、1980年に就職が決まっていた時期に、石橋が渋谷パルコパート2の2階の喫茶店で「プロでやろうと思うけどどう思う? 」と持ちかけた際も、木梨の「貴明がいいならいいよ。 」という一言で決まったという。 転換期(1996年 - 1999年) [ ] 1990年代後半(特に以降)に差し掛かるとピンでの活動が活発になり始める。 木梨は1996年5月、「」という演歌ユニットでヒットし、同年の出場を果たしている。 また1998年1月にはドラマ『』(フジテレビ)で個人初主演を果たした。 一方石橋は、1996年10月に初の単独司会によるレギュラー音楽番組『』(TBS)の放送が始まり、3月まで13年半続いたメジャー音楽番組となった。 また1997年2月に工藤静香とのユニット「」がヒット。 1998年7月には脚本のドラマ『』(フジテレビ)に主演した。 2人揃っての活動としては、フジテレビの番組スタッフと組んだ音楽ユニット『』で1998年4月にデビューし、までCDのリリースやコンサート開催などの活動を展開した。 2人が音楽活動で揃うのはにシングル「」を発売して以来2年ぶりとなった。 2000年代 [ ] に、『』(テレビ朝日)が、正月番組として開始。 番組内ではとんねるずが、一年を通して活躍した話題のプロスポーツ選手を迎えて様々な競技で対決している。 10周年を迎えた以降は5時間の特番として放送されている。 からは夏版も放送が開始。 そしてには正月版が20回目を迎えている。 の『』(フジテレビ)内で放送された『』で、久しぶりにコンビ漫才を披露した。 2004年 - 、木梨は歌・コント・フリートークを交えたソロライブ「NORITAKE GUIDE LIVE」を開催した。 10月、フジテレビの木曜9時枠でをスタートさせてから丸20周年を迎えた。 なお、同枠は10月に『とんねるずのみなさんのおかげです』が正式なレギュラー番組となって以来、途中ドラマ出演による半年間の充電期間や『』『』などを挟み、現在放送中の『とんねるずのみなさんのおかげでした』まで続いており、厳密には2009年3月で20周年となる。 2008年、同年5月から『とんねるずのみなさんのおかげでした』の企画として始動していた「」をと結成する事を発表しにデビュー。 2人が揃って音楽活動するのは2001年に野猿が解散して以来であり、実に7年半ぶり。 CDリリースやライブもさることながら、2010年には当ユニット名義の映画を公開した。 2010年代 [ ] 3月、木梨は5年ぶりとなるソロライブ「NORITAKE GUIDE 5. 0」を開催。 最終日には石橋がサプライズ出演し、1995年のコンサートツアー以来のとんねるずとしての客前歌披露を行った。 2012年、視聴者参加型特別番組『』()が放送される。 テレビ東京へのコンビとしての出演は、同じく素人参加番組だった『ドバドバ大爆弾』以来32年ぶりとなり、プロになってからは初めての同局での冠番組となる。 10月、『』(フジテレビ)が放送25周年を迎える。 2013年の放送では、放送25周年を記念してとんねるずvsの「」特別対決が行われた。 、『』(フジテレビ)放送第8000回目のにて、不定期の番組レギュラー出演することが決定した。 自身がメインではない番組でのテレビでのレギュラー番組は『』の終了時(1987年)以来27年ぶりとなる。 またテレフォンショッキングの史上最長記録は以来、長らく(46分)が最長となっていたが、番組終了を目前にして彼らが48分22秒で更新した。 6月、『とんねるずのみなさんのおかげでした』が単独放送開始20周年を迎える。 2017年9月、『とんねるずのみなさんのおかげでした』が『とんねるずのみなさんのおかげです』『ラスタとんねるず'94』『とんねるずの本汁でしょう!! 』時代を含めて放送開始30周年 を迎える。 2018年3月22日、『とんねるずのみなさんのおかげでした』が放送終了。 放送回数は「おかげです」時代を含めて全1340回。 木梨は2018年1月26日放送の『』()で『みなさんのおかげでした』終了後のとんねるずの活動について、「また新しい話があれば、企画できそうなことがあればやろうって」と石橋とも話していることを明かした。 2018年末で約30年続いた公式ファンクラブが閉会。 9月、二人が個々で歌活動を開始することが同時期に発表された(戦略的ではなく偶然に同時期となった )。 木梨は同年9月14日、自身が出演していた「2019」にて発表され、自社レーベル「」を立ち上げ、10月24日配信EP「」でソロデビュー。 一方石橋は同年9月17日、元野猿メンバーだった平山晃哉と神波憲人との3人組グループ『』を結成し、11月1日に1stシングル「」でデビューした。 その他、石橋は得意分野の知識を生かした番組や特番、木梨も番組、ライブ、映画、絵画の個展を主催するなど活躍中。 近年は動画配信番組やSNSなどインターネットメディアにも活躍のフィールドを広げている。 2020年代 [ ] 、コンビ結成40周年を迎える。 2020年、ポニーキャニオン時代のとんねるずや個々の活動曲を含む全189曲が、サブスクリプションサービス(サブスク)で一斉解禁された。 交流関係 [ ] 戦友・仲間 [ ] 石橋貴明は素人時代に『』でと知り合いそれ以後親交が続いている。 また『』の出演者らとも交流を深めた。 特にとはお互いネタを見せ合い評論し合う仲だった。 他に(現:のブラザートム)やや草野球友達として等と交流があった。 や同い年ののとはディスコ仲間でもある。 1983年の再デビューまではショーパブ出演で知り合ったなどと親交を深めた。 特に、石橋ととの関係は仲が非常に良く、妻・と含めて家族ぐるみの付き合いをしている。 とは『』以来の交友がある。 基本的に他のお笑いタレントと共演することを選ばず、主に番組の中にコーナーを設けて個別に好きなことをさせてもらえる環境を選び、新しいタイプのタレントの価値を模索することになる。 そのため表面上はマンザイブーム系のタレントとの共演はあまりなく、同業者の交流も前出の『お笑いスター誕生』系タレントが中心だった。 ただし同年代のタレントとは盛んに交流を深め、、、、元のメンバーなどはプライベートでも会う友人である。 先輩 [ ] (・・)や、、といったとの共演は比較的多い。 との共演はあまりなく、このことは紳助が『』内で放送された『』の「」にゲスト出演した際に語っている。 紳助とは『』や『』などで頻度は少なかったものの共演経験はある。 2000年代以降、さんまと共演することもほとんどなくなっていたが、放送の『』で、約15年ぶりの共演を果たした。 また、とは『パート2』の第2話で最初で最後の共演を果たしている。 また、やすしと同学年のととも共演した。 やすしが演じた居作新太郎が経営する新聞配達店の店員の青年役を演じた。 なお、やすしの相方のとは『』、2002年11月21日放送『とんねるずのみなさんのおかげでした』「」で共演を果たしている。 後輩 [ ] 若手芸人との共演は、当時無名芸人だった、、、、の(ネプチューン結成以前の素人時代)が『』出演を境に積極的になる。 ナインティナインは、これを機に、東京での知名度上昇に成功している。 その後、はの『とんねるずのみなさんのおかげです』最終回の「最終回スペシャル」にてノリダーの分身役を演じた。 その後も、ナインティナインの番組にはとんねるずが出演するなどしている。 また、1990年代からは所属の芸人とも共演が多くなり、「ファミリー」と呼ばれる、、、、、とも、共演する機会がある。 、、ナインティナイン、、ネプチューン、、、、、、、、、らは自らも語る通り、とんねるずの影響を直接受けた世代であり、彼らの多くはとんねるずの番組には多く出演するなどしている。 ネプチューンが『うたばん』に出演した際に石橋は「派でしょ? 」と茶化しながらも、「ウッチャンナンチャンは(後輩の育成もちゃんとやって)偉いよ」と発言している。 一方で、(・)との共演はほとんどなく、共演したのは1994年10月3日放送の『』の1回のみだった(共演はないものの同年の春の祭典や一部の年の『』では両コンビが揃って出演している)。 また、個人同士の共演もなかった。 どちらも多少ではあるが絡みがあり、対立をしていた様子はなかったが、実際の所はお互い特別な感情は持っていない。 事実、ダウンタウン松本は自身のラジオ番組『』にて「向こうのが先輩だし、年上やし、絡みもないので不仲と言われても何のことだかよく分からん。 」と不仲説を否定するほか、「が『』に出てもいいし、野猿が『』に出てもいい。 何かこの世界も、派閥でもないんですけど暗黙の了解というか、何の了解やねんと思うし。 」と語っている。 また、の矢作が、酒の席で石橋に「とんねるずって、ダウンタウンと仲悪いんですか? 」と聞いたところ石橋は「それよぉ、全然仲悪くないんだよな」と周りが遠ざけていると語り、「俺たちを会わせちゃいけないって。 俺からしてみれば、ダウンタウンって後輩なんだよ。 後輩なんだけど、周りが凄いピリつくんだよなぁ」と語っていた事をラジオ で明かした。 2014年3月31日放送の『』で、約20年ぶりの共演を果たした。 これが、2回目の共演となる。 後日談として、ダウンタウン浜田が『』 のとのトークにて「何で仲悪いと思われてんのか(わからへん)絡んだことないのに仲悪いもなにもないやん」と笑顔で語った。 2017年9月24日放送、『』のスペシャル特別番組で「 食わず嫌い」に出てみたいと発言していた。 に「一回共演してみないとだよ! 」と煽られていた。 (・)とはお笑い第三世代の括りで並べられるものの、厳密には年齢、デビュー年、デビュー後の経緯を見るととんねるずの方が先輩にあたる。 共に「お笑いスター誕生」出身者であり、とんねるずも出演していた『オールナイトフジ』『夕やけニャンニャン』にも数回ではあるが新人のウッチャンナンチャンは出演していた。 ちなみに初共演は『オールナイトフジ』である。 その後『』がスタートするにあたり、1989年4月11日放送の『とんねるずのオールナイトニッポン』に飛び入り出演した。 また1990年4月の『とんねるずのみなさんのおかげです』半年間休止のピンチヒッターとして『』で彼らが抜擢されたのがきっかけで、続編『』に繋がった。 また『とんねるずのみなさんのおかげです』の再開予告CMの終わりには、石橋が「ウッチャンナンチャンさん、ありがとうございました。 」と礼を述べた。 1980年代・1990年代は頻繁に共演していたが、2000年代以降はコンビの共演がなくなってしまったが、が『うたばん』に出演する等単独では度々共演している。 ダウンタウンと同じく『笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号』にて、久しぶりにコンビ揃っての共演を果たした。 美空ひばり [ ] とんねるずの2人はとも生前は親交が非常に深く「お嬢」、「タカ」、「ノリ」と呼び合う間柄だった。 両者の出会いのきっかけは、とんねるずの大ファンだったひばりの息子・(現:社長)の誕生会に2人が呼ばれたことである。 その後も『』に、ひばりがアポなしで飛び入り出演した、とんねるずが出演していた同番組の生放送中にひばり本人から電話が入るなどの過去もある。 彼らが出演していたテレビ番組を見ていた美空ひばりから、放送終了後に二人に電話がかかってきて、深夜にもかかわらずひばりの自宅に呼び出され、夜11時頃から番組内での行き過ぎた歌パフォーマンスに対して説教を受けたことがあり、その際、ひばりのコンサートビデオを延々と見させられ、ひばりが席をはずすなり石橋がビデオを早送りにして何とか見終わったと思いきや、そのビデオは上巻だったらしく、続けて下巻のビデオを結局朝5時頃まで見させられたというエピソードがある。 1988年に東京ドームの単独コンサート第一号として、不死鳥コンサートが行われ、政界・芸能界から、沢山の有名人が見にかけつけていた中、とんねるずの2人も来ており、石橋は、隣に居た木梨に感動で泣くところを見られたくなかったので、必死に我慢していたが、ついに堪え切れず涙腺が崩壊しそうになり、「ヤバい」と隣の木梨を見たところ、木梨の方が先に号泣していたという。 後に、ひばりの親友のが食わず嫌い王に出演した際に語ったところによると、俳優のも、コンサートで声を震わせて号泣していたとのことである。 ちなみに石橋は美空に『(芸歴は)売れてから数えなさい』と言われて以来、「」がヒットした1985年からを芸歴としてカウントすることがある。 タモリ [ ] とんねるずが素人時代に『』へ出演した際、審査員からの評価は芳しくなかったが、審査員の一人のは「お前らなんだかわからねえけど面白い」と評した。 この当時、とんねるずを評価していたのはタモリとその世話人のだけだった。 タモリに誘われて『』の見学にとんねるずの二人が行った際、このままお笑い芸人として本格的に活動するべきかどうかタモリに相談を持ちかけて、「やりたかったらやってみればいい」というタモリの言葉に後押しされて本格的にプロの道に進む決心をしたという。 ブレイク後も『』や『』といったタモリの冠番組にゲスト出演する機会が多く、放送の『とんねるずのみなさんのおかげでした』でタモリと共演した際には、「タモさんがお笑いスター誕生の審査員じゃなかったら僕たちはこの世に出てなかった」と語っている。 またその話を聞いたタモリは、『(ここまで伸びるとは思わなかったから)あの時つぶしとけばよかった』とユーモアをこめて話している。 このときの対戦相手はで、勝負に負け罰ゲームで約30年ぶりにイグアナとコンドルの着地のものまねを披露した。 その後、木梨はに『・タモリのオールナイトニッポン』にゲスト出演をしたり、タモリの誕生日のお祝いもしている。 、『笑っていいとも! 』放送8000回のゲストでコンビとして29年ぶりに出演し、放送終了の3月までの不定曜日レギュラーを務めた。 ビートたけし [ ] 『お笑いスター誕生』時代に草野球の助っ人要員としての始まりで交流のあったを元祖マルチタレントの先輩として尊敬している。 このことはとんねるずの著書に記載されている。 若手の頃、お笑いスター誕生出演後、偶然飲み屋で会ったたけしから「東京芸人、頑張れよ! 」と激励されたことがある。 この言葉には「当時はたけし後の東京の漫才師で大ブレークした者が大阪芸人に比べ少なかったため、とんねるずには東京芸人の火を消さないように」とのメッセージが込められていた。 ブレイク後、オールナイトニッポンの第一部担当パーソナリティー全員が集まるスペシャル番組で共演した際には、恐縮して静かなとんねるずに対して、たけしは歌を披露し「歌だして、とんねるずの人気を落としてやろうと思ったけど、俺はムリだな」と発言し、とんねるずを苦笑させている。 現在も交流はつながっており、年1回程度、『とんねるずのみなさんのおかげでした』スペシャルで共演している。 また、たけしの最初の弟子であるそのまんま東()とは、彼がまだに入る前に組んでいたで同時期に『お笑いスター誕生!! 』に出場していた戦友であり、深い交流関係にある。 『とんねるずの生でダラダラいかせて!! 』のレギュラーでもあった。 なお、たけしの芸風からの影響はほとんど受けていない。 2012年秋、『』では、レギュラー番組としてたけしと石橋が共演を果たした。 志村けん [ ] 石橋の中学生素人時代の相方(・現制作プロダクション経営)がドリフターズの付き人になったことから、は当初、石橋と付き合いが深かった。 しかし後に木梨との付き合いが深まり、木梨自身もキャラクター設定、コントの作り方などで志村から影響を受けたこともあり、一時は「コンビ結成」の噂が立つほどだった。 この件について石橋自身が志村本人に抗議して終息した。 ただこの付き合いの過程の中で、とんねるずはとつながりを強め、これが後の独立へとつながる。 『とんねるずのみなさんのおかげでした』の「食わず嫌い王決定戦」等で共演を果たしている。 エピソード [ ] 日本テレビ系番組でのエピソード・ハプニング [ ]• 『』にて、「」の歌唱中にカメラを強奪するというハプニングがあった。 当時の司会者と、さらには番組スタッフに迷惑をかけてしまい、のちのマネジャーが番組終了後に謝罪した。 先にカメラを強奪したのは木梨だが、石橋もつられて強奪。 木梨が石橋の局部を映していた。 正月の特別番組『とんねるずの仁義なき花の芸能界全部乗っ取らせていただきます』では馬風師匠()と石橋との遺恨が演出のひとつとして勃発し、銭湯で石橋の襲撃を受けた馬風師匠は逃げる石橋を裸で追った(この他にも、ドッキリ企画で相模湖に落とされたことがある)。 なお、この番組ではやなども同じ企画で湖に落とされている。 TBS系番組でのエピソード・ハプニング [ ] ザ・ベストテン [ ]• 「」の歌唱中にテレビカメラを倒している。 石橋は弁償を考えたが、テレビ局にとってはこのようなアクシデントもそう珍しいことではなく、また故意にやったわけではないと判断され、結局は保険によって解決された。 1985年10月17日の400回記念、(、当時は)からの生放送に出演。 とんねるずがスタッフの担ぐ御輿の上に乗り、客席の間の通路を通ってステージに向かう演出だったが、神輿に観客が殺到して衣装を引っ張るなどしたために石橋が御輿に乗れず、激高して観客に掴みかかる事態にまでなった。 ステージ上でも石橋は怒りが収まらず「ふざけんじゃねぇぞ!この野郎!!」、「てめぇら最低だ!!」と吐き捨てて衣装の飾りを客席に投げつけたり、怒鳴り声で「雨の西麻布」を歌った。 なお、この放送翌々日に放送された『』にて、番組宛に数百本の苦情電話が寄せられたことを石橋が明かしている。 当時の『オールナイトフジ』は静岡にもネットされており、地元の視聴者への謝罪も同様に本人達から行われていた。 1987年10月1日の500回記念、からの生放送に出演した時、この500回記念出たさに、シングル「」が初登場時にランクインするよう発売日を合わせたことを公言している。 当時出演していたラジオ番組『』でも、リスナーにランクインできるよう、レコードの購入と番組宛てにリクエストを送るよう求めていた。 当時、TBSアナウンサーで同番組の司会をしていたに向かって、登場直後の木梨がをしたこともある。 木梨が番組内で獲得した商品をカメラにぶつけ転倒させている。 木梨は「大丈夫ですか?保険に入っていますよね?」とマネジャーの尾崎に確認し、逃げるように撤収した。 カメラは無事だった。 が観客を煽ったことで、場内は「オールナイトフジ以来!」コールになった。 なお、当該放送回はスペシャルのため、番組名は「とくばん」である。 クイズダービー [ ]• 、ギャンブラーとして出場したとき、番組史上初めて第1問でいきなり持ち点3000点全部をに賭けようとした。 はらは確実に答えると見てこの行動に出たが、司会のが「 おまえらふざけるんじゃないぞ、少しは番組のことを考えろ、はずれたらなくなっちゃうからやめなさい!」と怒られたため、賭けることはできなかった。 なお、番組の歴史上第1問で3000点を賭けようとしたのはとんねるずと(とんねるずとは逆で、番組に参加する気が全くなかったという理由)のみである。 なお、とんねるずは後に『』(フジテレビ)で、クイズダービーのである「トークダービー」の企画を始めることになる。 フジテレビ系番組でのエピソード・ハプニング [ ] オールナイトフジ [ ]• 1985年1月19日「」の歌唱中、興奮した石橋が1台1500万円するテレビカメラの雲台を強く握って揺さぶっているうちに、雲台がバランスを崩し横倒しに。 後にスタッフによって「正直に石橋の悪ふざけと申請したため、カメラはフジテレビが掛けていたでは修繕されなかった」と話されているものの、フジテレビ側が経緯や状況を話したところ、どうにか保険は下りたという。 それから数年はフジテレビのNG名場面集番組などでその場面が、倒したカメラを前におののく二人の姿と共に、繰り返し流されている。 また同番組では「」を歌いながら、建物2階分程度の高さのセットの上や、天井から吊り下げられていた照明によじ登るなどのパフォーマンスを行い、1989年3月26日の放送では登場時にフロアサブへよじ登ろうとして転倒、親指を突き指している。 セットの上によじ登った際は、カメラクレーンに乗り移り、救助されている。 カメラ転倒事件から約30年後の2014年11月3日放送の『 ライオンのごきげんよう』にゲスト出演した際、石橋が「カメラは倒したのではなく、カメラのクレーンを持った際、カメラが誤って浮いてしまい倒れた」と釈明している。 1986年4月3日、石橋は泥酔状態で出演した作家のから平手打ちをされそうになる。 さらに、野坂が石橋の家庭環境を持ち出してなじり始めたことが発端で、暫くはお互いが睨み合っていた。 なお補足として、実際には平手打ちでは無く拳を握ってのパンチで当たっていたが、若い石橋は当たる瞬間に上体を逸らし除けたこともあり、さらに生放送で石橋が司会進行中ということもあって、その場はとりあえず取り繕って進行されたものの、CM中に野坂はスタジオ外へ退出した。 夕やけニャンニャン [ ]• 「ニャンニャン腕相撲」で、恒例の木梨の「ロッキー! 」の掛け声をきっかけにした大騒ぎに乗じて石橋に跳び蹴りをした観客の一人を、石橋とマネジャーのボブ市川がはがい締めにしたことがある。 同じく「ニャンニャン腕相撲」で、石橋の服に観客からケチャップをかけられ、番組終了後に観客を全員残してVTRを確認した後にスタッフと共に説教を行ったことがある(ケチャップ事件)。 夜のヒットスタジオ [ ] 番組リニューアル直後の放送に「一気! 」で初登場。 以来、1989年にかけて、20回以上にわたり番組に出演し、さまざまな話題を提供した。 石橋・木梨ともに『ベストテン』と同様に『夜ヒット』に対しても相当の思い入れがあり、「みなさんのおかげでした」など自身の番組ではこの番組に関連したエピソードをよく紹介している。 コーナーのひとつであるオープニングメドレーでは風、羽織袴姿などといった怒髪天な衣装で登場し、次に登場する歌手の持ち歌をあえて音程を全て外して歌ったり、DJ風のアナウンスで次の歌手の紹介を行うなどの振舞いを行っていた。 オープニングメドレー終了後に行われる季節の風物詩を紹介するセクションで、価格にしてウン十万ともウン百万とも言われる高級を紹介した際、木梨がいきなりこの花びらを食べてしまい、司会のに真剣に注意されたことがある(当時、この番組で使う植物の大半は、芳村のコネクションを活用して提供されていたと伝えられている)。 また同様にカブトムシを紹介した際にはそのカブトムシを生で木梨が食べようとしたところ、口にハサミの部分が挟まってしまい、唇から出血したこともある。 番組を見ていたから放送終了後2人に電話がかかってきて、深夜であるにもかかわらずひばりの自宅に呼び出され、番組内での行き過ぎたパフォーマンスなどに対して説教を受けたことがある。 「オールナイトフジ」同様のカメラいじりパフォーマンスを画策したものの、プロデューサーのの持つあまりの威圧感に萎縮してしまい、カメラ転倒パフォーマンスを行うことはできず、石橋がカメラに近づき、木梨が「危ねえぞ! 」と注意するに留まっている。 1986年6月、「やぶさかでない」での出演時に、歌が佳境に差し掛かった辺りで意図的な演出として、共演していた大勢の女性バックダンサーに一斉に襲いかかられ、石橋はズボンを脱がされ、下半身はブリーフパンツ一枚という姿になり、その姿のままスタジオを走り回って歌を締めくくるという「オチ」が付いた。 これには、視聴者から賛否両論の意見があったようで、番組史上に残る「迷」シーンの一つとして後年の総集編でも定番ネタとなっていた。 1987年3月、「嵐のマッチョマン」で初の番組トリで歌を披露。 この際、ら他の出演者が途中から歌に参加して、一気にヒートアップし、賑やかに番組を締めくくった。 1987年10月、マンスリーゲストとして出演していたにが後ろから何度も蹴りを入れているのを見兼ねた石橋・木梨の二人は、久保田をかばってすかさず仲裁に入り、事態は収束した。 久保田はこの一件以降、とんねるずの二人に対し深い恩義を感じ、親交を持つようになった。 1987年12月、の作品「メリー・ジェーン」をそのままもじった「ジャニー・ジェーン」なる歌を披露。 この際、サプライズゲストとしてつのだ本人が階段から「メリー・ジェーン」を歌いながら登場した。 1989年5月17日、「」の3番目の歌詞を歌唱中に番組前半(21時台)部分の提供クレジットが被ってしまい、フルコーラスで歌えないままCMに行ってしまうハプニングが起きた。 しかし、これはとんねるずが画策した的パフォーマンスであり、本来は2コーラスの演奏のみであった。 このドッキリはとんねるず2人とプロデューサーのしか知らなかった。 CM明けでとんねるずがネタバラシをしたが、事前にそれを知らなかった司会のとは大いに困惑し、古舘に至っては歌えなくなってしまったことに責任を感じ激怒した。 この回においては、『仮面ノリダー』で共演していたとチビノリダーのが応援ゲストとして駆けつけた。 新春スターかくし芸大会 [ ] の第21回以降一時期常連のように出場しており、の第33回で司会を務めたこともあった。 1984年の第21回 - 二人でペンギンの衣装を着て出演した。 ちなみに、当時のプロデューサーにセリフもない台本読みに呼ばれたことが相当悔しくて、ラ・ポルトのサンドイッチが食えなかったそう。 後に、仮面ノリダーの「ペンギン男」の回では石橋が第2制作部(当時)に乗り込み、王から謝罪を勝ち取っている。 の第24回• ワンスアポンアタイムインジャパン - 、、とんねるず、、、• とんねるずの石橋が最後のシーンで「今、夜中の4時です。 〜3年前はペンギンでした。 」と、ロケのための待ち時間を嘆くコメントを言っていた。 曲芸PartII カマヌンチャク - 中森明菜、とんねるず• とんねるずの石橋はここで右手にカマのかすり傷を負ってしまった。 「3年前はペンギンでした。 」をここでも連発していた。 中森明菜は蛍光灯の上に乗ったまま静止する芸等をやった。 森田一義アワー 笑っていいとも! [ ] にレギュラーに。 『笑っていいとも! 』が終了する直前でもある。 以降、石橋、木梨共に出演中( 番組終了までの記録)。 ()放送にて、名物コーナー「テレフォンショッキング」にが1984年3月に記録した46分を上回る48分22秒出演。 その中でに直訴し、番組レギュラーになった。 なお、その未公開シーン(19日)で、「(残り)10週なんで、2人で5週ずつ」と宣言した。 ()放送にて、木梨がレギュラー初出演。 笑福亭鶴瓶が話そうとした瞬間にスタジオの天井からワイヤで降下し、彼の首を絞め上げるというドッキリの形で登場シーンで木梨が登場した。 司会のタモリによると、(この登場方法は)いいとも史上初めて、とのことである。 ()放送にて、石橋がレギュラー初出演。 水曜日のレギュラーコーナーに次々と参加した。 「」より「転校生を紹介します。 帝京高校をタバコを吸って退学になった石橋貴明君です」と紹介、それに対し「迷惑かけないようにします」とあいさつ。 ()放送にて、木梨が2度目の出演。 今度は、突然箱の中から現れるというドッキリの形で再び登場した。 (木曜日)放送にて、木梨が3度目の出演。 歌手の郷ひろみも出演のテレフォンショッキングのコーナーで、「お嫁サンバ」のブラジルサンバの踊り子に紛れ込んで木梨が3度目の出演。 『郷は「実は2日前にのりちゃんに電話して…」というと「手伝えって電話が来た」と木梨が返し「2日間打ち合わせしました」』ということである。 ()放送にて、石橋が2度目の出演。 タモリが「貴明、金曜日はどう? 」と質問すると「いいですね。 金曜日。 俺、金曜日にします」と金曜日出演が決まった。 (火曜日)放送にて、木梨が4度目の出演。 木梨の仮面をかぶった10人の中から本物を当てるクイズを実施。 ところが、そこにはおらず、実際には「noon boyz」のに扮し登場した。 (月曜日)放送にて、石橋が3度目の出演。 転んだ時に骨折したというアンケートで7連続クリアを果たした。 (金曜日)放送にて、木梨が5度目の出演。 今回は木梨がスタジオではなくハワイからの中継で出演した。 (木曜日)放送にて、石橋が4度目の出演。 タモリ(福岡)、鶴瓶(大阪)、石橋の3人のフリートークコーナーの東京都代表として出演していた。 (火曜日)放送にて、石橋が5度目の出演。 インフルエンザで欠席ののに代わり、コーナーの司会をした。 (木曜日)放送にて、木梨が6度目の出演。 木梨が同じく不定期レギュラーである岡村と2人で、スパイダーマンになって、鶴瓶にドッキリを仕掛けた。 (月曜日)放送『』にて、とんねるずが出演。 コンビでのレギュラーとしての出演はこれが最初で最後だった。 また、(・)と約20年ぶりに共演、元レギュラーの・(・)・(・)や現レギュラーの・()・(・)との共演も果たした。 その他の番組 [ ]• 2001年の『』では、石田弘(通称ダーイシ)に扮した石橋が港浩一(通称小港)に扮した木梨とのゴルフパター対決で、石橋がわざと大振りでスイングしたゴルフボールが大型モニターに直撃し大きく割って破壊している。 しかしこの時はオールナイトフジのようには動じず石田と港のキャラを演じつづけ笑いをとっていた。 2008年10月29日、矢島美容室が『笑っていいとも! 』に出演した際、「曜日対抗いいとも! 選手権」にて、ストロベリーが競技中に風船を割ってしまうハプニングが発生した。 生放送であるため番組放送内に再度行うことができなくなり、放送終了後に再チャレンジすることとなった。 テレビ朝日系番組でのハプニング [ ] ミュージックステーション [ ]• 放送で、『』を当時のテレビ朝日六本木センター屋上で披露した際、のをよじ登り、石橋はフェンスの上にまたがり、木梨に至ってはフェンスの外に落ちてしまい、スタジオでこの様子を見ていたは唖然としていた。 エンディングでは、木梨が指を切ってしまったため、靴下をする形で登場し、「26(歳)にもなって準備体操なしにやったから」と発言した。 放送では、派手な衣装で登場。 「ガニ」を絶叫しながら披露し、セットを破壊した。 その他の番組 [ ]• 放送の『』では、他の出演者がオリジナルソング(番組内では『お祝いの歌』と表す)を普通に歌っていたのに対して、木梨が『』の1番の歌詞に変えて歌い始めてしまい、会場からは大爆笑が巻き起こった。 司会の芳村真理は、もう一度歌うよう促すも、その後木梨はアドリブの替え歌を歌い出し、会場を盛り上げた。 またこのとき石橋が、番組のビッグバンドからエレキギターを借り、弾く真似をしたため、もう一人の司会であったタモリからは「ギターの弦が切れた」と伝えられた。 高卒キャラ [ ] 番組のスタッフはほぼ大半が大卒者である。 自分たちが高卒でありながら芸能界で大成功したことを「むしろ出世だ」とギャグとして強調することが、特に石橋は多かった。 弟子に東大生(現在タレント・医師の)がいたのも「東大生が高卒の俺たちの弟子だぜ」とギャグとして使用。 ただし『ザ・ベストテン』(TBS)出演時に高卒発言をした際には、共演者のに「あたしは中卒」(実際には高校中退)、に「ボクは高校中退ですよ」などと切り返される場面もあり、思わずとんねるずは沈黙してしまった。 司会のは「中学卒業でも偉い人はたくさんいるんだから威張らないで!! 」と、とんねるずを叱責した。 応募条件は大学生。 ここでも高卒が大学生を自由に扱う下克上美学が炸裂。 石橋曰く「俺達のだ! 」との通り、カニを口でくわえたりさせられたり体力型の試練ゲームをチーム対戦型で『憲武チーム』と『貴明チーム』に振り分けて展開した。 メンバーは古賀薬局、ボッキー潮田等。 ユニフォームはもっこりーずが上半身裸で赤いタイツ、ぺにーずが同じく黒いタイツ。 というもの。 特定のメンバーはそのまま夕ニャンにも出演。 このメンバーの中にはそのままオールナイターズと結婚したメンバーもいる。 オールナイトフジの最終回に可能な限りのメンバーを集め一度だけ再結成された。 それから時を経て、2005年9月に放送された『とんねるずのみなさんのおかげでした』の特番「とんねるずの石田さんのおかげでしたオールスター大感謝祭」に古賀とボッキーが出演。 とんねるずの二人と再会を果たすが、その際木梨に「懐かしすぎて誰かわかりません」と言われた。 なお、ボッキー潮田のみ現在音楽活動を東京都内を中心に継続している。 過去の出演作品・CDなど [ ] 版権については厳しく、例としてに発売された『』のDVDでは出演箇所はモザイクで消され、CSで再放送されている番組(『』など)でも彼らのシーンはカットされるか、放送されない回も多い。 TBSの『』の瞬間最高視聴率ランキングでも、『うたばん』での石橋部分を極力カットするなどしていた。 また自身の冠番組の再放送や、外部への二次使用的な映像放出も少ない。 これは一説に、版権管理に厳しい傘下で独立し事務所を構えたことや、それまでにも所属事務所を転々としてきたため版権関係が複雑化しているのが原因とされている [ ]。 記載されている通り過去映像などはほぼ再放送はされていなかったが、からまでCS放送のでとんねるずがデビュー当時に出演していたの『お笑いスター誕生!! 』の選りすぐりの3本を放送した「 お笑いスター誕生!! セレクション」の1月3日に放送されたとんねるずが10週勝ち抜きグランプリを獲得した放送分が放送され、からで出演作の「」の再放送が行われるようになった。 秋元康との出逢い [ ] 1983年に新事務所所属となった頃、とんねるずを面白いとテレビ局の一室に呼ぶよう手配した人物がいた。 それが当時新進の放送作家だったであり、ネタ見せ後そのネタからの影響を洞察した秋元は本人らにこれを確認するが、彼らはつかこうへいの名前すら知らなかった。 その事実が秋元を驚かせ、それを機に秋元はとんねるずに可能性を感じ、以後彼らの筆頭ブレーンとして番組構成や作詞をはじめとした様々なアイデアをとんねるずと共に形にしていくこととなる。 下克上タレント [ ] とんねるずに関しての初期文献とんねるず特集では、彼らを「下克上タレント」と評している。 芸人間では通常上下関係に関しては非常に厳しいが、とんねるずは「生意気」、「成り上がり」、「下克上」など媚びぬことをスタンスに定めている部分があり、やなどの先輩芸人相手にすら、番組中志村けんへ突然攻撃を仕掛けたり、鶴瓶へ「ねぇ、笑福亭」と屋号だけで名前を呼ぶなど、なかば意図的に芸人の礼儀を裏切ることがある。 しかしとんねるずはであり、芸として無礼にふるまったとしても控え室では「志村さん」、「鶴瓶師匠」と呼びきちんと礼を踏まえている。 とんねるずが台頭するまでの1980年代前半以前のお笑い芸人の仕事は演歌歌手の前座が多く、正月の隠し芸大会などでもあくまで歌手や人気アイドルを引き立てるであり、「歌手のおかげで食べさせてもらえる」という意識が強かった時代の名残である。 これは、、、でさえも、誰かを呼び捨てにするのは、本やラジオ、テレビの各メディアで本人がいない場所に限られていた。 これを侵せば業界から抹殺されかねないほどの約束事とも言え、対スポーツ選手でもこれは同様だった。 この状況の変化は、ビートたけしの登場から始まっている。 大学生活を経験したという意味で、当時の芸人としては異色の存在だったビートたけしは、歌手やアイドルが実は間抜けで頭が悪いという面をどんどんネタにすることと、本格的な哲学をも怖じずに知的に語る活躍によって、お笑いタレントの地位を徐々に上げていった。 たけしが開拓したカテゴリに位置するとんねるずのルールは明快で、体育会系のルールをそのまま芸能界へ持ち込み「年齢が上か下か」という点にのみ基準を置いている。 素人系のオールナイターズからまでは躊躇なく呼び捨て、アイドルに対しても、当初から比較的絡む率が高かった辺りから、「、テメー! 」のような呼び捨てもハッキリと確認されるようになる。 それ以後は、必要に応じて呼び捨てにしている。 メディア出演 [ ] とんねるずとしての出演作品を記載。 個別での出演作品は 「」、 「」を参照。 現在の出演作品 [ ] テレビ番組 [ ] スペシャル番組• (1983年7月4日、フジテレビ「」枠)• (1984年9月3日、フジテレビ「月曜ドラマランド」枠)• (1984年11月12日、フジテレビ「月曜ドラマランド」枠)• (1985年2月4日、フジテレビ「月曜ドラマランド」枠)• (1984年 - 1986年、)• (、)• (1985年1月10日、フジテレビ)第1話「ザンゲの神様 クラッシュも真っ青!! (1985年2月11日、)• (1985年3月11日、フジテレビ「月曜ドラマランド」枠)• (1985年、)• 第2話「俗悪テレビ番組 文句あるなら云うてみい」(4月19日放送)• 第7話「キャプテン翼物語」(5月31日放送)• (1986年4月15日 - 7月22日、)• (、テレビ朝日)• (1987年10月5日 - 11月9日、)• (1987年12月17日、日本テレビ「」枠)• (1988年3月30日、)• (1988年7月11日 - 1988年10月3日、TBSテレビ)• (1989年1月2日、TBSテレビ)• (1990年7月7日 - 9月29日、)• (1991年12月30日、TBSテレビ)• (1982年10月 - 1983年5月、)• (1982年10月 - 1983年6月、)• (1983年4月 - 1984年3月、TBSテレビ)• (1983年12月 - 1991年、)• (1985年7月 - 9月、日本テレビ)• (1985年、TBSテレビ)• (1985年 - 1987年、フジテレビ)• (1985年 - 1989年、日本テレビ)• (1986年 - 1987年、フジテレビ)• (1987年 - 1994年、フジテレビ【関西テレビ制作】)• (1988年 - 1997年、フジテレビ)• (1991年 - 2001年、日本テレビ)• (1994年、フジテレビ)• (1995年1月 - 1998年9月、フジテレビ【関西テレビ制作】)• (1995年10月 - 1996年3月、TBSテレビ)• (1996年、TBSテレビ)• (1997年、フジテレビ)• (1997年、フジテレビ)• (1997年6月 - 2018年3月、フジテレビ)• (1998年10月 - 1999年3月、フジテレビ【関西テレビ制作】)• (2014年1月 - 2014年3月、フジテレビ)- 同様曜日不定レギュラー• (2014年1月 - 2014年3月、フジテレビ)• (2014年3月31日、フジテレビ)• (1986年11月11日、「」枠)• (1987年、)• (1987年4月7日、フジテレビ「火曜ワイドスペシャル」枠)• (1987年8月、フジテレビ)• 夏休み中のとの代行で出演• (フジテレビ)• 佐々木信也、みのもんたの代行• (1987年10月13日、フジテレビ「火曜ワイドスペシャル」枠)• (1988年3月8日、フジテレビ「火曜ワイドスペシャル」枠)• (1988年12月、日本テレビ)• (1988年1月3日、)• 新春とんねるずスペシャル 仁義なき花の芸能界全部乗っとらせていただきます!! (1989年1月3日、日本テレビ)• (1989年10月、)• 新春とんねるずスペシャル 仁義なき花の芸能界全部乗っとらせていただきますPART II(1990年1月4日、日本テレビ)• (フジテレビ)• チームとして出場(1988年秋 1989年春秋 1990年秋 1991年春 1993年春 1994年秋)• からのクイズ出題と番宣をかねてVTR出演(1990年春)• (1990年7月、フジテレビ)• 新春とんねるずスペシャル 仁義なき花の芸能界全部乗っとらせていただきますPART III(1991年1月5日、日本テレビ)• (1993年秋 - 1994年秋、日本テレビ)• 敗者復活戦の出題VTRで登場• (1996年、フジテレビ) - 司会• (1999年秋 - 2000年秋、フジテレビ) - 司会• (フジテレビ)• (2001年7月21日 - 22日) - 「グランドオープニング」、「ハンマープライス一夜限りの生放送SP」、「グランドエンディング」などに出演。 (2004年7月24日) - 「」に出演。 (2011年7月23日) - 「」に出演。 (2012年7月21日) - 「」に出演。 (2015年7月26日) - 「女気ジャンケン」に出演。 (2010年12月27日・2011年4月3日、フジテレビ)• (2012年3月21日、フジテレビ) - 司会• (・、テレビ東京)• (2013年9月24日・2014年2月25日・7月19日 、フジテレビ)• (2015年1月1日、フジテレビ)• 司会のに、初めて2人揃って出演した番組。 (1980年7月 - 1982年4月、)• (1981年9月11日、/静岡ローカル)• (1982年7月11日・1988年7月、1989年4月・1990年、)• (1982年、毎日放送)• (1982年、テレビ東京)• (1983年6月20日、フジテレビ)• フジテレビ初出演。 (1983年10月18日、1984年10月9日、1985年10月8日、フジテレビ「」枠)• (1984年、日本テレビ)• (1984年11月1日、フジテレビ)• お笑い秋の祭典 1984年11月4日、TBS• (1984年 - 1989年・1993年、フジテレビ)• 火曜ワイドスペシャル 「第12回 オールスター寒中水泳大会」 1985年2月12日、フジテレビ• (1985年2月25日、2014年1月14日、フジテレビ)• (1985年3月2日、フジテレビ)• (1985年10月14日、日本テレビ)• (1986年、テレビ朝日)• (1986年11月10日、1986年11月17日、 日本テレビ)• (1987年、TBSテレビ)• (1987年11月7日、NHK総合)• (1988年9月20日、テレビ朝日)• (1988年、テレビ朝日)• 1989年1月30日、テレビ朝日• 1991年12月29日、関西テレビ制作:フジテレビ系列• (2000年12月31日、フジテレビ)• スペシャル(2002年3月27日、フジテレビ)• (2009年2月28日、フジテレビ)VTR出演• (2011年4月7日、2013年1月3日、フジテレビ)• (2012年12月24日、2013年12月23日、2014年12月22日、テレビ朝日)• (フジテレビ)• (1985年12月3日・12月17日)• (1991年12月10日)• (1992年12月8日)• (1993年12月7日)• (1994年12月6日)• (2012年12月5日)• (2013年12月4日)• (2014年12月3日)• (テレビ東京)• (TBS)• (TBS)• (フジテレビ)• (テレビ朝日)• (2014年11月3日、フジテレビ)• 、・・・・ドーナッチョ・ゾロ・アーモンドボールなど。 CMデビュー作品。 (1980年 - )• (1982年)• (当時:セガ・エンタープライゼス) (1983年)• 、WHAT'S NEW• 、 (1986年)• 、ビデオテープ「DCシリーズ」(SUPER HG、SUPER AG)• 、ランバード、ランバードプロケードED• 、CLUB[ef]• 、珈琲たいむ• 、メンズムース、ウェットフィニッシュ、メンズリンプー• 、黒ラベル• 、レゼルブワイン、モルツ• 、ミツカン酢、おむすび山• 、BAZOOKA• 、週刊就職情報• 、パルディオ• インターナショナル・トレーディング(G. ホーキンス日本総代理店)、ホーキンストラベラー• (JRA)、夏競馬• (1991年)• (1990年)「とんねるずのみなさんのおかげです」の企画CM。 当時ののCMの。 (1995年)• (1999年)• 「ライフアカウントL. 」(2000年 - 2001年)• 、SPASH(2008年9月26日- )として出演。 ・・と共演。 こんと いん なえば(1991年 - 2000年) 1991年より苗場プリンスホテルで10年間続いたコントライブ。 2000年以外(2月11日 - 2月13日)は毎年3月初旬に金土日の3日間で開催。 木梨の誕生日や翌日の松田聖子の誕生日に重なることがあり、毎年木梨がそのことに触れていた。 きっかけはプライベートで作曲家の後藤次利と見に行ったの苗場ライブで、見に行った年がちょうど10回目だったことから、石橋は「こんな素敵なステージで10年間コントライブをやってみたい。 」とライブ後ユーミンといっしょにお酒を飲んでいた席で話をして、ユーミンが苗場プリンス関係者を紹介し、翌年から始まった。 元々舞台上に一切のセット無しで己の体ひとつで笑いや感動を与えているの『一人芝居』に触発されていた。 2000年ファイナルの模様が収められたビデオが全2巻で発売されている。 この節のが望まれています。 受賞歴 [ ] 素人時代• ザ・チャレンジ第3代チャンピオン獲得(石橋)• TVジョッキーザ・チャレンジ第1回グランドチャンピオン大会にて初代グランドチャンピオン獲得(石橋)• TVジョッキーザ・チャレンジ第5代チャンピオン獲得(木梨) デビュー後• 第2回ゴールデンルーキー賞『激突シリーズ』特別敢闘賞• お笑いスター誕生!! 10週勝ち抜き第6代グランプリを獲得• 第18回上半期新人賞「一気! 1985年 第18回最優秀新人賞 「雨の西麻布」• 1985年 第18回全日本有線放送大賞最優秀新人賞 「雨の西麻布」• 1985年 第14回特別賞• 1985年 第11回話題賞• 1985年 第23回芸能賞新人賞• 第14回特別賞• 1986年 第5回特別賞• 1986年 第12回全日本歌謡音楽祭特別賞• 第10回話題賞 「そろばんずく」• 第26回ゴールデンアロー賞芸能賞• 第6回'89タレント部門賞• 1989年 第6回ATP賞'89番組部門賞 「ねるとん紅鯨団(IVSテレビ制作/KTV)」• 第22回大賞 「情けねえ」• 企画賞(憲三郎&ジョージ山本) 「浪漫〜ROMAN〜」• 企画賞(野猿) 「STAFF ROLL」 音楽活動 [ ] とんねるず以前にも、お笑い芸人がレコード・CDを出す事自体は珍しいことではなかったが、彼らの場合は本業のお笑いと歌手活動を並行して行っていたことが特徴で、調べのお笑いタレントの歴代シングル・アルバム総売上枚数(企画ユニット系も全て含む)では、歴代1位となっている。 変遷 [ ] 1980年代 [ ] 1981年、テレビアニメ『』の主題歌「」を初のシングルとして発売。 翌年、1982年にはから企画物シングル「」をリリース。 その後コンビの人気が開花し始めた時期に、に籍を置き、1984年12月リリースの「」(一気ブームを巻き起こす)を皮切りに音楽活動が本格始動していく。 自身最初のTOP10入り 5位 となった「」で歌手としての知名度も一段と上がり、ランキングの上位常連となっていった。 評価を受けた彼らは、レースにノミネートされ、賞を獲得していった。 ( を参照。 ) 当時は多くの音楽番組にも出演していき『』()、『』『』()、『』()、『』()などに出演。 86年5月リリースの「やぶさかでない」から、レコード会社をビクター音楽産業からに移籍している。 音楽活動開始初期(ビクター在籍時からキャニオン移籍初期)は「一気」などのコミックソングのような曲を歌っており、「」「」「」などの日本歌謡、「」「」などのラテン系ディスコソングなど、様々なジャンルを展開。 とある生放送番組収録後には、夜中にも関わらず過激なという音楽性について、親交のあったから説教を受けた事もあった。 しかし、1989年6月24日には美空ひばりが死去した。 11月7日には「とんねるず NO TEUCHI」と題してでの単独コンサートを行っている。 1990年代 [ ] 人気絶頂を迎えていた彼らは本業のお笑いタレント活動に再び軸足を置いた事もあり、一時期より歌手活動は減り(コンサートツアーは毎年コンスタントに行っている)、1990年前後のシングル発売はほとんど無かったが、に発売したシングル「」をきっかけに、歌手としてもさらに大きな飛躍を迎える。 「情けねえ」では数か月もの間の上位に位置するロングヒットを記録。 同曲にてその年の第22回の大賞を受賞。 ついにはに初出場を果たした。 紅白では1丁で出演して「を払おう」というペインティングをして話題になり、歌手別視聴率では2位を記録した(なお1位は大トリの)。 次のシングル「」では初の1位を獲得し、を記録する自身最大のヒット曲となった。 1992年度の年間シングルチャートでは6位を獲得。 当初この楽曲は『とんねるずのみなさんのおかげです』のオープニングテーマ用としてサビのみ書き下ろされ、CD化されるにあたり、その後サビ以外の部分も作曲して発売された。 番組オープニングで曲といっしょに映像で流れていたは、その後「がじゃいも」等々で使われる。 その後、「」では2週連続1位を獲得。 「」でも1位を獲得した。 続く「」もヒット。 1990年代に入ってからは「ガラガラヘビがやってくる」や「がじゃいも」などのコミックソングの一方で、「情けねえ」や「一番偉い人へ」などの社会風刺を含んだメッセージ色の強い曲が主体になっていく。 活動休止後(企画ユニット時代) [ ] 1996年シングル「」のリリースを最後に、「とんねるず」名義での音楽活動は事実上休止してしまっている。 しかし歌手活動そのものを辞めたわけではなく、以降も様々なスタイルのユニットを組んで活動を続けている。 生ダラ発ユニット(1996 - 1997年) 木梨はにとの演歌デュオ「」を結成。 (原譲二名義)作詞作曲による「」で、売上20万枚超のヒットを飛ばし、その年の『』に出場を果たしている。 歌手別視聴率では4位を記録した。 一方石橋は、自らがプロデューサーとなってヒットを生みだすと意気込んで始まった企画で、にとのデュオ「」を結成する。 のコマーシャルソングとなった「」はオリコンランキングでトップ3入りし、売上50万枚のヒット。 またととの3人組バンドで、作曲にが参加した「」(当初のユニット名は「生殺(なまごろし)」だったが、の影響で改名)も結成しており、シングル「」をトップ10入りさせるなどヒットさせている(全て『』内で結成)。 1997年暮れには、当番組で結成した全ての音楽ユニット(CD発売されなかった「サーフノリダーズ」などを含む)が集結し、合同コンサートをで開き完結した。 その後、音楽系の企画は「とんねるずのみなさんのおかげでした」に引き継がれていく。 『生ダラ』でのユニットは全て石橋か木梨のどちらか一方のみが参加するというユニット形態での音楽活動だった。 野猿(1998 - 2001年) 、『』内で番組スタッフと結成した「(やえん)」で、2年ぶりに2人揃って音楽活動を再開することになる。 当時番組のコーナーでとんねるずがのパロディをした際、バックダンサーとして踊っていた番組スタッフが2人の目に止まり、「CDデビューあるか? 」と話が盛り上がりスタートした。 元々スタッフのみで結成する予定だったが、ボーカルを決めるオーディションを行った際、まともに歌えるメンバーが少なかったために、ボーカル面で不安を感じた秋元の助言で、一緒に審査していたとんねるずが急遽歌収録に参加することになり、そのまま加入する運びとなった。 当初は1曲のみの限定で始まったが反響が大きく、最終的には98年から01年までの約3年間活動が行われた。 当グループでは、メンバーの脱退や加入など、曲リリース毎に様々な展開がなされた。 活動期間内に11枚のシングル、3枚のアルバム、DVDなどがリリースされ、全てのCD、DVDでオリコンチャートトップ10入りを果たす。 NHK紅白歌合戦にも1999年と2000年に2年連続で出場。 またには、には3デイズ、にはコンサートツアー「撤収」を開催し、、3デイズ、更に「完全撤収」と題して同所で追加公演2デイズと大きな会場でのライブも行われた。 この代々木でのライブを最後に野猿は解散(『撤収』と呼んでいる)した。 そして撤収して10年の節目を迎えたには、全ての楽曲(全50曲)の着うた配信を開始した。 野猿撤収後は再び、それぞれが単独で音楽活動を継続する。 ( 単独での音楽活動は、を参照。 矢島美容室(2008年 - 2010年、2012年3月) 、『とんねるずのみなさんのおかげでした』内でと「」を結成。 7年以上の月日を経て2人が揃って音楽活動を再開。 「矢島工務店」を見てバンドを始めたというDJ OZMAと話が盛り上がり企画がスタートした。 とんねるずとDJ OZMAのプロデュースで、から来た母娘による3人ユニットである。 楽曲は作詞が脚本家・放送作家のが担当、作曲はDJ OZMA自らが担当している。 デビュー曲「」は、音楽配信で170万ダウンロードを記録 2008年当時。 オリコンCDチャートでトップ3入りのヒットを飛ばす。 同年には国立代々木競技場第一体育館でライブを開催。 その後も活動は継続され、計5枚のシングル、2枚のアルバムがリリースされている。 にはスクリーンデビューを果たす。 彼女達がデビューを果たすまでを描いた映画『』がから全国公開。 全国上映に先駆けてに、に建設中ので初めてのイベントとなった映画公開イベントを開催。 また舞台挨拶が東京、福岡、大阪、名古屋で開催された。 その後、フジテレビ社屋移転15周年音楽番組『とんねるずが生放送!音楽番組全部見せます!〜名曲で元気になろう!』にて復活。 「ニホンノミカタ」を披露した。 2010年代 [ ] 目立った歌手活動は行ってこなかったが、自身のテレビ番組や、木梨のソロライブ「NORITAKE GUIDE 5. 0」に石橋がサプライズ登場し久しぶりの客前ライブを行ったり、『FNS歌謡祭』に2012年から3年連続で出演するなど、二人で歌のステージに立つ機会は度々あった。 2018年3月の「とんねるずのみなさんのおかげでした」最終回では、作曲家の後藤次利、藤井尚之ら豪華メンバーによる生バンドで「情けねえ」を披露している。 ソロ・新ユニット(令和元年 - ) [ ] 9月、二人が個々の歌活動を開始することが発表された。 木梨は、自身が出演していた「2019」にて、自社レーベル『』を立ち上げ初のソロ歌手デビューすることを発表。 に配信EP『』でデビューし配信系チャートで6冠、発売のアルバム『』では8冠を獲得した。 一方石橋は、元野猿メンバーの平山晃哉と神波憲人との3人組ユニット『』の結成を発表。 彼らの楽曲を数多く手がけてきた秋元康、後藤次利コンビによる1stシングル『』でにインディーズからデビュー。 御披露目ライブ『サビ落とし』と題したライブハウスツアーを行う。 後に、もこれに並んでいる。 作家陣 [ ] とんねるずや関連ユニット(野猿など)全般の楽曲の作詞を担当している、作曲を担当しているなどのほか、のちに美空ひばりの「」を秋元と共に生みだすことになるや、友人であるアーティスト(、、、)らが楽曲を提供している。 これは、ビクター時代から一貫しており、「バックの音源をしっかり作って、その中でとんねるずを自由に暴れさせる」という音楽制作コンセプトがあったためである。 にリリースしたアルバム『おまえ百までわしゃ九十九まで』は歌謡活動10周年を記念するアルバムとあって、、、、、、(の妻)、などが詞を提供している。 これは『とんねるずの生でダラダラいかせて!! 』の企画として、制作から完成までの過程が放映されていた。 またアルバム収録の「ブラックキャッツ!」では石橋と木梨の共作での作詞・作曲、シングル「」のカップリング「」では作詞石橋、作曲木梨(実際は後藤次利が作曲の大部分をサポートしているがクレジットはされていない。 しかしこの件に関して後藤は了承している)という自作曲も少ないながら存在する。 その他 [ ]• 音楽活動時のツアーバックバンドには結成前の 1988年参加 と 1985年 - 1988年参加 の2人が在籍していた。 中村は当時デビュー前の吉田に、大勢の観客との一体感、雰囲気を体感させるため、バックコーラスとしてとんねるずのライブツアーに同行させた。 石橋が自身のラジオ番組で、CDが一時期売れなくなったタイミングと相反して、ちょうど巷ではが人気で、歌番組で歌いながら踊っている彼らのパフォーマンスを目の当たりにして、「俺らは歌を諦めてお笑い一本で頑張るしかない」と思ったきっかけになったらしく、その後の音楽番組『』の真裏で『』を始めることもあり、今後『ザ・ベストテン』に一生出られなくなることを覚悟でお笑いだけの道を歩み始めたことを語ったことがある。 番組は開始と同時に大成功し、約1年後「ザ・ベストテン」は終了する。 (ちなみに「とんねるずのみなさんのおかげです」と『ザ・ベストテン』が被っていた期間は、シングルの発売をしばらく控えるなど配慮していた。 放送の『』内で、石橋が秋スペシャル(詳細は番組記事参照)で久しぶりに「一番偉い人へ」を披露した際に手ごたえを感じ、と相談した結果、音楽活動再開を検討していると語った。 また、同じフジテレビ発の3人組ユニットでもあるを半ばネタではあるものの敵対視している節もあり、2008年10月30日に『』に出演した際も、石橋は「羞恥心をやっつける」とまで発言していた。 2020年1月22日、ポニーキャニオン(キャニオンレコード)時代の楽曲が、各種インターネット配信サイト(サービスを含む)にて配信が開始された。 作品 [ ] 他の関連作品については、「」 、「」 、「」 、「」 の作品を参照。 シングル [ ] 枚 発売日 タイトル 形態 品番 最高位 サブスク配信 1 1981年8月25日 EP 10007-07 10214-07 2 1982年7月25日 EP JAS-2036 ビクター音楽産業(現JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント) 3 1984年12月5日 EP SV-7459 19位 4 1985年4月21日 EP SV-9009 15位 5 1985年9月5日 EP 8cmCD SV-9054 VIDL-10391 5位 6 1986年1月21日 EP SV-9088 2位 キャニオンレコード(現ポニーキャニオン) 7 1986年5月28日 EP 8cmCD 7A-0587 S10A-0073 2位 2020年1月22日 - 8 1986年8月5日 EP 8cmCD 7A-0612 S10A-0074 4位 9 1986年10月21日 EP 8cmCD 7A-0643 S10A-0075 2位 10 1987年2月25日 EP 8cmCD 7A-0693 S10A-0076 2位 11 1987年4月5日 EP 8cmCD 7A-0721 S10A-0077 5位 12 1987年6月5日 EP 8cmCD 7A-0734 S10A-0078 3位 13 1987年9月17日 EP 8cmCD 7A-0768 S10A-0079 3位 14 1988年2月25日 EP 8cmCD 7A-0816 S10A-0006 7位 15 1988年7月6日 EP 8cmCD 7A-0864 S10A-0104 9位 16 1990年8月8日 8cmCD PCDA-00104 7位 17 1991年5月29日 PCDA-00191 3位 18 1992年1月24日 PCDA-00279 1位 19 1992年9月3日 PCDA-00355 1位 20 1993年1月28日 PCDA-00397 1位 21 1994年2月24日 PCDA-00515 2位 22 1994年12月7日 PCDA-00683 6位 23 1996年2月12日 PCDA-00829 12位 アルバム [ ] オリジナルアルバム [ ] 枚 発売日 タイトル 形態 品番 オリコン 最高位 サブスク配信 ビクター音楽産業(現JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント) 1 1985年3月21日 LP 12cmCD 12cmCD SJX-30265 VICL-18112 VDR-1018 10位 2 1985年11月1日 LP 12cmCD 12cmCD SJX-31280 VICL-18113 VDR-1096 5位 キャニオンレコード(現ポニーキャニオン) 3 1986年12月28日 LP 12cmCD C28A-0544 D32A-00263 10位 2020年1月22日 - 4 1987年10月21日 LP 12cmCD C28A-0598 D32A-0318 5位 5 1988年4月29日 LP 12cmCD C28A-0635 D32A-0360 5位 6 1989年5月17日 12cmCD D29A-1011 5位 7 1990年6月27日 PCCA-00089 13位 8 1991年7月10日 PCCA-00284 4位 9 1992年7月24日 PCCA-00381 5位 10 1993年9月17日 PCCA-00484 6位 11 1994年9月15日 PCCA-00632 10位 12 1995年7月5日 PCCA-00778 6位 ベストアルバム [ ] 公式 枚 発売日 タイトル 販売形態 規格品番 オリコン 最高位 サブスク配信 1 1986年5月21日 自歌自賛 ザ・ベスト・オブとんねるず LP 12cmCD SJX-30293 VDR-1205 9位 2 1994年6月17日 12cmCD PCCA-00606 5位 2020年1月22日 - 非公式 枚 発売日 タイトル 販売形態 規格品番 1 1986年12月16日 紅白! 1 「リカコと過ごした夏」 EPISODE1 - 5 vol. 2 「ヴァ〜ヴァヴァンヴァヴァヴァヴァヴァ〜ヴァ〜ヴァン」 EPISODE6 - 8 vol. 4 「部屋と優香とリアルゴリラ」 EPISODE11 - 12 vol. 5 「エイシャラエイシャー! 」 EPISODE13 - 14 vol. 1「デオデオデオデオ」 vol. 3 1 2 3 DVD PCBC-61777 PCBC-61778 PCBC-61779 PCBC-61780 その他 [ ] 枚 タイトル 生産番号 備考 1 DC-0157 非売品CD。 2 DC-0121 DC-0142 当時出光興産のガソリンスタンドのキャンペーン利用客のみが入手できたCD。 3 うなちん 「とんねるずのみなさんのおかげです」オープニングテーマ曲。 当初発売予定だったが、諸事情により中止となった。 ライブ・コンサートツアー [ ] ライヴ・コンサートツアーも積極的にこなし、主な大規模会場としては、でからまでに掛けて、計6回の武道館ライブを行っている。 またにはで5万人以上もの観客を前にライブを行った。 お笑いタレント単独の東京ドーム公演は後にも先にも彼らだけである。 年 公演日 タイトル 場所 1985年 とんねるず世直し行脚コンサート (公演日・会場等不明) 5月3日 カリスマとんねるずと1万3千人と信者たち EAST 1986年 1月4日 ダフ屋も並べ 日本武道館 俺たちは眠らない (公演日・会場等不明) 8月10日 気分は盆と正月 1987年 心の旅路 (公演日・会場等不明) 12月06日 - 1月3日 世界大とんねるず博 7月15日 - SOUND PARADISE IN OKINAWA '95 宜野湾海浜公園野外劇場 7月29日 - OKURAYAMA SOUND FRASH '95 大倉山90M級ジャンプ競技野外特設ステージ 8月6日 - SOUND STADIUM '95 長野県東筑摩郡四賀村村民グランド特設ステージ 8月19日 - 遠野 夏の陣 '95 岩手県遠野市営野球場 書籍 [ ]• 天狗のホルマリン漬け(1985年7月、発売元:)• とんねるずのおいにい鼻にツーン(1986年7月、ニッポン放送出版、)• とんねるず 大志(1988年6月、ニッポン放送出版、扶桑社) とんねるずの生い立ちを第1章〜第4章に分けてまとめたもの。 とんねるずのおいにい2〜ん(1989年12月、ニッポン放送出版、扶桑社) 関連人物 [ ]• (放送作家、作詞家、作家、プロデューサー)• (ミュージシャン、作曲家)• (フジテレビ代表取締役会長)• (フジテレビ、エグゼクティブプロデューサー)• (放送作家、元帝京高校サッカー部)• (放送作家、脚本家)• (放送作家)• (TV制作、プロデューサー)• (東北新社取締役、CMディレクター、映画監督)• (TV制作、タレント)• (元TBSディレクター、テレビ・映画監督)• (元:関西テレビアナウンサー、競馬関連)• (元マネージャー、放送作家)• (ニッポン放送常務取締役)• (プロ野球選手、とんねるずの後輩)• (演出家、ディレクター)• 安西義裕(演出家、ディレクター、プロデューサー)• (演出家、ディレクター)• (歌手) 脚注 [ ] []• 著『時代観察者の冒険』より [ ]。 西条昇『東京コメディアンの逆襲』(光文社文庫) [ ]• テレビ東京系列 『』 2008年5月11日放送回 [ ]• 西日本新聞 西日本新聞社. 2020年4月22日 2020年5月8日閲覧。 実際には29年目(とんねるずが出演しない別番組を放送していた『おかげでした』の第1・2期の中断期間半年を除いて28年半)である。 ,日刊スポーツ,2018年1月26日• 2019年11月1日放送TOKYOFM「鈴木おさむと小森隼人の相談フライデー」の石橋貴明の発言にて• 2014年4月3日放送TBS系ラジオ『』• 2014年4月7日放送 [ ]、『笑っていいとも! グランドフィナーレ』の翌日に収録• Yahoo! ニュース. オリコン Yahoo Japan. 2014年1月23日. の2014年1月27日時点におけるアーカイブ。 Yahoo! ニュース. オリコン Yahoo Japan. 2014年2月3日. の2014年2月21日時点におけるアーカイブ。 ツアー名の「ナイアガラドロップキック」は、で石橋がとのPK対決の際に定岡がその場で考えたシュート名であり、そのままツアー名に使われた。 また、定岡は同番組の石橋との闘牛対決の罰ゲームで、同コンサートツアーの日本武道館にて前説を行なっている。 関連項目 [ ]• - 2人の出身校• - 「」に登場した強盗2人組は、とんねるずがモデルとされている。 外部リンク [ ]• - (2018年末で閉会).

次の

とんねるずの歌詞一覧リスト

とんねるず 曲

日本のお笑いコンビ。 帝京高校の同級生の石橋貴明と木梨憲武によって、1980年に結成。 82年の『お笑いスター誕生』でグランプリ獲得後、『オールナイトフジ』『夕やけニャンニャン』などのTV番組で爆発的な人気を博す。 以降も『とんねるずのみなさんのおかげです』をはじめ、次々とヒット番組を生み出し、時代の流行を反映した芸風は社会現象にもなる。 一方、歌手としても「情けねえ」「ガラガラヘビがやってくる」など多くのヒットを放ち、89年には東京ドーム公演を開催、91年には『紅白歌合戦』にも出場。 その後も野猿や矢島美容室といった番組企画ユニットを結成。 2010年代以降はソロやユニット活動を中心に活躍している。 すべて表示 閉じる 1曲まるごと収録されたCDを超える音質音源ファイルです。 <フォーマット> FLAC (Free Lossless Audio Codec) サンプリング周波数:44. 1kHz|48. 0kHz|88. 2kHz|96. 0kHz|176. 4kHz|192. 0kHz 量子化ビット数:24bit• ハイレゾ商品(FLAC)の試聴再生は、AAC形式となります。 実際の商品の音質とは異なります。 ハイレゾ商品(FLAC)はシングル(AAC)の情報量と比較し約15~35倍の情報量があり、購入からダウンロードが終了するまでには回線速度により10分~60分程度のお時間がかかる場合がございます。 ハイレゾ音質での再生にはハイレゾ対応再生ソフトやヘッドフォン・イヤホン等の再生環境が必要です。 詳しくは をご確認ください。

次の