田畑政治 子孫。 水泳ニッポンの父 田畑政治(たばた まさじ)/浜松市

田畑政治(たばたまさじ)プロフィールと経歴|家系図と子孫は?|はぐれめたる

田畑政治 子孫

俳優のが26日、茨城県つくばみらい市にある野外型ロケ施設「ワープステーション江戸」で一般公開開始となった近現代エリアのオープニングセレモニーに出席。 NHK大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺(ばなし)〜』(毎週日曜 後8:00 総合ほか)で阿部が演じる田畑政治(たばた・まさじ)のご子息・田畑和宏さんと初対面した。 『いだてん』は、大河ドラマとしては33年ぶりの近現代劇。 和宏さんは元NHK職員で、政治部記者として活躍し、理事も務めた。 父・政治さんはとにかくせっかちな性分だったことは間違いないようで、「考えるより先に足が動いてしまう。 右も左も後ろも見ずに、ただ前を向いて行く。 父の車の後ろのドアはタクシーのように自動ドアになっていて、運転手が車を降りてドアを開けるまで待ちきれなくてそうした。 それくらいせっかちだったんです」と和宏さん。 朝、散歩に出かけても、走ると言ったほうがいいくらいの勢いで歩き回っていたという話も。 阿部も「道路の渋滞ががまんできなくて、前の車を押しに行ったというシーンも撮ったんですけど、本当のエピソードらしいんです。 僕のアドリブではないんで。 料亭などで食事して帰る時は100%近く、靴を間違えて履いて帰る。 本当なんですか?というようなエピソードばかりで、とても魅力ある方。 演じていて楽しいです」と話した。 和宏さんは「父は戦争中から戦後にかけて新聞記者をしていたこともあって、戦争で日本とアジアの人々を殺してしまったことに対するある種の罪の意識を持っていた。 世界中から除け者になった日本の信頼を取り戻そうという情熱だけはものすごく強く、そのためにスポーツの振興やオリンピック誘致をやっていた人です」と父の思いを代弁。 「せっかちが過ぎて周りに迷惑もかけたかもしれませんが、一生懸命やっていただけなので、そのへんをうまく、そう悪者にしないでください」と冗談まじりに阿部にエールを送っていた。 同所には、お堀や太鼓橋、戦国砦や城郭、長屋や旅籠など、江戸時代中心のオープンセットが建ち並び、一般公開もされていたが、「近現代エリア」として約1万平方メートルの土地に明治から大正・昭和初期のドラマの撮影に最適なセットを増設(総面積は約5. 5万平方メートル)。 近現代エリアは昨年4月に完成して以来、『いだてん』の撮影に使用されていた。 東京・銀座や新橋をイメージした9棟の鉄筋ビル群や、ノスタルジックな雰囲気が漂う22棟の木造建築群が立ち並び、ビル群を一周する路面電車(自走式)も導入された。 一般来場者は、年間平均して約2万5000人とのことだが、オープニングセレモニーのあった本日、昼頃までに約1400人もの来場者があった。 阿部は「セットが忠実なので、その時代にタイムスリップしたような感覚になるし、すごくこだわっているのでやりがいがあります。 『いだてん』のあのシーンはここで撮ったのかな、と想像しながら見学していただくのも楽しいと思います」と、来場を呼びかけていた。

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田畑政治(たばたまさじ)経歴や妻息子や子孫は?浜松一中オリンピック

田畑政治 子孫

NHK大河ドラマ「いだてん」のモデル・田畑政治(たばた・まさじ)の生涯を描く立志伝の後半です。 前半は「」をご覧ください。 国際舞台への復帰-フジヤマのトビウオ 日本がオリンピックに参加するためには、各種競技が国際連盟に復帰し、日本オリンピック委員会が国際オリンピック委員会(IOC)に認められなければならなかった。 そこで、昭和24年、永井松三がIOC総会に出席して日本のオリンピック復帰を訴えると、IOC総会はオリンピック復帰の前提として、各競技の国際連盟への復帰を勧告した。 この勧告を受けた田畑政治は国際水泳連盟に強く働きかけた。 これに協力してくれたのが、水泳の日米交流で田畑と親交のあるアメリカ水泳のキッパス監督である。 キッパス監督は「日本水泳連盟は戦時中、会費を払っていなかったので資格停止となっただけでとなっただけなので、会費を納めれば、自動的に国際水泳連盟に復帰するのではないか」と言い、資格停止処分を会費滞納へとすり替えるという詭弁で、国際水泳連盟に働きかけてくれたのだ。 田畑政治は戦前から国際水泳連盟と親密にしていたことも功を奏し、国際水泳連盟が親書で決議を取るという特別な計らいをしてくれ、日本水泳連盟は昭和24年6月に国際水泳連盟へ復帰した。 これに喜んだハワイの日系人が、日本水泳連盟の国際水泳連盟を記念して、日本チームをハワイに招待したい誘ってくれた。 田畑政治は、これを利用して、アメリカ本土まで足を伸ばし、ロサンゼルスで開催される水泳大会への参加を計画する。 しかし、日本はアメリカの占領下にあり、色々な規制を受けており、外貨おなく、メリカ遠征など夢の又夢という話だった。 ところが、田畑政治は、GHQの総司令官ダグラス・マッカーサーはアムステルダム・オリンピックで選手団長を務めるほど、スポーツに理解がある事を知っいた。 そして、方々に働きかけた結果、マッカーサー元帥の許可がおり、マッカーサー元帥から直々に「徹底的にアメリカ選手をやっつけろ。 手心を加えるな。 真剣な態度で立ち向かい、これを打ち破ることこそ、スポーツマンにとって最高の礼儀である」と激賞されて、日本水泳チームはロサンゼルスの大会に出場することだが出来た。 さて、ロサンゼルスで協力してくれたのが、アメリカ在住の日系2世フレッド・イサム・ワダ(和田勇)である。 フレッド・イサム・ワダ(和田勇)はスーパーの経営で成功しており、日本水泳チームを自宅に泊めてくれた。 そして、フレッド・イサム・ワダ(和田勇)のおかげで、日本人選手は日本食を食べることができ、日本水泳チームはロサンゼルス大会で本領を発揮し、古橋廣之進と橋爪四郎が同大会で数々の世界記録を樹立。 特に古橋廣之進は「フジヤマのトビウオ」としてアメリカを驚愕させた。 日本水泳の活躍によって、日本人はアメリカ人に認められ、日系二世への差別も無くなっていった。 日本水泳は日系人に大きな勇気と希望を与えた。 一方、マッカーサー元帥はオリンピック委員に日本のIOC復帰を要請していた。 また、日本水泳の活躍によって世界の日本に対する世論が代わり始めたので、国際オリンピック委員会(IOC)は、態度を一転させ、「日本を除名した事実は無い」と表明し、日本はIOCに復帰したのである。 さて、古橋廣之進と橋爪四郎の活躍もあり、田畑政治は日本での水泳大会の招致に成功し、昭和25年に日本で水泳大会が開催された。 この大会で日本はアメリカに惨敗してしまうが、大勢の観客が訪れたことにより、日本水泳連盟はオリンピックに向けての潤沢な資金を得ることが出来た。 そして、日本は昭和27年のサンフランシスコ平和条約によって独立国となり、同年のヘルシンキ・オリンピックで、オリンピックに復帰を果たす。 ヘルシンキ・オリンピックでは、レスリングの石井庄八が戦後日本初となる金メダルを取得したが、日本水泳陣は銀メダル止まりと振るわず、「フジヤマのトビウオ」の異名をもつ古橋廣之進も不調でメダルを逃がした。 スポンサードリンク 朝日新聞から追放される 戦後の戦争責任問題で朝日新聞の幹部が退陣したため、田畑政治は、みんなに推されて、昭和22年に朝日新聞の取締役に就任して朝日新聞東京本社の代表を勤め、昭和24年には常務取締に就任していた。 しかし、昭和26年に公職追放を解除された村山長挙が朝日新聞の会長に復帰すると、村山長挙は社長の長谷部忠に田畑政治の解任を要求した。 社長・長谷部忠は不当を訴えて、田畑の解任を拒否し、昭和26年に退陣した。 田畑も翌年の昭和27年に朝日新聞を辞めた。 そして、昭和27年、田畑政治は選手団長として日本人選手を率いてヘルシンキへと乗り込んで、レスリングの石井庄八が戦後初となる金メダルを取得したが、日本水泳陣は振るわず、銀メダル止まりとなった。 しかし、その一方で、田畑は大きな収穫を得ていた。 東京オリンピックの野望 ヘルシンキ・オリンピックから帰国した田畑政治は、突拍子も無い事を提案する。 東京オリンピックの開催するというのだ。 田畑政治は終戦直後から、オリンピックの開催を考えており、ヘルシンキ・オリンピックは規模が大きくなかったので、この程度の規模なら日本でもやれるという勇気を得て帰国したのだ。 しかし、東京でオリンピックを開催するには莫大な金が要る。 田畑政治は金の問題でオリンピック招致について口を閉ざした。 このようななか、昭和28年、ヘルシンキ・オリンピックの組織委員会の会長を務めたフレンケルが来日して、田畑政治・東竜太郎と会談する。 フレンケルは、田畑らがオリンピックの開催を考えていることを見抜いており、「オリンピックは金になる」と言い、ヘルシンキもオリンピックの開催で観光収入が増えて儲かっていることを明かし、熱心に2人に東京での開催を勧めた。 これを受けて田畑政治は、東京都知事の安井誠一郎や総理大臣の岸信介を説得し、東京オリンピックの招致は都議会で可決、衆議院でも可決され、東京オリンピックの招致が国家事業として動き始めたのであった。 高石勝男の反乱 田畑政治は、昭和31年のメルボリン・オリンピックでも選手団長として日本人選手を指揮したが、日本水泳は金メダルを確保したものの、全体的に成績は悪かった。 そのようななか、水面下で動いていた関西支部長・高石勝男が反旗を翻したのである。 元々、高石勝男は兄と事業をしていたが、現役時代は水泳の名選手として名を馳せてお入り、田畑はその経歴を買われて、関西支部長を任されていた。 戦前の栄光もむなしく、戦後の水泳界は成績が低迷していたことから、日本水泳連盟は高石勝男にメルボリン・オリンピックの監督を要請したのだが、高石勝男は耳病を理由に断った。 しかし、これが高石勝男を刺激したのか、高石勝男は田畑政治の中央集権体制など、蓄積していた数々の不満を爆発させ、水面下で打倒田畑を画策したのである。 そして、高石勝男は、メルボルン・オリンピックの翌年の昭和32年に、日本水泳連盟の会長選に立候補したのだ。 現職会長の田畑政治が再選すると考えられていたので、高石勝男の立候補によって、水泳界は真っ二つに分かれて大混乱に陥った。 これは「日本水泳界の汚点」となった。 結局、田畑政治が1年で辞任するという密約によって事態の収拾が図られ、田畑が再選するが、田畑は1年後に混乱の責任を取る形で日本水泳連盟の会長を辞任し、東京オリンピックの招致に専念するのであった。 スポンサードリンク 東京招致に向けて 昭和30年にIOC会長ブランデージが来日して、東京にオリンピックを招致したいのであれば、昭和35年のオリンピックに立候補して、昭和39年のオリンピックを狙いなさいと助言した。 ヨーロッパ諸国は遠征費の関係で、2度続けてヨーロッパ以外でオリンピックを開催する事を嫌っており、昭和35年のオリンピックはローマ開催が濃厚だった。 このため、東京が立候補しても負けは確実だが、立候補しておくことで、東京もオリンピックを開催する意向があるというアピールになり、昭和39年のオリンピックが狙えるのだという。 こうして、東京は昭和35年のオリンピックに立候補して、アピールに徹し、予定通りにローマに負けて、昭和39年のオリンピック開催を狙うのだった。 東京オリンピック招致活動 祖国思いの日系2世フレッド・イサム・ワダは、田畑政治に請われ駐米委員となっており、東京開催に向けて並波ならぬ情熱を燃やしていた。 その熱意を受けた総理大臣・岸信介は、フレッド・イサム・ワダを東京オリンピック準備委員会の委員に任命して、投票の要所である中南米訪問の全権を委任した。 こうして、フレッド・イサム・ワダは中南米10カ国11都市を私費で訪れて、各国のIOC委員に東京開催への協力を依頼し、確実に9票、上手くいけば10票が得らるだろうという好感触を得た。 一方、ヨーロッパでは貴族が投票権を持っていたことから、「プリンス・タケダ」こと竹田恒徳(日本オリンピック委員会会長)は、元皇族という経歴を活かし、ヨーロッパ方面で東京招致活動に活躍する。 さらに、竹田恒徳は、ブリュッセル(ベルギー)から、今回の立候補はアピールであり、本当に狙っているのは次ぎのオリンピックという本心を引き出し、事実上のベルギーからの投票の確約を得ることにも成功する。 東京オリンピックを勝ち取る オリンピック招致を勝ち取るには、国際オリンピック委員会(IOC)総会のプレゼンテーションでIOC委員に好印象を与えなければならない。 そこで、田畑政治は、IOC委員にはフランス語が分かる人が多いことから、フランス語で東京招致のプレゼンテーションを行おうと考え、フランス語が堪能でスポーツにも理解がある外務省官房総務参事・北原秀雄にプレゼンテーションを依頼した。 北原秀雄は、プレゼンテーションを引き受けたが、運動会のリレーでアキレス腱を切って負傷してしまったので、代わりとして、NHK解説委員として活躍している先輩・平沢和重を紹介した。 平沢和重は、オリンピック招致を時期尚早として批判していたため、簡単には引き受けてくれなかったが、北原秀雄の後押しもあり、自分で原稿を作ることを条件に、プレゼンテーションを引き受けた。 こうして、日本は昭和34年のIOC総会に出席し、平沢和重がプレゼンテーションを行った。 幸運なことに、東京の前にプレゼンテーションを行ったデトロイトが、45分の持ち時間を超過して1時間もプレゼンテーションを行ったうえ、原稿を棒読みするという失態を犯しており、IOC委員たちは辟易していた。 そこへ、平沢和重がわずか15分という短いプレゼンテーションで、見事に東京開催のメリットをアピールしたのである。 オリンピックの五輪は五大陸を表しているが、まだアジアではオリンピックは開催されていなかった。 そこに日本の勝機があった。 このプレゼンテーションが功を奏し、日本はライバルの「デトロイト」「ウィーン」「ブリュッセル」に圧勝し、日本は東京オリンピックを勝ち取ったのだった。 さて、東京オリンピックの開催が決定すると、田畑政治は早々に東京オリンピック組織委員会を発足し、事務総長に就任した。 そして、田畑政治は、東京オリンピック開催に向けた準備を開始し、昭和35年のローマオリンピックでは、選手団長を譲り、東京オリンピックを成功させるために視察に専念した。 スポンサードリンク 女子バレーと柔道の採用 田畑政治は、日本のメダルが増えるように、柔道と女子バレーボールをオリンピックの競技に採用するように強く訴えた。 男子バレーボールは既に競技に採用されているので、田畑の熱意を受けて、「東京だけの特例」として女子バレーボールは採用された。 このころ日本女子バレーボールは全盛期で、東京オリンピックで「東洋の魔女」として世界を恐れさせることになる。 一方、柔道は、柔道の創始者・嘉納治五郎が日本人初の国際オリンピック委員会(IOC)の委員として活躍しており、嘉納治五郎が昭和3年に柔道の採用を訴えて以降、柔道はオリンピック競技の候補になり続けていた。 そして、世界31カ国に柔道が普及しており、今回はヨーロッパ各国が田畑政治に柔道の採用を熱望したのである。 こうした経緯があり、日本が柔道を申請すると、反対者も居たが、各国の擁護が入り、柔道はオリンピック種目に採用されたのである。 第4回アジア競技大会事件 オリンピック大臣・川島正次郎は、池田総理も同意と言い、田畑政治にオリンピック組織委員会の会長・津島寿一を辞めさせるように求めたが、田畑は津島会長を守った。 そのようななか、東京オリンピックの2年後に控えた昭和37年(1962年)、インドネシアのスカルノ大統領(デビ婦人の夫)が国家の威信を賭けて、アジア17カ国から1400人を集め、首都ジャカルタで大々的に第4回アジア競技大会を開催した。 しかし、スカルノ大統領は、中国と親しいという政治的な理由から、台湾とイスラエルに招待状を出さなかった。 メンバー国に招待状を出さないのは、アジア大会憲章に違反しており、「スポーツと政治は別」という国際スポーツの精神にも違反していた。 事前に情報を得た田畑政治は、ジャカルタの大会組織委員会に問い合わせたところ、台湾とイスラエルに招待状を出さないというのはデマであり、一切のルール違反はしていないという回答だった。 この回答を受けた田畑政治は、時間の猶予が無かったので、確認を取らないまま日本選手団を率いてジャカルタへと向かったが、ジャカルタに付いてから、台湾とイスラエルに招待状を出していないという違反が判明したのである。 こうした事態に対して、国際陸上連盟が各国に警告を送ったが、この警告はあくまでも「出場しても公式大会として認めない」という意味合いのものと考えられた。 しかし、日本では、国際陸上連盟オブザーバーの浅野均一が「台湾、イスラエルが参加しない限り国際陸連としては大会を認めることはできない。 したがって、このアジア大会の陸上競技に参加したものは除名する」と表明した。 戦後、日本がオリンピックに復帰する条件として、国際オリンピック委員会は各競技の国際連盟への復帰を勧告しており、日本陸上連盟が国際陸上連盟から除名されれば、東京オリンピックに影響が出ると考えられた。 このため、日本国内では「大会憲章に違反した大会に出場すれば、日本も同罪。 オリンピック開催国として世間に示しが付かない」「このままでは日本は国際オリンピック委員会から除名される。 そんなことになれば、東京オリンピックを取り消されてしまう」という論調が起きていた。 一方、国際オリンピック委員会は「(特定の国を排除した大会に)オリンピック旗をかかげることは許されない」と表明するに留まった。 兎にも角にも、台湾とイスラエルが参加すれば、大会は正常化するため、田畑政治は大会正常化に向けてジャカルタ側と協議したが、ジャカルタ側は「台湾とイスラエルに招待状を送った」の一点張りで、話し合いは進まなかった。 ジャカルタ入りしたオリンピック大臣・川島正次郎は、スカルノ大統領と故意にしていたことから、スカルノ大統領の顔を潰すことはできないため、厳しい判断を迫られたが、日本国内の世論あり、大会不参加を主張した。 一方、大会に参加するアジア各国は、日本の動向をうかがっており、日本の決定に追従しようとしていた。 既に、インドの大使館に投石が行われたり、日本選手団の幹部が滞在するホテルに暴徒が進入したりしており、日本が撤退すれば、第4回アジア競技大会が中止になり、ジャカルタで暴動が起きることは目に見えていた。 そこで、ジャカルタに居る日本選手団の幹部の大半は、大会に出場しても国際陸上連盟の除名は無いと考え、ジャカルタで暴動が起きそうな事情もあったので、大会への参加を決定する。 最終的に田畑と川島正次郎が話し合い、田畑は「日本がルール違反したわけではないので、罰せられるのであれば、インドネシアだ」と説得し、川島正次郎の最終判断により、日本は第4回アジア競技大会に出場した。 韓国だけは大会から撤退したが、アジア各国は、日本が国際陸上連盟から批難されることがあれば、日本を擁護する方針で一致し、第4回アジア競技大会に出場したのだった。 田畑の失言 第4回アジア競技大会を終えて一足先に帰国したオリンピック大臣・川島正次郎は、マスコミにしたいして、「インドネシア国民は大会に熱狂しており、日本が引きあげれば、とんでもない事態になりかねなかったのが、現地の事情があった」と釈明した。 その後、帰国した田畑政治も「私たちの行動と国民感情の間に大きなギャップがあることは認める。 しかし、現地の実情を分かってもらえれば、取る道はあれしかなく、全体的によかったと、納得していただけよう。 いま考えてみても、あれが最善のやり方だった」と釈明した。 しかし、国際陸上連盟の意向を無視して出場したことについて、田畑政治は「際競技会(親善試合)として、日本陸上も参加した」と釈明してしまった。 実は、大会開催前に、国際陸上連盟が第4回アジア競技大会を親善試合にするように要請しており、田畑政治の釈明は国際陸上連盟の総会でするべき釈明だったのである。 明らかに失言だった。 このチャンスを見逃さなかったのが、オリンピック大臣・川島正次郎である。 以前、川島正次郎はオリンピック組織委員会の会長・津島寿一を排除しようとしたが、田畑政治に抵抗されて、失敗していた。 そこで、川島正次郎は、今回の田畑の失言を利用して、責任問題を煽り立てたのである。 こうして、川島正次郎の画策によって、「日本に追従して大会に参加したアジア各国への責任」「インドネシアを怒らせるのではないか」「こんな優柔不断な人間に東京オリンピックを任せられない」という批判が続出した。 翌日、田畑は「陸上は国際競技として行われたのではない。 実際は第四回アジア競技大会の一部門として陸上に出場した」と釈明し、「前日の談話は私の説明不足だった」と前日の談話を撤回した。 しかし、経済界から責任問題を追及された会長・津島寿一は辞任。 田畑政治も従兄弟の水野成夫(フジテレビの創業者)からの助言を受けて辞任を決意した。 そして、田畑政治は「レールは敷いた。 後は誰が事務総長をやっても、事務局さえシッカリしてくれれば出来る」「東京オリンピックの種は俺がまいたんだ。 俺が刈り取りたかった」と言い、我が子を奪われるような気持ちで、昭和37年に東京オリンピック組織委員会の事務総長を辞任したのだった。 後日、田畑政治は、朝日新聞時代の同僚・細川隆元から「あの時のしっぺ返しを受けたんだよ」と言われ、事情を教えられた。 実は、東京オリンピックの予算を話し合う会合で、川島正次郎が予算のことで横槍を入れてきたため、田畑は怒って「スポーツの専門家でもないのに、つべこべ言うな。 第一、都知事選の時も資金調達が上手くやれず、よくあれで幹事長が務まるものだ」と批判したことがあった。 川島正次郎は、これを根に持っており、今回の責任問題に繋がったのだ。 さて、田畑政治は、東京オリンピック組織委員会の事務総長を辞任しても、東京オリンピック選手強化対策本部の本部長も兼任していたので、今度は選手の強化に専念するために奔走する。 しかし、「寝業師」と歌われた政治家・川島正次郎の策謀は、それに留まらず、各方面へ根回ししており、田畑政治は選手強化対策本部の本部長からも追い落とされて、常任顧問に就いたが、間もなく常任顧問の肩書も奪われてしまったのである。 田畑は東京オリンピック組織委員会の委員として残ったが、積極的な発言はせず、選手を激賞してまわった。 そして、国際陸上連盟の総会で日本の責任問題は出ず、昭和39年に東京オリンピックは無事に開催され、田畑は東京オリンピック組織委員会の最前列で身を乗り出して選手を応援したのだった。 スポンサードリンク その後 東京オリンピックは無事に終わったが、水泳ニッポンの栄光は見る影も無く、日本水泳陣は惨敗した。 そこで、田畑政治は、水泳ニッポンの復権を目指し、日本水泳連盟の改革に着手して、10カ年計画を掲げた。 室内プールがほとんど無かった昭和43年に東京スイミングセンターを完成させ、水泳選手の育成に励んだ。 その一方で、田畑政治は、昭和40年に日本体育協会の理事に就任、昭和41年には札幌冬季オリンピック組織委員会の顧問に就任。 昭和44年には東京オリンピック招致の功績が認められ、勲二等瑞宝章を受章する。 そして、昭和47年開催の札幌オリンピックでも尽力し、昭和48年に日本オリンピック委員会の会長に就任。 国際オリンピック委員会(IOC)から離脱していた中国のIOC復帰に貢献した。 晩年の田畑政治は、パーキンソン病を発症しながらも、日本オリンピック委員会を日本体育協会から独立させるために奔走したが実現せず、政治的な背景から、日本体育協会の指示で昭和55年のモスクワオリンピックをボイコットするという事態を招いた。 そして、昭和57年に東京スイミングセンターの会で、食べ物を喉に詰まらせて順天堂医に運ばれたが、酸欠のため脳の一部に障害が残り、車いす生活を送った。 昭和59年7月、ロサンゼルス・オリンピックの直前で危篤状態に陥り、医師から覚悟するように言われるが、田畑安治は奇跡的に復活し、病室のテレビで、ロサンゼルス・オリンピックを開会式から閉会式まで観戦して涙を浮かべた。 そして、閉会式の2週間後の昭和59年(1984年)8月25日に、入院先の順天堂医院で死去した。 享年87。 死後、正四位勲二等旭日重光章に叙された。

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田畑政治

田畑政治 子孫

田畑政治(たばたまさじ)。 日本に水泳を普及させ、東京オリンピックを招致させるという、日本中の悲願とも言える偉業を実現させた男です。 大河ドラマ「いだてん」の後半の主役が田畑政治(たばたまさじ)です。 配役は阿部サダヲさん。 2020年、56年ぶりの東京オリンピックを目前にして、 「田畑政治」が再び大きく注目されています。 前回の東京オリンピックは56年前ですので、どんなに記憶力がある人でも、60歳以上の方でなければ知りませんよね。 私は30代半ばですが、東京オリンピックと言えば、「高度経済成長をする日本の象徴」、「戦後という時代から、先進国としての歩みを始めた証」、「日本中がひとつにまとまった世紀の大イベント」、、、そんなイメージはありますが、その裏ではどんなことが起こっていたのか、どのような苦労があったのかなどは知りませんでした。 田畑政治の生涯をたどることで、東京オリンピックの招致が達成されるまでの道、戦争の影響や残酷さ、スポーツの力、そして 一人の熱意や行動の偉大さを深く感じます。 スポンサーリンク 下記クリックで好きな項目へ移動• 田畑政治(たばたまさじ)の生涯とは 裕福な名家に生まれる 田畑政治(たばたまさじ)は、明治31年(1898年)静岡県浜松市に生まれます。 家柄は「八百庄商店」という酒屋で、浜松イチといってもいいほど裕福な名家だったようです。 浜名湾を目の前にしながら育ち、小学校では水泳部に入ります。 当時はもちろんプールはないですので、浜名湾で泳いでいました。 水泳に夢中に、しかし病気により指導者に 田畑は水泳に夢中となり、学校の中でもエース的なスイマーでした。 ご存じない方も多いかもしれませんが、 浜名湾付近は水泳が非常に盛んな地域でした。 水泳がまだスポーツという認識がされていなかった時代から学校教育に水泳が組み込まれ、 世界で活躍する水泳選手の育成に大きく貢献しました。 浜名湾方式と呼ばれ、「フジヤマのトビウオ」と称される古橋廣之進選手も浜松市の出身です。 出典: 水泳選手として猛練習に励む田畑ですが、高校時代に盲腸と大腸の病気になり、選手として続けることを断念せざる負えなくなります。 その後は水泳指導者として活躍することになります。 朝日新聞社に入社して政治部門の記者として活躍 田畑政治が優秀だったのは水泳だけではありません。 頭もすこぶる優秀で、東京帝国大学に入学します。 大正13年(1924年)に卒業すると、朝日新聞社に入社しました。 政治部門に配属され、総理大臣にも務めた鳩山一郎氏や高橋是清氏にも目をかけられました。 昭和24年(1949年)には常務に就任します。 想像できるかと思いますが、大手新聞社の役員ですので、相当顔が広く、影響力も大きいです。 この人脈が、のちのオリンピック招致の際に大いに役立つことになります。 日本トップの水泳指導者になる田畑政治 水泳競技者としては、あきらめざる負えなかった田畑政治ですが、水泳への熱意がなくなることはありませんでした。 高校時代に選手を引退した田畑は指導者となり、学校の全日本優勝に貢献しました。 そして 大正5年(1916年)に浜名湾遊泳協会を設立しました。 田畑が18歳の頃です。 この時すでに田畑の志の高さ、行動力が並ではないことがわかりますよね。 その後まだ日本には浸透していなかったクロールを取り入れ、日本のトップとなる選手、記録を生み出していく指導者となっていきます。 水泳監督・選手団団長としてロサンゼルスオリンピックに参加 田畑政治は昭和4年(1929年)には日本水泳連盟の専務理事と就任し、全国の水泳界に影響を及ぼす存在となります。 昭和7年(1932年)に開催された ロサンゼルスオリンピックでは、水泳監督兼選手団団長として参加します。 日本の水泳の活躍は目覚ましく、金メダル5個、銀メダル5個、銅メダル2個という活躍でした。 日本全体のメダル18個のうち12個が水泳でした。 今のようにプールがあるわけでもなく、国際大会の経験もまったくなかったにも関わらずの結果でした。 田畑の監督しての能力の高さがどれほど凄いか伝わってきます。 翌年には田畑は結婚しますので、公私ともに充実した日々だったのではないでしょうか。 ベルリンオリンピックでは日本女性初の金メダル獲得 昭和11年(1936年)にベルリンオリンピックが開催されます。 前回のロサンゼルスに続き、日本の水泳選手団は大活躍をします。 金メダル4個、銀メダル2個、銅メダル5個を獲得します。 出典: この大会で 一躍有名になったのが日本初の女性金メダリストになった「前畑秀子」です。 200m平泳ぎに出場し、開催国ドイツの選手とデッドヒートを繰り広げます。 NHKの河西三省(かさいさんせい)アナウンサーが、 「前畑がんばれ!」を繰り返し、「前畑リード!勝った!前畑勝ちました!」のアナウンスは日本を熱狂させました。 「前畑がんばれ!」は24回繰り返されたそうです。 東京オリンピックの招致に尽力!しかし幻に... スポンサーリンク 田畑政治は幻となった東京オリンピックにも尽力しました。 日本初・アジア初のIOC委員として獅子奮迅の活躍をしたのが、「柔道の父」とも呼ばれる嘉納治五郎です。 関連記事: 出典: 田畑や嘉納の奮闘でなんとか一度は東京オリンピックの招致に成功しました。 昭和11年(1936年)に決定し、開催は昭和15年(1940年)と予定されます。 実際に東京オリンピックが開催されたのが1964年ですが、それから24年前に招致に成功していたのです。 しかし、 戦争の激化により開催中止となりました。 戦争期間はとにかく戦争第一ですし、当時は食べるものすらなく、生きていくのも精一杯だったはずですので、スポーツをやっている場合ではなかったことが想像できます。 明治初期にはスポーツというものはただの遊びとして認識されていました。 しかしスポーツは、健康や精神、政治や文化交流など、スポーツが果たす役割は大きいです。 ようやくそのことが日本でも認められ、日本中で選手を応援して、盛り上がりができてきた頃でした。 オリンピックは平和を願った祭典です。 日本におけるオリンピック、スポーツを支え続けてきたのが嘉納治五郎であり、いだてん前半の主役である金栗四三です。 関連記事: 出典: その 意志を受け継いだ田畑、彼らが目指した東京オリンピックは、悲しくも「平和」の真逆である「戦争」によって中止となったのです。 当時と今では風潮はまったく違うかと思いますが、本当に無念だったと思います。 田畑政治の不屈の精神で日本スポーツは復活する 昭和14年(1939年)には日本水泳連盟の理事長となった田畑ですが、終戦となるとすぐに立ち上がります。 その後も田畑は昭和21年(1946年)に日本体育協会の常務理事に、昭和23年(1948年)には日本水泳連盟会長、JOC総務理事など、日本スポーツ界における要となる存在となっていきます。 また本業である新聞社の仕事でも 、 朝日新聞東京本社の代表取締役に就任するなど、多忙を極める状態でした。 戦後初めて開催された昭和23年(1948年)のロンドンオリンピックでは、日本は参加することすら断れます。 国際水泳連盟(FINA)にも加盟できない状態となります。 戦争が及ぼした影響は停滞ではなく、明らかな後退であったことは明白でした。 しかし、 田畑のスポーツへの熱意は変わりません。 ロンドンオリンピックの日程に合わせて日本選手権の決勝を開催するなど、日本のスポーツに目が止まるように試行錯誤しました。 日本選手権では、「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた古橋廣之進(ふるはしひろのしん)選手、橋爪四郎(はしづめしろう)選手が世界記録を更新する結果を残します。 それは 同時に開催していたオリンピックの記録よりも速く、日本の実力を世界にアピールする結果となりました。 こうした歩みが世界にも認められていき、翌年には国際水泳連盟(FINA)への加盟が認められることになります。 日本が再びオリンピックに参加! 田畑率いる日本の水泳選手団は、昭和24年(1949年)にロサンゼルスで開かれた全米水泳選手権大会に出場できることになりました。 最初は認められませんでしたが、田畑がマッカーサーに働きかけるなどして、ようやく承認されたことでした。 しかし、現地での日本人への対応はひどいもので、日本人を宿泊させるホテルがない状態だったのです。 そこで田畑らに協力したのが、 日系人のフレッド・イサム・ワダでした。 日本出身の事業家で、地元である日本人への支援を惜しみませんでした。 フレッド・イサム・ワダたち日系人からすると、出身国である日本と、住んでいるアメリカとの戦争だったわけです。 戦争中、そんな日系人への非難は相当だったはずです。 想像もできないほどの苦しみを味わったのではないでしょうか。 大会では、フレッド・イサム・ワダの支援・応援に応えるように、日本人選手が大活躍しました。 この大会でも古橋廣之進選手や橋爪四郎選手は世界記録を更新するのです。 そしてついに、 昭和27年(1952年)のヘルシンキオリンピックでは日本の参加が認められました。 ヘルシンキオリンピックでの日本人の活躍は乏しいもので、水泳では銀メダル1個という結果でした。 それでも日本スポーツ復活として大きな一歩であったことは間違いありません。 国際大会へのブランクや、もしかしたら戦時中、戦後の食糧難および練習不足などでの体力低下も影響したのではないかと想像してしまいます。 田畑政治は、ヘルシンキオリンピック、次のメルボルンオリンピックと続けて選手団の団長を務めました。 夢の東京オリンピックに向けて 出典: 戦後再びオリンピックの歴史に参加する日本ですが、復活の道を進むのはスポーツ界だけではありません。 日本経済、日本という国そのものが猛烈な勢いで成長していきます。 世界の中に参加する、関わっていくだけではなく、影響するような力を持つようになっていきます。 そして日本はオリンピックを日本に呼ぶという夢を持つようになるのです。 この頃の田畑政治は、日本スポーツ界にとって、肝心要の存在となっていました。 都知事と一緒に東京オリンピックの招致を目標に動き出します。 ここで新聞記者として成功をおさめた力がいかんなく発揮されます。 政治や財界へ広い顔をもつ田畑は、オリンピック招致を国家プロジェクトになるように働きかけ、確実に動かしていきました。 なんせかかる資金が半端ではありません。 選手強化はもちろん、施設や交通環境の整備、それに伴う人的資源の確保など、オリンピックを招致するには凄まじい資金や人材が必要です。 当時の都知事の安井誠一郎氏や総理大臣であった岸信介氏など、日本トップの力も動かします。 また、以前にも登場した日系人のフレッド・イサム・ワダの協力も大きく影響しました。 アメリカに人脈があるため、日本へのオリンピック招致についての説得をしてくれたのです。 こうした 田畑政治を起点とする尽力によって、ついに昭和34年(1959年)、1964年の東京オリンピック開催が決定されました。 アジアではまだオリンピックをしていない、オリンピックは世界の祭典であるという、「アジア初開催」を大きく主張し、見事勝ち取りました。 柔道と女子バレーボールをオリンピックの正式種目に スポンサーリンク 東京オリンピック開催が決まったとはいっても、本当に忙しくなるのはここからです。 東京オリンピック組織委員会が設立され、田畑は事務総長兼選手強化対策本部常任顧問に就任します。 そこで田畑はある働きかけをします。 柔道と女子バレーボールをオリンピックに正式種目にしようとしたのです。 「柔道の父」でもあり、「日本のオリンピックの父」でもある、嘉納治五郎の悲願であったことであるはずです。 それを 田畑が意志を受け継ぎ、見事実現したのです。 胸が熱くなります。 関連記事: また、男子バレーは正式種目だったにもかかわらず、女子バレーはオリンピックの種目にありませんでした。 男女平等の観点を訴え、こちらも見事実現します。 結果としては、ご存じのとおり女子バレーは 「東洋の魔女」と称される大活躍をしました。 東京オリンピック前にJOC辞任 これほどオリンピックに尽力してきた田畑政治ですが、実は東京オリンピックの前にJOCを辞めています。 昭和37年(1962年)にアジア競技大会が開催されたのですが、この大会をめぐって田畑は辞任したのです。 国同士の政治的な問題が絡んだすえのことでした。 田畑が何か失敗したとかではありません、国内でも政治的な要因があったのです。 田畑は当時のオリンピック大臣との仲が悪く、政治的な圧力もあったと言われています。 ですので、 田畑は東京オリンピックではイチ委員として応援するかたちとなりました。 いずれにしても、 田畑政治の情熱と執念が実を結んだのです。 昭和39年(1964年)10月10日、日本の悲願であった東京オリンピックが開会しました。 選手も期待に応える大活躍をして、29個のメダルを獲得しました。 晩年もスポーツの発展に尽力した田畑政治 東京オリンピックでは、実は水泳の活躍が芳しくありませんでした。 メダル銅メダル1個という結果でした。 田畑は水泳の練習環境の整備のために、屋内プールの建築や選手強化に力を入れました。 また、昭和47年(1972年)開催の札幌オリンピックにも大きく貢献します。 翌年には日本オリンピック委員会(JOC)の会長、昭和52年(1977年)にはJOC名誉委員長に就任します。 田畑は昭和59年(1984年)に85歳で亡くなりますが、 最期まで水泳、オリンピック、スポーツ界の発展に奔走し続けた生涯でした。 田畑政治の妻・子孫について 田畑政治の妻や子供、子孫についてもふれておきたいと思います。 田畑は昭和8年(1933年)に妻・菊枝さんと結婚します。 2人の間には一男二女が誕生しました。 長男和宏さん、長女治子(はるこ)さん、次女醇子(じゅんこ)さんです。 長男の田畑和宏さんはNHKの理事を務め、NHKの関連企業でお仕事をなさいました。 また、田畑のいとこには、水野成夫(みずのしげお)という人物がいます。 なんとフジテレビを設立して初代社長を務めた大物です。 親子、また親戚もメディアの仕事を手掛けられたということになります。 配役は阿部サダヲさんです。 いだてんの脚本は宮藤官九郎さんですので、宮藤官九郎作品に多く出演する阿部サダヲさんは息もピッタリですね。 阿部サダヲさんというと、それこそ宮藤官九郎さん脚本の池袋ウエストゲートパークや、踊る大捜査線などに出演し、徐々に見る機会が増えてきた印象です。 今では数々の作品で主役を務め上げ、名俳優として確固たる存在です。 映画「舞妓Haaaan!!! 」では、第31回日本アカデミー賞主演男優賞優秀賞を受賞されました。 また、大河ドラマは4度目の出演で、おんな城主直虎では徳川家康役を演じました。 私はドラマ「医龍」が印象的です。 名物麻酔科医として強烈な印象でした。 映画「奇跡のリンゴ」も良かったですね! 、、、 と、よくよく振り返るとかなりの作品で印象的な役柄を演じています。 凄すぎる人物な気がしてなりません。 頭脳がとてつもなく良く、また多くの人を巻き込む人間的な魅力と統率力、、、想像するとキリがないほどです。 私も含めて、多くの人が役者さんを通してですら、田畑政治がどんな人物かを見たことがありません。 いだてんを通して田畑政治を知る人がほとんどなのではないでしょうか。 確実に言えるのは、 田畑政治がもたらしたオリンピックとスポーツの普及は、日本という国に希望や自信、または健康や人と人の絆、一人一人の成長する機会など、表現しきれないほどのモノを与え続けています。 オリンピックで言えば、見ている人に数えきれないほどの感動や勇気を与えています。 歴史なことを考えれば、それは日本だけではありません。 アジア、いやオリンピックの拡大や祭典の意義を考えると、 世界中のたくさんの人々に、無数の「何か」を田畑政治はもたらしました。 2020年の東京オリンピックは、56年前とはまた違うかたちで国や東京という大都市、そして私たちひとりひとりに大きな影響を与えるはずです。 それは胸を打つ感動かもしれません、選手の奮闘や努力を通して何かを決意させるかもしれません、背中を押して一歩を前進させるかもしれません。 最後まで読んでいただきありがとうございました。 関連記事: スポンサーリンク 当サイトをご覧になっていただき誠にありがとうございます。 運営しております原田と申します。 明治維新に関心を持つようになったのは、「竜馬がゆく」がきっかけでした。 坂本龍馬に惚れました。 また、その当時の志士の志の高さ、命をかける覚悟、行動力などに感化され、明治維新に関わる人物から学ぶことが多いことに気づきました。 そして、もっと学びたいと思うと同時に、この素晴らしい方々のことを発信したいと考えるようになりました。 当サイトは、明治維新を中心に、歴史上の人物や出来事を通して、今に生きる私たちの生活や仕事、人生に活かせる何かを、少しでも感じて、行動を起こす機会となるサイトを目指しております。 どうか少しでもご覧になっていただき、何かを感じていただけることを願っております。 まだまだ未熟者ではございますので、お気づきの点ございましたらご意見いただけますと幸いです。 運営者:原田 Mail:mail meiji-revolution. com.

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