スペイン 風邪 歴史。 歴史から学んでみる(スペイン風邪)

磯田道史が提言。スペイン風邪と新型コロナに通ずる与謝野晶子の教訓

スペイン 風邪 歴史

キャプション:フランスの風刺雑誌「La Baionnette」。 スペイン風邪がはやった1919年に発行されたもの 画像提供:アフロ 新型コロナウイルスが猛威を振るっている。 世界保健機関(WHO)は、肺炎の感染拡大に対処するとして「緊急事態」を宣言した。 今のところ治療法もワクチンもなく、中国に拠点を持つ日本企業は緊急体制に入っている。 感染が短期間で世界的に拡大し、多数の人々が年齢を問わず感染する「パンデミック」。 人類はこれまで何度もこうした状況を経験してきた。 近現代においてその中で最も世界を脅かしたものは、「スペイン風邪」だろう。 インフルエンザの一種であり、第1次世界大戦のさなかに瞬く間に世界中に広がった。 20世紀初頭は「ウイルス」という概念がまだ新しく、抗生物質も発見されていない。 手洗いやうがい、患者の隔離といったことしか手だてがなかった。 約5億人、世界の人口の約50%が感染し、25%が発症。 死者は5000万人ともそれ以上ともいわれている。 日本では1918年の11月に全国的に流行し、3年間で人口の約半数の2380万人がかかり、約39万人が死亡したと報告されている。 インフルエンザの名前の 由来は「星の影響」 そもそも「インフルエンザ」はいつから人類を脅かしているのか。 起源について調べてみると、平安時代の歴史書『日本三代実録』内に、「京都だけではなくほぼ全国にわたって多くの人が『咳逆』を患い、多数の死者が出ている」といった内容の記述がある。 さらにさかのぼると、紀元前412年に古代ギリシャの医者、ヒポクラテスが「突然、住民たちが高熱を出し、震えや咳が止まらなくなった。 たちまち村中にこの症状が広がり住民たちは怯えたが、すぐに去っていった」という記録を残している。 しかしインフルエンザという概念の成立はここ100年。 いずれも実際にインフルエンザだったかどうかの真偽は不明だ。 インフルエンザの言葉の由来は「Influentiacoeli」という単語。 ラテン語で「星の影響」を意味する。 毎年、冬から春にかけて流行するという周期性から、16世紀にイギリスの占星術師がこのように呼んだとのことだ。 これまで何度もパンデミックは世界の歴史に大きな影響を与えてきた。 前述のスペイン風邪は戦力不足を招き、第1次世界大戦の終結を早めたという。 今回の新型コロナウイルスは米中貿易戦争にどのような影響を与えるのだろうか。 「日本史」も「世界史」もない そこにはただ「歴史」があるだけ の第1特集は、「世界史でわかる 日本史」です。 本特集は、「世界史から日本史を捉え直す」ことで、歴史を「つまらない」とか「興味はあるけど遠い」と思っている人たちの思い込みを覆すことを目指しています。 「群盲象を表す」というインドの寓話があります。 象の一部分だけを各々が触っても、それが象とはわからずに意見が食い違うというものです。 お互いの話をよく聞いて組み合わせてみると像であることがわかったとか、あるいは第3者から指摘を受けたことでわかったとか、様々な形で世界中にこの話は広がっています。 歴史も同じです。 日本史を知るためには世界史を学ばなければなりません。 日本は独自に歴史を積み重ねてきたわけではなく、直接的にも間接的にも世界と連動しています。 本来は「日本史」も「世界史」も存在しません。 そこにはただ「歴史」があるだけです。 「日本史」「世界史」という区分けは本来存在せず、教育システムや受験勉強のために便宜上、分けられたにすぎません。 それが歴史を学ぶ意欲を失わせているのです。 「想定外」という言葉は、歴史の不勉強による想像力の欠如から発せられます。 日常でもビジネスでも何が起こるか分からないこの時代。 本特集をきっかけに、あらためて歴史を学んでみてください。 読み終える頃にはきっと歴史に対する見方が変わっていることでしょう。 何より、あなた自身も「歴史」の執筆者であることを意識しているはずです。 製薬業界関係者から20日早朝に届いたメールの件名を見て、飛び起きました。 コロナ治療薬として企業治験中のアビガンに関し自信満々の経営者インタビュー記事を、ダイヤモンドオンラインで配信したばかりだったからです。 メールの内容は企業治験とは別に行われている医大などの臨床研究で、「現時点では十分な科学的根拠を得られていない」とする各種報道を紹介するもの。 安倍晋三首相は5月4日、月内の薬事承認を目指すと表明しましたが、メールの送信者は「このままいくと科学的根拠のない薬剤を政府判断で承認する前代未聞の大事件になる」と警戒します。 治療薬の登場は渇望しますが、エビデンスに基づいた冷静な対応を願います。

次の

スペイン風邪

スペイン 風邪 歴史

で書いたように、 1918 年~ 1919 年の 2 年間にわたって 人類の歴史上における 最大規模のパンデミックを引き起こした スペイン風邪は、 その名がつけられた スペインではなく、 カンザス州を中心とする アメリカの中西部において 最初の流行が始まったと考えられていて、 さらに、そうした スペイン風邪の病原体となった 鳥インフルエンザに起源を持つ H1N1 亜型の インフルエンザウイルスについても、 有力な仮説としては、 アメリカと 中国という ヨーロッパから遠く離れた二つの大国のうちのいずれかにその 大本の起源が求められることになると考えられることになるのですが、 それでは、こうした スペイン風邪と呼ばれる 感染症の起源そのものは、 スペインとは無関係であると考えられるにもかかわらず、 なぜスペイン風邪と呼ばれることになってしまったと考えられることになるのでしょうか? スポンサーリンク フランスでのスペイン風邪のウイルスの強毒株への変異とヨーロッパ全土から世界中への流行の拡大 そうすると、まず、 1918 年の 3 月ごろに カンザス州などの アメリカの中西部を中心に 最初の流行が始まったと考えられる スペイン風邪は、 その後、 第一次世界大戦に参戦した アメリカ軍の兵士たち共に 大西洋を渡ってヨーロッパ大陸へと到達することになり、 1918 年の 5 月~ 6 月ごろにかけて、まずは、 アメリカと同じ連合国の側の陣営にあたる イギリス軍やフランス軍の間で大きく 感染を拡大していくことになります。 そして、その後、このウイルスは、 連合国の 敵方の陣営にあたる ドイツや オーストリアや イタリアといった国々においても次々に 感染を広げていくことになるのですが、そうしたさなか、このウイルスは、 1918 年 8 月ごろに フランス西部の 港湾都市であった ブレスト近郊においてより 致死率の高い強毒株へと変異したと考えられていて、 こうした 強毒化したスペイン風邪のウイルスは、 第一次世界大戦の主戦場の一つともなっていた フランスから 母国へと帰還した兵士たちを通じて イギリスや アイルランド、さらには、 アメリカにも逆輸入されていく形でさらに ヨーロッパ全土から 世界中へと流行を拡大していくことになっていったと考えられることになるのです。 スポンサーリンク 戦時検閲による情報統制とウイルスの強毒化のタイミングという二つの理由 そして、 こうして ヨーロッパ全土において 強毒化したウイルスによる 感染の拡大が進行してくさなか、このウイルスはついに、 1918 年 11 月ごろに フランスの隣国にあたる スペインにも到達することになるのですが、 第一次世界大戦において 中立国としての立場を守っていた スペインでは、 自国に不利な情報が敵国の陣営へと伝わることがないようにするために 戦時検閲による 厳しい情報統制が敷かれていた イギリスや フランス、 ドイツや イタリアといった 参戦国とは異なり、 自国民や近隣諸国に対して 比較的自由に感染拡大の状況が公開されていくことになっていったと考えられることになります。 つまり、このように、 スペインにおいて 感染が拡大していくことになったのは、ちょうどこの ウイルスが強毒化した直後の 2018 年の秋の時期にあたり、 第一次世界大戦の中立国であり 戦時検閲による 情報統制が行われていなかった スペインでは、そうした 強毒化したウイルスによる 国内での感染拡大の深刻な状況が隠されることなく 世界中へと伝えられていったことから、 このウイルスが 最初に流行した アメリカでも、 強毒化したウイルスが 最初に確認された フランスでもなく、 感染拡大の状況が 最初に公開された スペインの国名と共に、この 感染症の情報が 世界中へと広がっていくことになっていったと考えられることになるのです。 ・・・ 次回記事: 前回記事: 「」のカテゴリーへ カテゴリー• 843• 640• 118• 184• 525• 127• 204• 333• 278• 593• 338• 153• 143• 310• 240• 125•

次の

感染症の歴史

スペイン 風邪 歴史

新型コロナウイルス禍がパンデミックの模様を呈している()。 パニックや流言飛語も相次いでいる。 しかしこのようなパンデミックは、20世紀を含め過去に何度も起こり、そして人類はその都度パンデミックを乗り越えてきた。 今次の新型コロナウイルス禍への対策と教訓として、私たちは人類が遭遇した過去のパンデミックから学び取れることは余りにも多いのではないか? 本稿は、20世紀最悪のパンデミックとされ、世界中で2000万人~4500万人が死亡し、日本国内でも約45万人が死亡した 「スペイン風邪」を取り上げる。 そして日本の流行状況と公的機関の対策を追い、現在のパンデミックに抗する教訓を歴史から得んとするものである。 速水(左)、内務省(右) ・100年前のパンデミック「スペイン風邪」とはなにか 1918年から1920年までの約2年間、新型ウイルスによるパンデミックが起こり、当時の世界人口の3割に当たる5億人が感染。 そのうち2000万人~4500万人が死亡したのがスペイン風邪である。 現在の研究では、そのウイルスはH1N1型と特定されている。 スペイン風邪の発生は、今から遡ること約百年前。 1918年春。 アメリカ・カンザス州にあるファンストン陸軍基地の兵営からだとされる(速水,38)。 当時は第一次世界大戦の真っ最中で、ドイツ帝国は無制限潜水艦作戦によって中立国だったアメリカの商船を撃沈するに至った。 このドイツの粗暴な振る舞いがアメリカの参戦を促し、アメリカは欧州に大規模な派遣軍を送ることになる。 アメリカの軍隊から発生したとされるスペイン風邪は、 こうしてアメリカ軍の欧州派遣によって世界中にばら撒かれることになった。 当時のパンデミックは、航空機ではなく船舶による人の移動によって、軍隊が駐屯する都市や農村から、その地の民間人に広まっていった。 ちなみに、アメリカから発生したのになぜスペイン風邪という呼称なのか。 それは第一次大戦当時、スペインが欧州の中で数少ない中立国であったため、戦時報道管制の外にあったからだ。 そのためこの新型ウイルスの感染と惨状が、戦時報道管制から自由なスペイン電として世界に発信されたからである。 スペインでは800万人がスペイン風邪に感染。 国王アルフォンソ13世や政府関係者も感染した。 日本では当初「スペインで奇病流行」と報道された(速水,49)。 ・「スペイン風邪」、日本に上陸 日本でスペイン風邪が確認されたのは、1918年、当時日本が統治中であった台湾に巡業した力士団のうち3人の力士が肺炎等によって死亡した事が契機である。 そののち、同年5月になると、横須賀軍港に停泊中の軍艦に患者が発生し、横須賀市内、横浜市へと広がった(速水,328)。 当時、 日本の報道でのスペイン風邪の俗称は「流行性感冒」である。 速水によれば、日本に於けるスペイン風邪流行は「前流行」と「後流行」の二波に別れるという。 「前流行」は1918年の感染拡大。 「後流行」は1919年の感染拡大である。 どちらも同じH1N1型のウイルスが原因であったが、現在の研究では「後流行」の方が致死率が高く、この二つの流行の間にウイルスに変異が生じた可能性もあるという。 ともあれ、このスペイン風邪によって、 最終的に当時の日本内地の総人口約5600万人のうち、0. 8%強に当たる45万人が死亡した。 当時、日本は台湾と朝鮮等を統治していたので、 日本統治下全体での死者は0. 96%という(速水,426. 以下、図表参照)。 1945年、東京大空襲による犠牲者は10万人。 日露戦争による戦死者約9万人を考えるとき、この数字が如何に巨大なものかが分かるだろう。 単純にこの死亡率を現在の日本に当てはめると、120万人が死ぬ計算になる。 これは大阪市の人口の約半分にあたる。 筆者制作 ・「スペイン風邪」の凄惨な被害~一村全滅事例も 「前流行」と「後流行」の二波による日本でのスペイン風邪の大流行は、各地で凄惨な被害をもたらした。 以下速水より。 *適宜筆者で追記や現代語訳にしている。 福井県九頭竜川上流の山間部では、 「感冒の為一村全滅」という見出しで、面谷(おもだに)集落では人口約1000人中、970人までが罹患し、すでに70人の死亡者を出し、70人が瀕死の状態である旨報道されている。 出典:速水,146 (1919年)2月3日の東京朝日新聞は、東京の状況を「感冒猛烈 最近二週間に府下(当時は東京府)で1300の死亡」という見出しのもと、警視庁の担当者談として「今度の感冒は至って質が悪く発病後直肺炎を併発するので死亡者は著しく増加し(中略)先月11日から20日までに流行性感冒で死んだ人は289名、肺炎を併発して死んだ人は417名に達し(後略)」と報道している。 各病院は満杯となり、新たな「入院は皆お断り」の始末であった。 出典:速水,161 (岩手県)盛岡市を襲った流行性感冒は、 市内の各商店、工業を休業に追いやり、多数の児童の欠席を見たため、学校の休校を招いた。 (1919年11月)5日には厨川(くりかわ)小学校で2名の死者を出し、さらに6日の(岩手日報)紙面は「罹患者2万を超ゆ 各方面の打撃激甚なり 全市困惑の極みに達す」との見出し 出典:速水,168 神戸には、夢野と春日野の二箇所に火葬場があったが、それぞれ100体以上の死体が運ばれ、 処理能力を超えてしまい、棺桶が放置されるありさまとなった。 出典:速水,128 など、日本を襲ったスペイン風邪の猛威は、列島を均等に席巻し、各地にむごたらしい被害をもたらした。 とりわけ重工業地帯で人口稠密であった京都・大阪・神戸の近畿三都の被害(死亡率)は東京のそれを超えていたという。 だが、上記引用を読む限り、大都市部であろうが農村部であろうが、スペイン風邪の被害は「平等」に降りかかっているように思える。 ・「スペイン風邪」に当時の政府や自治体はどう対処したのか さて、肝心なのは当時のパンデミックに日本政府や自治体がどう対応したかである。 結論から言えば、様々な対処を行ったが、根本的には無策だった。 なぜならスペイン風邪の病原体であるH1N1型ウイルスは、当時の光学顕微鏡で見ることが出来なかったからだ。 人類がウイルスを観測できる電子顕微鏡を開発したのは1930年代。 実際にこのスペイン風邪のウイルスを分離することに成功したのは、流行が終わって十五年が過ぎた1935年の出来事であった。 つまり当時の人類や日本政府は、スペイン風邪の原因を特定する技術を持たなかった。 当時の研究者や医師らは、このパンデミックの原因を「細菌」だと考えていたが、実際にはウイルスであった。 当時の人類は、まだウイルスに対し全くの無力だったのである。 それでも、政府や自治体が手をこまねいたわけではない。 今度は内務省を中心に当時のパンデミックに対し、公的機関がどう対処していくのかを見てみよう。 大正8年(1919年)1月、内務省衛生局は一般向けに「流行性感冒予防心得」を出し、一般民衆にスペイン風邪への対処を大々的に呼びかけている。 驚くべきことに、スペイン風邪の原因がウイルスであることすら掴めなかった当時の人々の、未知なる伝染病への対処は、現代の新型コロナ禍における一般的な対処・予防法と驚くほど酷似している。 以下、内務省から抜粋したものをまとめた。 *適宜筆者で追記や現代語訳にしている。 ・はやりかぜはどうして伝染するか はやりかぜは主に人から人に伝染する病気である。 かぜ引いた人が咳やくしゃみをすると眼にも見えないほど細かな泡沫が3、4尺(約1メートル)周囲に吹き飛ばされ、それを吸い込んだものはこの病にかかる。 ・(はやりかぜに)かからぬには 1. 病人または病人らしい者、咳する者に近寄ってはならぬ 2. たくさん人の集まっているところに立ち入るな 3. 人の集まっている場所、電車、汽車などの内では必ず呼吸保護器(*マスクの事)をかけ、それでなくば鼻、口を「ハンカチ」手ぬぐいなどで軽く覆いなさい ・(はやりかぜに)かかったなら 1. かぜをひいたなと思ったらすぐに寝床に潜り込み医師を呼べ 2. 病人の部屋はなるべく別にし、看護人の他はその部屋に入れてはならぬ 3. 治ったと思っても医師の許しがあるまで外に出るな (内務省,143-144) 部分的に認識違いはあるが、 基本的には「マスク着用」「患者の隔離」など現在の新型コロナ禍に対する対処法と同様の認識を当時の政府が持っていたことが分かる。 そして内務省は警察を通じて、全国でこの手の「衛生講話会」を劇場、寄席、理髪店、銭湯などで上演し、大衆に予防の徹底を呼び掛けている。 またマスク励行のポスターを刷り、全国に配布した。 マスクの無料配布も一部行われたというが、現在の新型コロナ禍と全く似ていて、マスクの生産が需要に追い付かなかったという。 ただ失敗だったのは、内務省が推進した予防接種である。 病原体がウイルスであることすら知らない当時の医学は、スペイン風邪の予防に苦肉の策として北里研究所などが開発した予防薬を注射させる方針を採り、接種群と未接種群との間で死亡率の乖離を指摘しているが、これは現代の医学から考えれば全くの無意味な政策であった。 だが、当時の技術ではそれが限界だった。 ・100年前も全面休校 休校イメージ、フォトAC 各自治体の動きはどうだったか。 とりわけ被害が激甚だった神戸市では、市内の幼稚園、小学校、中学校等の全面休校を決めた(速水,198)。 1919年には愛媛県が県として「予防心得」を出した。 人ごみに出ない、マスクを着用する、うがいの励行、身体弱者はとりわけ注意することなど、おおむね内務省の「流行性感冒予防心得」を踏襲した内容である。 学校の休校や人ごみの禁忌など、これまた現在の状態と重複する部分が多い。 そしてこれもまた現在と同じように、各地での集会、興行、力士の巡業、活劇などは続々中止か、または閉鎖されていった。 このようにして、日本各地で猛威を振るったスペイン風邪は、1920年が過ぎると自然に鎮静化した。 なぜか?それは内務省や自治体の方針が有効だったから、というよりも、スペイン風邪を引き起こしたH1N1型ウイルスが、 日本の隅々にまで拡大し、もはやそれ以上感染が拡大する限界を迎えたからだ。 そしてスペイン風邪にかかり、生き残った人々が免疫抗体を獲得したからである。 つまり、 スペイン風邪は突然の嵐のように世界と日本を襲い、そして自然に去っていったというのが実際のところなのである。 残念ながらヒト・モノが航空機という、船舶よりも何十倍も速い速度で移動できるようになった現在、新型ウイルスの伝播の速度はスペイン風邪当時とは比較にならないだろう。 だが100年前のパンデミックと違うところは、私たちの医学は驚くべきほど進化し、そして当時、その原因すらわからなかったウイルスを、私たちは直接観察することが出来、なんであれば人工的にウイルスすら制作できる技術力を保有しているという点だ。 このような状況を鑑みると、100年前のパンデミックと現在。 採るべき方針はあまり変わらないように思える。 すなわちウイルスの猛威に対しては防衛的な姿勢を貫き、じっと私たちの免疫がウイルスに打ち勝つのを待つ。 実際にスペイン風邪はそのようにして終息し、日本は内地45万人の死者を出しながら、パンデミックを乗り越えている。 ウイルスの存在すら知らなかった当時と違って、現在の私達の社会におけるパンデミックは、伝播速度の違いはあれど集落が全滅したり、火葬場が満杯になったりするという地獄絵図には向かいにくいのではないか、というのが正直な感想である。 ・100年前もデマや流言飛語 満員電車イメージ、フォトAC 最後に、スペイン風邪当時の日本で起こったデマや流言飛語の事例を紹介する。 現在ですらも、「57度から60度近いお湯を飲めば予防になる」などの根拠なき民間信仰が闊歩しているが、人間の恐怖の心理は時代を超えて共通しており、当時も様々な混乱が起こった。 とりわけ医学的には無意味な神頼みは尋常ではなく、例えば現在の兵庫県神戸市須磨区にある多井畑(たいはた)厄除八幡宮では、神戸新聞の報道として、「善男善女で…非常な賑わいを呈し 兵庫電鉄は朝のほどから鮓(すし)詰めの客を乗せて月見山停車場に美しい女も職工さんも爺さんも婆さんも十把ひとからげに吐き出す」(速水,198)で、駅から神社まではさらに二キロ程度の山道で、社務所が用意した護符は飛ぶように売れた(速水,同)という。 人ごみを避けろ、と言っておきながら満員電車はOKというダブルスタンダードまで、現在の日本の状況と何ら変わらない。 日本に於けるスペイン風邪の大流行から、私たちは時代を超えた共通項を見出すことが出来る。 そして人間の心理は、100年を経てもあまり進歩がない、という側面をもさらけ出しているように思える。 どうあれ、私たちはスペイン風邪を乗り越えていま生きている。 デマや流言飛語に惑わされず、私たちは常に過去から学び、 「スペイン風邪から100年」という節目に現出したパンデミックに泰然自若として対応すべきではないか。

次の