エディット ピアフ を 讃え て。 プーランク 即興曲第15番「エディット・ピアフを賛えて」

わが愛の讃歌―エディット・ピアフ自伝

エディット ピアフ を 讃え て

Edith Piafの生涯 数多の男と浮名を流し、最後はアルコールと麻薬中毒で、47歳の生涯を閉じたシャンソン界最高の 歌手エディット・ピアフ! ピアフとは雀という意味だそうですが、もしかしたら美空ひばりはピアフにあやかったのかなと想像 してしまいました。 艶っぽく、物憂げで少し乾いたようなと言うか、突き放したような感じの彼女の歌声は生き様をその まま映し出したような雰囲気があります。 かわいい女を演じて男に媚を売るような、そんな生き方はしなかった彼女、若く無名ではあっても優 れた才能を愛し、損得抜きでひとり立ちを支援した行為は世界的なスターになったイヴ・モンタンを 生みました。 「バラ色の人生」はピアフ自身の作詞ですが、モンタンとの別れを決意したときに生まれた曲です。 また「愛の賛歌」は妻子あるボクサーとの愛を、飛行機事故で失ったとき、悲しみの中から生まれた といわれています。 鬼気迫る伝説的な生涯をインターネットで知り、同じ歌が複雑な感慨を伴って、私の感性を揺さぶり ました。 以下はインターネットで調べたエディット・ピアフの歴史です。 を参考にしました。 1915 大正4年 12月19日、エディット・ピアフ 本名エディット・ジョヴァンナ・ガシオン 生まれる。 父ルイ・アルフォンス・ガシオンは、アクロバットの大道芸人。 母アネッタ・メイヤールはイタリア人、街頭で歌を歌っていた。 母親はピアフを生むとすぐに姿を消してしまい、生後2カ月にして、母方の祖母の家に預けられる。 その後ノルマンディの片田舎で売春宿を経営していた父方の祖母ルイーズのもとにあずけられる。 3歳のとき白内障にかかり視力を失う。 2年後祖母ルイーズに連れられ、「奇跡の地ルルド」を訪 れ、他の娼婦たちも一緒に祈ったところ、奇跡的に視力を回復した。 16歳のとき運送店の配達夫プティ・ルイ 17歳 と駆け落ち、安ホテルで同棲生活を始める。 その間、外人部隊の兵隊と浮気。 18歳で娘マルセル・デュポン(セセル)を出産。 その後すぐプティ・ルイと別れる。 アルベールの情婦になる。 毎日街頭で歌い、貢ぐもアルベールにピストルで撃たれる。 水夫、トルコの騎兵隊、元炭鉱夫 同時に3人の恋人を持つ。 娘マルセル、2歳半で脳膜炎で死去。 埋葬費用もなく、街頭に立ち、男を10フランで拾う。 キャバレー「ジェルニーズ」の経営者ルイ・ルプレがピアフの歌声に魅せられ、彼女を 「ラ・モーム・ピアフ 」 子すずめ の名でデビューさせる。 2年後ルイ・ルプレ殺人容疑者として警察の取調べを受けるが、証拠不十分で釈放される。 レイモン・アッソー 作詞家 と同棲生活始まる。 「私を利用しようとするのでもなくければ、自分の愛人にしようという下心もなく、 私に救いの手をさしのべてくれた最初の男性は作詞家のレイモン・アッソーでした。 」 泥沼の生活から立ち直り、歌手生活を確立 ABC劇場のステージ゙に「エディット・ピアフ」の芸名で立つ。 1939 アッソー の徴兵以後、二人の関係に終止符。 歌手のポール・ムーリスと出会い、二人の関係は2年続く。 1941 ポール・ムーリス と別れる。 妻子ある作曲家と恋愛。 彼女のために「バダン・パダン」などのシャンソン を書い たアンリ・コンテ と同棲。 1944 「ムーラン・ルージュ」にイヴ・モンタン、出演。 ピアフ、 モンタンの歌をテスト、 共演(アメリケーヌ) に決め、シャンソンの特訓を開始。 モンタン、ピアフの新しい「主人」に、二人の恋人生活は 2年間続く。 1946 イヴ・モンタンを育て世界的なスターになったとき、ピアフは静かに彼のもとを去っていきます。 「バラ色の人生」はピアフ自身の作詞ですが、モンタンとの別れを決意したときに生まれた曲。 1947 マルセル・セルダン(カサブランカ出身のボクサー と出会う。 NYマジソン・スクエア・ガーデンの世界ミドル級選手権大会でチャンピオンに 1949 セルダンは彼女の力もお金も必要としない素朴で明るい男でした。 ピアフをジェットコースターに乗せて大喜びさせ、自分の試合のリングサイトに呼んで、プロボクシ ングの世界タイトルをプレゼントしたのです。 マルセルには妻子がいたので結婚はできませんでしたが、ピアフにとって最も幸せなときだったのか もしれません。 しかしその年の10月28日、大きな衝撃がピアフをおそいます。 彼女はニューヨークで公演中、マルセルは船でピアフのもとに来ることになっていたのですが、 「とても待てないの、飛行機で来て!」 「いいよ、きみにキスを。 愛しているよ」 それが彼の最後の言葉になってしまいました。 マルセルの乗った飛行機はアゾレス諸島で墜落、 二度と彼はピアフのもとにはもどりませんでした。 1950 1月《愛の讃歌》クラッシック音楽の殿堂「プレイエル音楽堂」にて創唱。 2月17日午後4時、セルダンの妻、マリネット・セルダンからの電報、カサブランカで会う 1951 有名な自転車競争選手の妻子あるアンドレ・プースと1 年間の恋愛関係が続く 1952 モルヒネとアルコールの常習 7月29日、ジャック・ピルスとパリ第16区役所に結婚届。 マレーネ・デートリッヒを立会い人に結婚式をあげましたが結婚後、何回も入退院を繰り返しました。 1954 ジャン・ドレジャック。 1921生まれのシンガー・ソング・ライター。 54年から55年にかけてピアフに 愛され、アメリカ巡業も同行する。 1956 アルコール中毒で入院。 1957 5月15日、ジャック・ピルスと離婚 1958 ピアフのために作詞・作曲をしたジョルジュ・ムスタキ 23 、 ピアフの自宅に「主人」として迎えられる。 1959 ジョルジュ・ムスタキと袂を分かつ。 麻薬中毒で3度目の入院 1962 テオ・サラポと16区の区役所に結婚届けを出す。 1963 10月11日13時10分、ピアフ、南フランスのプラスカシェで心臓マヒのため死去 47歳 アルコール中毒と麻薬の常用で経済観念のまったく無かった彼女には莫大な借金が残ったそうです。 最後の夫20歳年下のテオ・サラポに看取られながら、波乱万丈の人生の幕を閉じたピアフ。

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「即興曲第15番『エディット・ピアフを讃えて』」の楽譜/フランシス・プーランク/ピアノソロ譜

エディット ピアフ を 讃え て

「」も参照 売春宿で育ち、街角でスカウトされて歌手として一時代を築くも愛に恵まれなかったピアフの一生を、いくつかの象徴的なエピソードを交えながら描いている。 キャスト [ ] 役名 俳優 日本語吹替 モモーヌ ルイ・バリエ ティティーヌ ルイ・ガション ルイ・ルプレ アネッタ ルイーズ レイモン・アッソ エディット・ピアフ(5歳) エディット・ピアフ(10歳)• その他の声の吹き替え://////////// 主な賞歴 [ ] 受賞 [ ]• :主演女優賞、メイクアップ賞• :主演女優賞、撮影賞、美術賞、衣装デザイン賞、録音賞• :主演女優賞 ミュージカル・コメディ部門• :主演女優賞、作曲賞、衣装デザイン賞、メイクアップ賞• :女優賞 ノミネート [ ]• :衣装デザイン賞• :作品賞、監督賞、助演男優賞、助演女優賞、オリジナル脚本賞、音響賞、編集賞• :外国語映画賞、美術賞、音響賞• :作品賞、女優賞、エクセレント賞• :主演女優賞、外国語映画賞 外部リンク [ ]• (日本語) [ ]• (英語)• (フランス語)• - (英語)• - (英語) この項目は、に関連した です。

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エディット・ピアフ、名唱100曲がCDに

エディット ピアフ を 讃え て

生涯独身だったパリジャン、プーランクのダンディズムは男としていつも格好いいなと思います。 彼はドイツロマン派が嫌いでモーツァルトとフランス古典音楽を愛した。 僕はゲルマンの重い陰鬱で粘着質な気質よりラテンの軽くて透明で移り気な精神が好きなので、プーランクの音楽に魅かれます。 彼がシャンソンというキャバレーの雰囲気をもった大衆の歌と接点を持っていたのもいいですね。 音楽が宗教の厳粛さも表せるなら遊びでもあるという姿勢であって、この飛翔するような精神の自由さは本当に人生にゆとりを持って臨めた人だけに許される境地のように感じます。 このハ短調の 15番「エディット・ピアフを賛えて」は即興曲集の最後の一つでとても有名ですが、この小品をもってプーランクの代表作というのは憚られます。 むしろその耳触りの良さは、何かの意図を抱いてあえてそうしたのだろうと考えるべき性質のものを秘めている、どこか陰のある作品のように思うのです。 最後に心地よくハ長調におさまりそうな気分がふらふらと短調と交差して、結局最後のコードはハ短調に戻ってしまう・・・このメランコリックな心の揺れが何かを暗示しているようです。 子供でも弾けて一見してオシャレ感がある。 ピアノの発表会で好まれそうな曲想なのですが、このエンディングまでちゃんともっていけるかな?これはオトナの音楽ですからね。 以下に僕の想像を交えてご紹介するエピソードが真相かどうか?皆さんにご判断はゆだねますが、クラシック愛好家界を二分する 「耳の娯楽派」の鼓膜を心地よく慰撫してくれると同時に、 「考古学派」の知的好奇心をもかきたてる謎に満ちた名曲と思います。 彼が好きだったシャンソン歌手、 エディット・ピアフ(1915-63)はフランスで今も愛されている歌い手の一人であり、国民的象徴という意味では日本ならばさしずめ美空ひばりというところでしょうか。 ちなみに、誰もが知っている 「愛の讃歌」はこういう歌でした。 プーランクがピアフと会った記録はないそうです。 両人とも ジャン・コクトーと極めて親しかったのに不思議なことです。 ただ、プーランクはピアフの歌を愛していました。 1950年にニューヨークに行ったおりに、プーランクは彼女がこの歌をラジオ・ショーで歌うのを聞きました。 「バラ色の人生」です。 彼は日記に「プログラムの中で、官能的な歌はこれだけだった」と記しています。 ピアフが恋人のマルセル・セルダンを飛行機事故で失ったのはその前年の1949年です。 そして1958年にプーランクは 「人間の声」を書きました。 ジャン・コクトーの原作によるこのモノオペラ(一人歌劇)は別れた恋人に電話で自殺をほのめかす女を主人公としますが、プーランクはそこで書いた悲しいワルツが「あまりにピアフだ・・・」と気に病んだそうです。 ピアフはパリにいたセルダンに「はやくニューヨークに来て!」と電話した。 船をキャンセルしたセルダンは、それであの飛行機に乗ったのでした。 ところが、オマージュといってもこの即興曲が書かれた1959年にはピアフはまだ生きていたのですから不思議です。 「官能的な歌はこれだけだった」というプーランクの日記。 「セルダンが死んで、ピアフも死んでしまったのです」という親友の言葉。 なんともせつないものが 「エディット・ピアフを賛えて」にはこめられているような気がしてなりません。 お聴き下さい。 これはプーランク唯一の弟子だったガブリエル・タッキーノの演奏です。 こちらはパスカル・ロジェ。 実に素晴らしいタッチです。 プーランクは最も好きな作曲家5人にショパンを入れていますが、それを思わせる曲でもあります。 1963年1月30日にプーランクは亡くなった。 同じ年の10月10日にピアフがリヴィエラで癌で亡くなると、数時間後にコクトーはその知らせを聞いて「何ということだ」と言いながら寝室へ入りそのまま心臓発作で息を引き取った。 (こちらへどうぞ) Yahoo、Googleからお入りの皆様。 ソナー・メンバーズ・クラブのHPは をクリックして下さい。 「愛の讃歌」は小学生の時に初めて聴いたのですが、その時の印象は鮮明で子供にとって鼻にかかった発音とあの独特のシャンソンの雰囲気が異国の文化の象徴のように感じられそうこうしているうちに、シルビー・バルタン「あなたのとりこ」・ミレイユ・マチュー「気まぐれを許して」・ミッシェル・ポルナレフ「哀しみの終わる時」とフレンチポップスから洋楽を聴くようになって行きました。 ユダヤ系のミヨーはアメリカに亡命して大学で 「Take Five」のブルーベックを教えていたといいますし、いよいよクラシックが色々な方向に変容していくこととなって、2つの大戦もあって本当に色々濃い時代ですよね。 大好きなポップスです。 ミヨーが教えたってだけですごいことだと思います。 最近の投稿• 来た、見た、うれしかった!•

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