鎌倉 大仏 歴史。 野ざらしの巨大仏の謎 鎌倉の大仏の本殿は津波で流された?

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鎌倉 大仏 歴史

誰もが知る鎌倉の大仏様。 像の高さは11. 39メートル(台座を含めると13. 35メートル)、重さ121トンの巨大な阿弥陀如来像です。 誰が何のためにいつ造ったのかいまもって正確なところは不明というミステリアスな存在でもあります。 1498年の明応地震で大仏殿が倒壊して以来露座となってますが、補修の多い奈良の大仏に比べ造営当初の姿をよくとどめている貴重な国宝です。 大仏様を安置する高徳院も開山、開基不明というミステリアスなお寺です。 初期は真言宗、のち臨済宗、江戸時代の再興以降は浄土宗となって現在に至ります。 そういえば、浄土宗の阿弥陀像に多い来迎印(右手が挙り、左手が下がる)ではなく、膝の上で両手を組む定印を結んでいるのも、真言宗や天台宗系の阿弥陀様だとわかります。 境内に掲示されている「国宝 鎌倉大佛因由」を引用します。 以下、数値までが引用です。 この大佛像は阿弥陀仏である。 源頼朝の侍女であったといわれる稲多野局(いだめのつぼね)が発起し、僧浄光が勧進(資金集め)して造った。 零細な民間の金銭を集積して成ったもので、国家や王侯が資金を出して造ったものではない。 初めは木造で暦仁元年(1238年)に着工し6年間で完成したが、宝治元年(1247年)大風で倒れたので、再び資金を集め、建長4年(1252年)に至って現在の青銅の像を鋳造し、大仏殿を造って安置した。 原型作者は不明であるが、鋳工として大野五郎右衛門や丹治久友の名が伝えられる。 大仏殿は建武元年(1334年)と慶安2年(1369年)とに大風で倒れ、その都度復興したが、明應7年(1498年 )の海潮に流失以来復興せず、霊像として知られるに至った。 大正12年(1923年)の大震災には台座が崩れ、仏像は前に傾いたが倒れなかった。 大正14年(1925年)台座を補強し仏像を台座に固定せしめる耐震構造の修復がなされた。 昭和35年(1960年)〜昭和36年(1961年)の修理では、前傾している頭部を支える頭部の力を、強化プラスチックで補強し、大正修理でなされた耐震構造を改め、大地震の際は、台座と佛体が離れる免震構造が施された。 この強化プラスチックの利用と台座の免震構造は、日本の文化財としては最初のものです。 総高(台座共) 13. 35m 青銅佛身高 11. 312m 面長 2. 35m 眼長 1. 00m 眉長 1. 24m 口広 0. 82m 耳長 1. 90m 眉間白毫(びゃくごう)径 0. 18m 眉間白毫高 0. 15m 螺髪(らほつ)高 0. 18m 螺髪径 0. 24m 螺髪数 656個 佛体重量 121トン(32670貫) 高徳院(大仏)は国宝の大仏があまりにありがたく、こればかりみてしまいますが、境内は他にもよい場所があります。 大仏左手桜や紅葉、小川も流れる場所があり、腰掛けられる立派な石がいくつも置かれています。 また、タイ国皇太子寄贈の桜なども植えられています。 受付を過ぎてすぐに始まり大仏背後まで木立が心地よい空間となっていて、大仏とともにぜひ歩いていただきたいです。 大仏様エリアは、わかりやすいコース設定ができます。 鎌倉駅から江ノ電に乗って長谷で降り、長谷寺~大仏、最後は海で夕陽でも眺めてというのが一番人気でしょうか。 駅から大町を抜けて由比ケ浜大通りを歩いて長谷へと向かうルートもなかなかです。 途中、昭和11年の日本建物が残る鎌倉彫の寸松堂や、旧前田侯爵家の別荘を使用したなど見所がたくさんあります。 高徳院で大仏とともに必ず寄るのが、大仏様の後ろ左手にある茶店です。 昔ながらの雰囲気で一杯飲むのは大変美味しくお酒をいただけます。 大仏様の中に入るなら、飲む前にしましょう。 転んだら大変です。 大町~由比ケ浜大通りには、小林秀雄氏が通ったうなぎ屋や美味しい立ち飲み店がありますが、これはまた、別稿にてあらためたいと思います。 高徳院(大仏)関連記事 高徳院(大仏)フォトギャラリー.

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鎌倉市/高徳院(大仏)(こうとくいん(だいぶつ))

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鎌倉大仏は浄土宗の寺院「高徳院」にある「阿弥陀如来像」で、「長谷の大仏」とも呼ばれます。 奈良・東大寺の大仏と並ぶ「二大仏」の一つで、鎌倉彫刻の代表作で国宝にも指定されています。 奈良の大仏が立派な大仏殿にあるのに対し、鎌倉大仏は屋外に安置される「露座の仏さま」です。 ちなみに、高徳院は浄土宗の寺院で、かつては臨済宗・建長寺の末寺だった時期もあり、真言宗も経ています。 鎌倉大仏の歴史は鎌倉時代、3代執権・北条泰時の時代に始まります。 1238年 暦仁元 に僧の浄光 じょうこう の発願により、大仏殿造営がスタートしました。 1243年 寛元元 落慶供養の法会が行われましたが、これは木造の大仏で現存するものではありません。 しかし、その約10年後に金銅製の鋳造が始まり、これが現在の鎌倉大仏になります。 最初につくられた木造の大仏は、その原型だったと考えられています。 「金銅製」としましたが、現在の大仏の表面は青銅に見えます。 しかし、かつては、塗金で覆われていたものと考えられているのです。 今も大仏の頬に、その痕跡が見られます。 そんな金銅製でつくられた鎌倉大仏。 実は作者が不明です。 運慶に源流を持つ慶派と、宋の仏師たちの両方の影響があるとされています。 また、大仏を安置する堂宇は、2回破損・倒壊と修復を繰り返しました。 しかし、1495年 明応4 の津波で建物が倒壊すると、現在まで露座の仏さまとなっています。 背中を丸め、下を向いているように見える大仏。 それは、堂内で拝することを前提に前かがみの姿になっているのだそう。 山あり谷ありの歴史の中、あの穏やかなお顔でじっと座られていたことを思うと、感慨が深まります。 鎌倉大仏の高さ・重さなど 大仏といえば、鎌倉と並んで奈良・東大寺の大仏が有名です。 実は二つの大仏は、それぞれ異なる仏さまを表しています。 鎌倉大仏は極楽浄土の仏さまである「阿弥陀如来(あみだにょらい)」です。 阿弥陀如来について、『山川 日本史小辞典(改訂新版)』は次のように解説しています。 阿弥陀はサンスクリットのアミターユス 無量の寿命の意 とアミターバ 無量の光明の意 の音訳。 西方にある極楽浄土の仏で,日本では,浄土教の隆盛にともない諸仏のなかでも最も多くの信仰を集めた。 (『山川 日本史小辞典(改訂新版)』( 2016年, 山川出版社)より抜粋) 一方、奈良の大仏は「毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)」です。 毘盧遮那の解説はこうなります。 サンスクリットのバイローチャナの音訳。 盧舎那・遮那とも略称し,光があまねく照らすごとく全宇宙に遍満する仏身の意から光明遍照ともいう。 「華厳経 けごんきょう 」や「梵網経 ぼんもうきょう 」の教主。 (『山川 日本史小辞典(改訂新版)』( 2016年, 山川出版社)より抜粋) この二つの大仏の大きさを比較すると、奈良の大仏のほうが総高が4. 68m高く、重さは倍以上です(東大寺の大仏は250t)。 スケールは奈良のほうが大きいようですが、なんとか鎌倉大仏の奈良の大仏に勝てるところはないか探してみました。 それは「螺髪(らほつ)」! パンチパーマのように丸まった仏さまの髪の毛です。 螺髪の数は奈良492個に対して、鎌倉の大仏は656個あります! 鎌倉大仏の場所と周辺情報、アクセス 鎌倉大仏は鶴岡八幡宮から南西に1km、長谷エリアに位置します。 近くには、あじさいで有名な長谷寺や鎌倉文学館といった観光スポットがあり、古民家レストランなども営業する情緒豊かな地域です。 ちょっとしたハイキングを楽しむなら、北鎌倉から高徳院のすぐ近くまで抜ける葛原岡・大仏ハイキングコースがおすすめです。 最寄り駅は江ノ島電鉄の長谷駅で、そこから徒歩約7分。 鎌倉駅から長谷駅までは約5分、のどかなローカル線の雰囲気を味わえます。 藤沢駅からなら長谷駅まで江ノ島電鉄で約30分です。 鎌倉駅東口バス乗り場1番から江ノ島電鉄バス、もしくはバス乗り場6番から京浜急行バスに乗り、「大仏前」停留所下車すぐ。 営業時間.

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鎌倉市/鎌倉市の歴史

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高徳院(鎌倉大仏) 編集: 新型コロナウイルスの感染拡大を防止するため閉門していましたが、6月1日から拝観を再開しています。 胎内拝観は休止中。 鎌倉大仏は、高徳院の本尊で青銅製の「阿弥陀如来坐像」。 建立当時には金箔が施されていた。 最初の大仏は木造で1243年(寛元元年)に完成したが、台風により崩壊したため、1252年(建長4年)、新たに青銅製の大仏の鋳造が始められ、大仏殿に安置された(完成した時期は不明)。 大仏殿は高さ40メートルにもなる巨大な建物だったというが、1495年(明応4年)の「明応の大地震」による津波で流された(1498年(明応7年)ともいわれる。 以後、鎌倉大仏は露坐 ろざ となる。 大仏建立の理由は不明であるが、死者の怨霊を鎮めるためとする説が有力。 高さ13メートル(台座共)、総重量122トンで宋の影響を受けた仏像は、国宝に指定されている。 鎌倉大仏(極楽)は、(救済)・(地獄)とともに浄土信仰に基づく情景を構成する寺院群の一つだったという説がある。 越え行けば の 堂近く 露坐の大仏 おわします 源頼朝が建立を願ったのか・・・? 鎌倉大仏 鎌倉に大仏を造ろうと思い立ったのはだった。 しかし、はそれを果たすことなくこの世を去ってしまったことから、侍女だった稲多野局(いなだのつぼね)がその志を受け継いで造立の発起をし、僧浄光が勧進して造立されたのだという。 が助力したともいわれている。 は、1195年(建久6年)、奈良の大仏殿落慶供養に参列している。 そのときに、「鎌倉にも大仏を・・・」と考えたとしてもおかしな事ではない。 鎌倉大仏の後ろには、稲多局の笠塔婆が建てられている。 稲多局の笠塔婆 〜謎多き鎌倉大仏〜 鎌倉の仏像で唯一国宝に指定されている鎌倉大仏は、誰が何の目的でどのように鋳造したのか・・・? 鎌倉大仏を安置するために建てられた大仏殿・・・。 鎌倉大仏はいつから露坐なのか。 鎌倉大仏の鋳造には丹治久友という鋳物師が携わったと伝えられている。 1264年(文永元年)に鋳造された大和吉野の蔵王堂の鐘銘には「鎌倉新大仏鋳物師丹治久友」とあったという(その鐘は現存しない。 また、久友は、同年、塔頭真言院の梵鐘鋳造にも携わり、その鐘銘には「鋳物師新大仏寺大工」とあるという。 「新大仏」というのは、に対しての呼び名と考えられる。 〜鎌倉大仏と 極楽寺・建長寺・光明寺〜 高徳院は、のが別当を勤めていた時期があり、その後、に管理されていたという。 江戸時代に入ると増上寺の祐天の発願で境内が整備され、大仏も補修された。 この時に材木座のの末寺になったと考えられている。 住職の引退後の隠居所でもあった。 (鎌倉情報トップ) 60年に一度の祭礼 2022年の大河は北条義時.

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