生き急ぐ 自意識過剰。 「ルームミラーにRS」CajuTomのブログ | ファミリーあっての CajuTom(かじゅとむ) と FREED

他人を攻撃するのは弱さの証拠。誰にでも優しく出来るのは強さの証拠

生き急ぐ 自意識過剰

2017-03-20 Post by Categries: 本作の登場人物は、 お互いを知らなすぎるのに 歩み寄り方が ものすごく下手なひとたち。 自分の固定概念の枠組みに それぞれを置いて見てしまうから 人間関係が崩壊しています。 だから会話が噛み合いません。 でも原作にはない演出として 台所でエアロビを踊るシーンがあります。 このときはじめて 登場人物が揃って心から笑い、 良い顔をしているんですよね。 観ている観客も音楽が相まって 思わず笑みがこぼれてしまう 多幸感溢れるシーンに 仕上がっています。 これはドランの前作 における セリーヌディオンの楽曲で 3人が踊るシーンと 全く同じ手法です。 そして、 母からルイへの 「誰もこの愛は奪えない」 という原作にはない台詞。 の 「この愛は誰にも壊せない、君以外は」 という台詞を思い起こさせます。 アートな表現を封印した新境地。 しかしドランがずっと扱ってきた 母と子というテーマは 家族を描くなかで確かに存在しています。 いかがでしたか。 19才という若さで 監督デビューした後、 生き急ぐかのように 作品を量産してきた グザヴィエ・ドラン。 その精力的な 創作活動からも伺えるように 彼のトレードマークは 類い稀なる表現欲 ! 、 「俺の話を聞いてくれ」 と言わんばかりの 自意識の過剰さでした。 しかし6作目にして 変化が訪れたのかもしれません。 それがよく表れているのは 過去作には見られなかった 主人公が寡黙という キャラクター設定があります。 グザヴィエ・ドランは 自身の言葉を 極力排することによって 本作で客観的に 自分を考えようと 試みたのではないでしょうか。 ラストも これまでの作品では 希望を提示してきたものが 多かったのですが、 バッド・エンド とも言える本作。 やはり変化が感じられます。 いかがでしたか? 前作 でもあった、 「あえて」観客に ストレスを与えてくる演出は、 本作では より激しくなっていました。 明らかに 「不自然」に。 この「不自然」が 何を意味しているのか? を観終わってから ずっと考えていた末に が導き出した 「意味」。 それはこの物語が 「現実に起こったこと ではないのでは?」 というものでした。 冒頭の飛行機のシーン。 この飛行機も実動感が全くないのですが 主人公ルイは同乗している 「子供に目隠しをされる」ところから 物語は始まるのです。 これは 「天使に導かれて 天国に召されていく」 シーンと取る事も 出来るのではないかと。 そこから先は ルイが死ぬ前に実現できなかった 彼の「願望であり幻想」 ではないのかと。 常軌を逸して イラつく母兄妹、 ルイが打ち明けられない気持ちを 見透かしたかのように話掛ける兄嫁、 勝手に動いているかのような 兄との車のシーン。 全てが腑に落ちるのですが 如何でしょうか?.

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メンヘラ女の14個の特徴と注意点

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そこに〈自由〉はあるのか? 人は自らの自由意志で物事を判断し、行動に移す、と僕らは漠然と信じている。 そして、あり余る選択肢からの自らの意志に基づく選択こそ、僕らが自由であることの証しなのだ……と。 だけど、本当にそうなのか? ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌの映画は、有無を言わせぬ〈強制力〉で僕らにそんな問いを突きつける。 僕らの〈行動(action)〉は、自分の意志や判断(内部)の結果ではなく、むしろ何らかの外部の力による強制に基づくのではないか。 自らの意志で動くのではなく、いつも何らかの力によって動かされる、それが人の〈行動〉の原理だとすれば……。 ベルギーで暮らす13歳の少年アメッドは、映画が始まった時点ですでに異様な切迫感に苛まれ、次から次へと慌ただしく〈行動〉を強いられる。 この生き急ぐかのような切迫感は何に由来するのか? とりあえずの回答はすぐに明らかになる。 イスラム急進主義の強い影響下にあるアメッドは、彼なりの〈聖戦〉の遂行を急務と見なすのだ。 ダルデンヌ兄弟による説明を排するストイックな演出が、映画ならではのさまざまな認識を提起する。 たとえば、少年はそれまで固い絆で結ばれてきたはずの女性教師に反発し逃亡するが、他方でコーランの暗記などの別種の学習には熱心に取り組む。 思考が真逆に転じてもなお、彼の〈行動〉は〈学習〉という共通の括りを放棄しないのだ。 あるいは、つい1か月前まで夢中だったゲームが宗教指導者のネット上の映像への崇拝に入れ替わる。 鏡を前に身を清め、衣服を整えてからの祈りにしても、思春期ならではの外見へのこだわりと無縁とは思えない。 思春期の少年は他人の目に自分がどう映るかが気になり(自意識過剰になり)、不純なものや汚れたものに嫌悪を催す潔癖症になりがちだ。 そんな意味で、アメッドの切迫感に満ちた〈行動〉は、(イスラム急進主義に感化された)特異な例であるだけでなく、思春期の少年が普遍的に示す〈純粋さ〉に基づくものでもある。

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映画「その手に触れるまで」イスラム急進主義に感化される13歳を通して、人間の自由意志を思索したダルデンヌ兄弟作

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小さい頃からちょっと変わったおとなしい男の子。 ミシマの分身のようだ。 観念的なことばかり考えて、野放図に豪快に男らしく育てようとする 父親に心の中で反発する。 父親が尊敬してやまない大学教授になったら父親はどんな顔をするか。 そういう自意識過剰さ。 まぁ、かわいげないんだけど。 東大に入ってから、父親からもらっていた大金を 詐欺でとられてしまう。 たわいもない詐欺なんだけど、結構今でもネットや現実ではびこる詐欺。 ちょっと前にも芸能人がひっかかってたよねぇ。 ロココ調のカツラかぶった人に。 豪華客船の旅もプレゼント!なんて。 冷静に見たらおかしいやろ!と思うんだけど。 なんでなんだろうねぇ…。 で、そこで騙された彼は、プライドを大きく傷つけられるんだけども 同じ手口で人々を騙すことを考え付く。 バーの女の子ともロクに話せない、男の子。 だけどその心の中では自己反省と自意識過剰が渦巻く。 外から見てるとうんざりするだろうなぁ。 その心から出口を探してさまよう。 どこかで開放されたい。 認められたい。 表現方法を間違えて、周りの人間からも煙たがれる。 知り合った女の子は、「処女」を売りにした一風変わった女の子。 決して恋はしない。 男に身を任せることもしない。 そう広言して憚らない女の子。 彼はそんな彼女に惹かれ始める。 やがてその詐欺手法も成功して、どんどんお金が転がり込んでくる。 社長となった彼は、やがて偉ぶることを覚えた。 バーに行けば、今まで自分に目もくれなかった女達が群がってくる。 欲に目のくらんだ人々は自分の手を必要としている。 そして恋する彼女も自分の秘書としてやとう。 彼女に手を出さない唯一の紳士的な男として彼は振舞うことに喜びを覚える。 彼女のお金を使った遊戯は彼のプライドをくすぐる。 田舎から心配して出てきた母親には 強引な取立てを見学させる。 泣きながら彼を説得する母親に対しても、彼は冷酷に振舞ってみせ そんな自分に満足する。 そんな生活。 彼は自分が傷ついたことすら他人に見せなかった。 肩を叩いて、リラックスさせてくれる人がいたらよかったのに。 抱きしめて泣かせてくれる人がいればよかったのになぁ。 でも彼は最後の最期までそれを拒絶したんだろう。 もっと年齢を重ねたらラクになっていくことの数々。 (開きなおるとも言う) だからこそ「青の時代」なんだろうなぁ。 切ない。

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