よう 実 星之 宮。 よう実の一之瀬の正体をネタバレ!Bクラスである理由とは!?

妙見宮の伝説

よう 実 星之 宮

実接 じっせつ 周弼 しゅうひつ 曰く、絶句の法、大抵第三句を以て主と為す。 首尾率直にして婉曲 えんきょく 無きは、此れ異時の唐に及ばざる所以なり。 其の法は、惟久しく其の伝を失うのみに非ず。 人亦能 よ く之を知ること鮮 すくな し。 実事を以て意を寓して接するときは、則ち転換力有り。 断ゆるが若 ごと くにして続き、外は振起 しんき にして内平妥 へいだ たるを失わず。 前後相 あい 応 おう ず。 四句に止むと雖 いえど も、而 しか も不尽の意を涵蓄 かんちく す。 此れ其の略のみ。 詳 つまび らかにして之を求め、玩味することの久しく、自 おのずか ら当 まさ に得る所有るべし。 送元史君自楚移越 原詩 【作者】 劉商 りゅうしょう = 生没年未詳。 中唐の詩人。 字は子夏。 野人 やじん 恵 けい に懐 なつ いて 家 いえ を移 うつ さんと欲 ほっ す。 東風 とうふう 二月 にがつ 淮陰郡 わいいんぐん。 惟 た だ見 み る 棠梨 とうり 一樹 いちじゅ の花 はな。 史君は官家の尊称。 「使君」のこと。 楚=現在の江蘇省淮安市辺り。 越=現在の浙江省紹興市辺り。 露冕=冕は、天子から大夫までが礼式に用いた冠のこと。 後漢の郭賀が顕宗(明帝)より冕を賜い、それを露わにして住民に見せ、郭賀に徳が有ることを示した故事による。 「三体詩評釈 野口寧齋 」に、「露冕は、漢郭賀の事を用ゆ。 賀の荊州に刺史たる民其徳を歌う。 顕宗特に黼黻冕旒を賜い、行郡の次、其譫帷を去り、百姓をして有徳を知らしめたる者。 以て去者に比す移家は古公亶父の事を用ゆ。 」、とあり。 若耶=地名。 浙江省紹興にある景勝地。 「じゃくや」と訓んでいる解説もあり。 野人=庶民のこと。 懷惠=元史君の徳に懐く。 東風=春風。 淮陰郡=江蘇省淮安市。 棠梨=やまなし。 果樹の一種。 バラ科の落葉低木。 別名「姫海棠」。 一樹花=「三体詩評釈」では、「花」字を「華」としている。 「三体詩評釈 野口寧齋 」に、「使君去て遺愛の棠梨独り春に笑う。 棠は召伯の茇る所、民の使君を見ると召伯の如し。 『惟見』の二字中に無限の恨意惜意有り。 而して其之を賛するを此の如きものは其趣に在ると猶お楚に在るが如きを望むのみ」、とあり。 竹枝詞 原詩 【作者】 李渉 りしょう = 773? ~831? 中唐の詩人。 清谿子と号した。 なお、書籍によっては晩唐の詩人に分類されていることもある。 空舲灘上 くうれいたんじょう に 子規 しき 啼 な く。 孤舟 こしゅう 一夜 いちや 東帰 とうき の客 かく。 泣 な いて春風 しゅんぷう に向 む かって 建渓 けんけい を憶 おも う。 土地の風俗等を上品に表現し、正しい節で歌えるように作ったもの。 唐の劉禹錫に始まる。 現在では、土地の風俗などを詠じた詩題として使われることが多い。 十二峰頭=巫山十二峰とも言う。 巫山は四川省巫山県の東にある名山。 代表的なものに神女峰がある。 月欲低=月が沈もうとしている。 空舲灘=崆岭灘 こうれいたん の故名か。 灘は浅瀬。 なお、現在は三峡ダムが建設され往時の状況とはかなり違っているようだ。 子規=ほととぎす。 孤舟=一艘の小舟。 東帰客=東に帰り行く旅人。 建渓=川の名。 福建省を流れる閩江 びんこう の支流。 「三体詩評釈 野口寧齋 」に、「十二峰頭の落月、空舲灘上の啼鵑、共に客懐に堪えざるの候をいう。 孤舟東帰の客、第二句に緊接するが如くにして其実は之に反映するなり。 十年帰るべくして帰らず、今にして思えば建渓却って故郷の看をなすをいう。 」また、「此詩の悽音更に耳に満つ。 與に情を動かすの文字となりというべし。 」とあり。 香山舘聽子規 原詩 【作者】 竇常 とうじょう = 749〜825。 中唐の詩人。 字は、中行。 断猿 だんえん 今夕 こんせき 衣 い を沾 うるお すことを譲 ゆず る。 雲 くも は老樹 ろうじゅ を埋 うず む 空山 くうざん の裏 うち。 彷彿 ほうふつ たり 千声 せんせい 一度 いちど に飛 と ぶに。 館は旅館。 子規=ほととぎす。 杜宇、杜鵑に同じ。 蜀王(望帝)であった杜宇の魂が「ほととぎす」となり、蜀が滅びた後も、「不如帰去」と悲哀の声で血を吐くまで啼いたという、故事あり。 「杜鵑吐血」、「杜鵑啼血」とも言う。 望郷の想いを詠じた詩に多く使われる。 楚塞=楚は、戦国時代の楚国。 現在の江蘇省淮安市辺り。 塞は、辺境の地。 晋の武将桓温が船で蜀へ行く途中、三峡を渡ったとき、従者が子猿を捕らえ、母猿が連れ去られた子猿の後を岸伝いで追い、その後、母猿ははらわたがちぎれるほどの耐え難い悲しみで死んでしてしまった。 讓沾衣=涙が衣を沾す。 譲は、断腸の思いの猿の声よりも、今は子規の声の方が悲しいこと。 空山=人けのないひっそりとした山。 彷彿=よく似ているさま。 さながら。 そっくり。 「三体詩評釈 野口寧齋 」に、「一声の渡る処虚に相応じて、千声の血唳を聞くが如し。 其哀、猿の及ぶべき所にあらず。 一度飛は一回啼の義、聴者の意之を迎うるなり。 故に彷彿すという。 彷彿の二字稀字に応じて、常山の蛇勢を作す。 」とあり。 長慶春 原詩 【作者】 徐凝 じょぎ =中唐の詩人。 遠客 えんかく 新 あら たに愁 うれ う 長慶 ちょうけい の年 とし。 身上 しんじょう の五労 ごろう 仍 な お酒 さけ を病 や み。 夭桃 ようとう 窓下 そうか 花 はな に背 そむ いて眠 ねむ る。 唐代穆宗の治世で使用された元号。 山頭=山のいただき。 水色=水のような色合い。 次の「烟」を形容した語。 薄籠烟=淡く靄がたちこめている。 遠客=たびびと。 新愁=愁が新たになること。 五勞=五臓の労のこと。 五臓は、心臓・腎臓・肺臓・肝臓・脾臓。 労は、疲れる。 病酒=註に「酒巵の致すが如き」とあり。 二日酔い。 夭桃=若々しい桃の花。 詩経に「桃夭」の詩あり。 「桃夭」は、詩経国風周南篇の詩。 桃之夭夭。 灼灼其華。 桃の夭夭たる、灼灼たり其の華。 之子于歸。 宜其室家。 この子ここに帰がば、其の室家に宜しからん。 桃之夭夭。 有蕡其實。 桃の夭夭たる、蕡たり其の実。 之子于歸。 宜其家室。 この子ここに帰がば、其の家室に宜しからん。 桃之夭夭。 其葉蓁蓁。 桃の夭夭たる、其の葉蓁蓁たり。 之子于歸。 宜其家人。 この子ここに帰がば、其の家人に宜しからん。 宮詞 二首之一 宮詞 二首之一 【作者】 王建 おうけん =? 〜830。 中唐の詩人。 字は仲初。 画袴 がこ 朱衣 しゅい 四隊 したい 行 い く。 院院 いんいん 灯 とう を焼 や いて 白日 はくじつ の如 ごと し。 沈香火底 ちんこうかてい に 坐 ざ して笙 しょう を吹 ふ く。 金吾=天子の護衛兵。 除夜=大晦日。 進儺名=「追儺」。 三体詩評釈 野口寧齋著 に 「儺は除夕大祓の式をいう。 童男童女、赤幘衣赤布袴、六隊宮を廻りて悪鬼を駆逐するの状を為す」とあり。 儺名は、儺に参加する人の名簿。 進は、奉呈のこと。 畫袴朱衣四隊行=儺の様子。 畫袴は模様が描かれた袴。 朱衣は、朱色の衣。 院院=宮中の建物。 燒燈=香木を焼いて灯火を灯す。 白日=昼間。 沈香火底=沈香は、香木の名前。 香木を焼いて灯した明かりの側。 笙=ふえ。 管楽器のひとつ。 「三体詩評釈 野口寧齋著 」に「儀已に始まりて院々の灯燭煇煌、箇々迎春の準備をなさざる無し。 中には又 沈香火底 に独坐して静かに笙を吹きて以て年を守るものあり。 その景況恍として目前にあるが如し」とあり。 宮詞 二首之二 宮詞 二首之二 【作者】 王建 おうけん =? 〜830。 中唐の詩人。 字は仲初。 軽羅 けいら の小扇 しょうせん 流蛍 りゅうけい を撲 う つ。 玉階 ぎょくかい の夜色 やしょく 涼 すず しきこと水 みず の如 ごと し。 臥 ふ して看 み る 牽牛 けんぎゅう 織女 しゅくじょ の星 ほし。 秋光=秋の光り。 畫屛=絵の描かれた屏風。 輕羅=軽いうすぎぬ。 小扇=小さなうちわ。 玉階=宮殿の美しい階段。 夜色=夜景。 夜のけしき。 牽牛織女星=七夕伝説の星。 彦星と織姫。 「三体詩評釈 野口寧齋著 」に「此詩は則ち宮女の秋に感じて坐臥自から安ぜざるを状す。 銀燭画屏、已に是れ貧女ならず。 又処女ならざるを見る。 冷字は秋字に切にして情景両ながら至る。 輕羅小扇、端的初秋の天気、起て蛍を撲つは、遊戯以て愁を消するなり。 星蛍飛来して人を避けず、玉階空寂の神を伝うというべし。 涼字は冷字に接して深きこと一層なり。 昔者秦宮、三十六年君王を見るを得ざるもの有り。 結句此意を暗用して牛女一夕の、亦得べからざるを嗟す。 」とあり。 漢詩の鑑賞 目次•

次の

星之宮知恵(ほしのみや ちえ)|ようこそ実力至上主義の教室へ

よう 実 星之 宮

孫の私ががんばらねば! ~ と家光の絆~ ・…日光といえば紅葉の一大名所、や、更に日本三名爆の一つもありますが…なんといってもです。 年間200万人もの人々が訪れる日本を代表する観光名所です。 この日本一豪華な建物を作ったのが・3代将軍・です。 …実は、このの誕生には、母親の江と家光の関係が深くかかわっていたのです。 実は、は夜、本当の姿を表わすんです。 上記画像は、国宝・陽明門を撮影した写真、ご覧のように社殿の真上に丁度、が輝いています。 …が宇宙にまでつながろうとした壮大でミステリアスな建築計画をご紹介します。 episode 1 誕生ミステリー 家康の暗号を解読せよ! 慶長5(1600)年、天下分け目の合戦・…大勝利を収めたは、天下の実権を握り3年後にを開きます。 慶長20(1615)年には、で豊臣一族を滅ぼし、天下人の地位は安泰かと思われましたが…この時、家康すでに74歳、体調を崩しにこもりがちになります。 家康は不安を感じます。 …「自分が死んだら幕府はどうなってしまうのか」…全国には、伊達に上杉・福島などつい最近まで覇を争った武将がまだ健在でした。 息子・秀忠をすでに二代将軍にしていたものの、まだ30代、自分・家康のカリスマ性によってかろうじて納まっている幕府、死後もその権威を保つ方法はないのか・・。 元和2(1616)年4月4日、死の2週間前、家康はある奇妙な考えを側近に告げます…「死後、の鎮守とならん」(『本光日記』より)鎮守とは守り神の事、死んだ後なんと神となって関東と幕府を守ろうというのです。 いったいどういうことでしょう…京都に豊国神社の祭神は、実は…遺言によって神として祀られました。 死後もこの世に魂を残し、カリスマ性を維持する事で支配に役立てようとしたのです。 …家康も秀吉のやり方を踏襲したと考えられます。 () 曽根原理さん 「家康の頃には、まだまだ宗教的なものが力を持っていて、単に軍事力がある、身分が上だけでは人々は従ってくれません…ですから将軍の御先祖は、神様で日本を守ってくれているんだとううのは、非常に有効だった時代なのです」 家康は、そのやり方についても詳細な計画を伝えていました。 それは極めて謎めいたもの…「自分が死んだら遺骸はに納め一周忌の後、日光山へ魂を移せ」(『本光日記』より)。 元和2(1616)年4月17日、家康はで息をひきとります…すぐさま計画が側近によって実行に移されました。 遺骸が運ばれた、から8キロほどのところにあります。 中世にはとして知られた人を容易には寄せ付けない急峻な山です。 …この山頂近くに急いで作った霊廟に遺骸は、その日のうちに葬られました。 そして一年後、また遺言に従って日光に移されました。 どうしてこんな回りくどい事をしたのでしょうか?…それは、と日光の二つの地点の位置に関係があるのです。 …2地点を地図で見ると衝撃的な事がわかります…なんと2点を結ぶと丁度、富士山が線上に位置するのです。 なぜ富士山が重要だったのか…実は富士山は古くから、日本最高峰の霊山とされ強いパワーを持つと信じられてきた特別な山でした。 …中でも人々が期待したのが「不死」としての「富士」…不死の山を越える事によって家康は不死身の永遠の存在になろうとしたと研究者の間で考えられています。 日光には、もう一つ不思議な事があります…幕府の本拠地・江戸の丁度、真北に位置しているのです…北の空には不動の星・、…つまり江戸から見てを背負うように主要な社殿は建っています…家康がを極めて重要視していた事がわかります。 家康の念頭に有ったと考えられているのが中国の皇帝でした…中国・北京の・天壇、中国を支配してきた歴代皇帝が祈りを捧げた場所です。 その場所の中心に設けられているのがを意味するマーク…は宇宙の中心、つまり天のである天帝であり、地上の皇帝・天子は天命を受けて地上を統治すると考えられていました。 長く中国を治めてきた皇帝がその権威の源としてきた、家康はそれにならってを掲げる事で神としての権威を高めようとしたと考えられるのです。 夜になるとミステリアスな姿を現わす、また早朝にも異なる表情を見せます…朝8時の開門前に行われるお祭り(日供祭:普段は見る事はできません)…8時になると二人の神主が本殿にお供えに訪れます。 壮麗な扉の奥に祭られているのは家康の・です。 …供えられるのは神饌と呼ばれる神の食べ物で魚、米、野菜など…によって人々や地域の平安無事が日々祈られています…今も家康が神として生き続けて敬われているのです。 日光から60キロ離れた世良田、ここにもう一つのがあるのです…このこそ元祖、家康が死んだ直後に造られ、後にここ世良田に移されました。 全体が朱色に塗られた小ぶりな建物です…作ったのは家康の息子で二代将軍の秀忠、家康の死後、遺言通りにしたものですが全体的に簡素な印象です。 それを20年後、突如、絢爛豪華に作り変えてしまったのが三代将軍・…現在の金額で2000億円もの巨費を投じました。 集めた職人や大工の数、延べ650万人…天才絵師・、本丸を手掛けた大棟梁・甲良宗広ら当代一流の人材を投入しました。 どうして家光は、これほど豪華なものを作ったのでしょうか…そこには、母・江と家光の切ない思いが秘められていたのです。 episode 2 日光名物 彫刻の謎 三代目 家光の悩み 慶長9(1604)年、家光はに生まれました…祖父は家康、父は秀忠、母は江です。 …幼名を竹千代といいました…これ以上望めないほどの良い生まれでしたが過酷な運命が待っていました。 家光の眼の乳母・が書いたといわれる文書に衝撃的な事が記されています…「竹千代を二親ともに憎ませられ」…なんと江、秀忠ともに家光を憎んでいたというのです。 生まれてすぐ乳母に預けられた家光、3歳の時には重い病にかかり、死にかけるなど大変身体の弱い少年でした。 …一方、家光より、2年後に生まれた国松は、母・江の手によって育てられ、健康で武術にも優れた活発な少年でした。 江や秀忠の愛情も国松の方に向けられたといいます…周囲でも次期将軍は兄ではなく、弟がふさわしいとの評判が高まります。 江戸時代の記録には、12歳の家光がこうした状況を嘆き、自ら命を断とうとしたとあります。 そんな家光に目をかけたのが祖父の家康でした…ある時、家康は二人の孫に会いに来ました…事実上、どちらが跡継ぎにふさわしいと考えているかを示す場でもありました。 人々が見守る中、家康が発した言葉は、「竹千代殿、これへ、けれへ…」(『徳川実記』より)…家光をまず近くに呼び寄せたのです。 つられて前に出ようとした国松に対しては、「国松はそこにいろ!」(『徳川実記』より)…と呼び捨て、家康は優秀と評判の国松よりも、あくまで年長の家光を時期後継者と考え、それを示したのです。 周囲は、この決定をいぶかりましたが家康の考えは違いました…将軍を才能や優劣で決めてしまえば、必ず争いが起こる…それを防ぐには長子相続、つまり年長順に将軍を決めるという方針を明確に打ち出す必要があると考えたのです。 () 曽根原理さん 「殿様が死んだ後に誰が後取りになるかという事は、ずいぶんもめるんです…世の中を安定させるためには、争いや競争を抑える事が重要な時代だったのです」 家光は、家康の死から7年後、20歳で3代将軍となり、9年後には父・秀忠も亡くなって名実ともに将軍となります。 …この時、家光29歳…しかし、その前途は多難なものでした。 居並ぶのは、伊達正宗ら歴戦のつわものたちばかり、一方、自分は戦場に立った事も無く、才能が認められた訳でもなく、将軍の子というだけで上に立っている三代目でした。 家光が就任演説とも言える場で口にしたのは、次のような言葉でした… 余は、生まれながらの将軍である 今後、皆、家臣同然に扱うが 納得できないならば国に帰り良く考えよ それでも不承知ならこちらにも考えがある 家光は、家康の孫であるという血筋を前面に出して強がってみせるしかない状態だったのです…その家光が実質的なった後、急ぐように始めたのがの造り替えでした。 当時、日光には父・秀忠が造った社殿がありました…簡素ではあったもののまだ20年も経っていませんでした。 …それを家光は、13年4月の家康の21回忌竣工を目指し、1年5ヶ月で造り替えてしまったのです。 は、幕府のである家康の象徴、その威光を最大限に高める事により、自らの権威を補おうとしたのです。 家光は、を膨大な数の彫刻で飾り立てました。 …家康のを祀る本社に近づくほどその数は増していきます。 表玄関・陽明門には、龍や唐獅子などなんと500を超える彫刻が…陽明門をくぐったところ本社の入口に当たる唐門には、従来の日本建築に殆んど見られなかった装飾を施しました。 一本のから掘り出された群像彫刻です…そこには、家光の三代目ならではの思いが垣間見えます。 …表わされているのは、中国古来の伝説の帝王が臣下に謁見する場面です。 () 中央にいるのがその人、…良く見るとその顔は家康に似ています…は堯から帝位を受け継ぎ禹に渡しました。 それは徳のある者へ正しく政権が移った理想の政治とされています。 家康を立てながら実は、密かに自分に政権が渡った事は正しいと主張している彫刻なんです。 更に本社の拝殿内部にに命じてユニークな絵を描かせました…想像上の動物です。 …これにも意味があります。 は優しい動物で徳のある王の世に姿を現し、殺生の多い王の世には姿を隠すと言われています。 がここにあるということで自分は徳のある君主だと言わんとしたのです。 他にも有名な眠り猫や見ざる・言わざる・聞かざるなどにも平安の世を意味する彫刻だったのです。 つまり、家光はを豪華に造り変える事により、家康の威光を最大限に活用し、自らのカリスマ性の無さを補ったのです。 には、家光が奉納した豪華な絵巻が残されています…家康の生涯やの成り立ちが最高級の顔料で描かれたもので行われた家康の21回忌の場面では、人々が大行列をなしての本社に向かっていく様子が描かれています。 取り仕切るのは、三代目の家光、家光は折々に日光に参拝する事を欠かしませんでした。 …しかし、将軍が江戸を頻繁に空けるわけにはいきません…そんな家光をいつの頃か家康自身が訪ねてくるようになりました。 それは夢の中、…家光の夢に出てくる家康を描いた『画像』と呼ばれる絵が残されています。 episode 3 家康が枕元に…家光の の加護を受けながら将軍としての政務を始めた家光…30代に差し掛かったばかりの三代目に様々な難題が振りかかります。 まずは、全国300の諸侯を如何に統制するか…家光の世になるや不穏な動きを見せる大名が現れます。 熊本・肥後52万石の大大名加藤家が謀反を働きかける文書を巻いたり、家光を侮蔑するような態度をとったりしたのです。 家光は悩みます…実質的に将軍になって間もないこの時期に、これを放置すれば幕府は瓦解しかねない…家光は加藤家を改易し、領地を取り上げるといった重い処罰を課します。 更に続けて家光は、全国の大名の改易に乗り出します。 家光が一代の間に取り潰した大名は、48家…一つ間違えば大きな反乱になりかねない難しい決断、家光は薄氷を踏むような思いで進めて行きました。 更に家光は、国内にとどまらない問題にも直面していました…それは、西洋諸国のアジア進出、とりわけ、スペインは宣教師とともに次々と植民地を築いていました。 インドのゴア、中国の、フィリピンのマニラなどを攻略、次は日本ではないかと国内では懸念が広がっていました。 …そんな折、家光に外国の脅威をまざまざと感じさせる大事件が起きます。 14(1637)年、…九州の島原やで重税と弾圧に対する人々の不満が爆発、を中心とする3万人がに立て籠もり、12万のと戦いました…戦闘は5ヶ月にわたり、双方合わせて4万人に近い死傷者が出る事になりました。 その後も西洋諸国との緊張した状態は続きます…幕閣の間では、アジアのの拠点、マニラに兵を送るという強硬意見も出るほどでした。 家光は、決断を迫られます…このまま西洋諸国と交易を続ければ脅威は広がるばかり、貿易を制限すべきなのか…しかし、一方、幕府ではこんな懸念も出ていました…がこれまでもたらしてきた生糸や絹織物はどうなる…重要な貿易ルートを断てば大きな損失ともなります。 国際社会での舵取りという困難な課題が若き三代目の背に圧し掛かっていました…。 19年~20年、更に江戸時代最大の大飢饉にも見舞われました…の飢饉、日照り、長雨、冷害などが重なって凶作が続き、多数の餓死者がでます。 農業政策を根本的に立て直さなければなりませんでした。 次々と苦難に直面しながら生来病弱だった家光は、頻繁に体調を崩すようになります…最近発見された家臣宛ての手紙の中で家光は、当時の苦しい胸の内を吐露しています。 この天下は 権現様がお骨を折られ 矛先でお治めになったものなのに 不肖なる身で後を継いでしまった事は 恐れ多いことで 何としてでも 天下が続き治まるように 朝夕工夫しているが あまつさえ近年は、病気になりがちで はかばかしく天下のまつりごとを 務めかねる こうした危機にあった家光に不思議な事が起こります…夢に祖父・家康が盛んに現れるようになったのです。 家光は、祖父の夢を見ると大変感謝し、ら絵師にその姿を描かせるようになったのです。 こうした画像は、20枚近く残されています…対外政策に苦しんでいたときや飢饉対策に頭を悩めていたときなど家康が夢の中に出てき、それを見た家光は、励まされたのです。 こうして祖父・家康の夢に励まされながら家光は、その後のの礎になる施策を完成させていきます…大名に国元と江戸とを一年おきに行き帰させる参勤交代、オランダと中国のみに長崎での貿易を認めた…幕府の権威を制度として形にしたもので200年続く太平の世の土台となりました。 慶安4(1651)年4月、家光は力尽きたかのようにで息を引き取ります…享年48…死ぬ間際まで脳裏にあったのは、と家康の事でした。 …家光は、こう言い残しています。 生涯 の神徳を仰ぐこと 並々ならず されば死後も 魂は日光山中に鎮まり 朝夕 東照公の御側近くに侍り 仕えまつらん その思いに従ってから500mのところに家光の霊廟が建てられました…大猷院(日光山 )です。 …とは異なり、過度な装飾は抑えられています。 死して尚、家康を立てようとしているかのようです。 その後の 最後に…家光が亡くなったあとには浮き沈みがありました。 窮地にあったは意外な人々に救われます。 家光の築いた礎の上に江戸の世は、安定への道を歩み始めた…家光の死後、半世紀、時代は元禄の世を迎えます。 家光が築いたが迎える最初の黄金時代でした。 家光が眠り猫に秘めた平和の願いどおり、その後大きな戦は一度も起きませんでした。 そんな太平の世出生まれた言葉が「日光を見ずして結構というなかれ」…豊かな世を象徴するものとしては人々の信仰を広く集めるようになりました。 しかし、幕末、6(1853)年、家光が築いたが破られます…黒船来航をキッカケに幕府は倒れ、明治の世が到来、そんな中、は送れた封建時代の象徴としてすたれていきます…修理の手も加えられなくなっていきます。 そのに再び光を当てたのは、外国人達(カ大統領、イギリス公使)…来日した外国人がを訪れ、緻密で壮麗な建築に衝撃を受けたのです。 「夢にも見ない美しい形と色彩」 「日本独自の芸術と思想」 家光の作り上げた建築は、日本文化の水準の高さを世界に知らしめたのです。 …外国人の増加に伴い、やがて日本人も訪れるようになり、日光は息を吹き返します。 観光する人の増加に伴ってそれまで一般の人が訪れる事の無かった近隣の畔も格好の避暑地として注目されるようになります。 やがてと紅葉とが結びつき日光は、世界に知られる観光地となっていったのです。 1999年には、歴史と芸術的価値が認められ、に登録…今も多くの人がその美を一目見ようとつめかけています。 日光を最初に訪れた外国人の一人は、こう言いました…「私はもう日光にいるのだから結構と言う資格がある」(イギリスの旅行家) 管理人お奨め記事 tabicafe.

次の

#2 惚れ薬を盛られる綾小路の話

よう 実 星之 宮

平成2年(1990年:開創990年)の「平成の大造営」により新たに竣工した御社殿は、上下に二つの拝殿を有する我が国初の重層社殿です。 昭和20年(1945年)7月7日の七夕空襲によって千葉の街は戦火に見舞われ、千葉神社も現存する手水舎を残して灰燼に帰しました。 氏子・崇敬者の方々の御浄財によって昭和29年(1954年)に木造の本殿は再建されましたが、都市計画整備による区画整理も伴って境内地が縮小されたこともあり、以前の威容を回復するまでには至りませんでした。 しかしながら、千葉大妙見の広大無辺なる御霊徳を求めて広く全国より来社される祈願者ならびに参拝者の方々が年々増加の一途をたどったことから、境内地の大規模整備に着手することになりました。 これに伴い昭和29年(1954年)再建の旧本殿は、境内西側に移築して天神様の祈祷殿とし、増加する受験合格祈願の方々のための御祈願を執り行うこととなりました。 平安末期・寿永元年(1182年)9月25日、千葉神社境内に勧請された学問の神様・菅原道真公を御祭神とする御社です。 千葉県内最大の天神様のお社であり、千葉神社の旧社殿であったことから妙見様の御神力も同時にいただけるとされ、その神紋・月星に由来しての「ツキ(月)を呼び、勝(星)を拾う」という縁起の良さが広く知れ渡るところとなり、年々参拝者・祈祷者が増加しています。 平成2年の「平成の大造営」において新社殿を造営する際、昭和29年再建の旧本殿は西側に移築して天神様の祈祷殿とし、増加する受験合格祈願の方々のための御祈願を専一に執り行うこととなりました。 公立・私立を問わず小学校・中学校・高等学校・大学・各種専門学校の入学試験の季節に伴って、10月~2月ごろになると千葉天神に昇殿しての受験合格祈願をお受けになるお子様が年々増加しています。 また職務上の安全を祈念される働き盛りの世代や就職を願う方々、またボケ封じを願う老年世代も多数おまいりされます。 天神様に関わる三大特殊神事• 境外末社として院内町・和田医院裏にある香取神社が、また境内には池の周りに14社の末社があります。 いずれもその勧請された年代は古く、中には中興開山の時の絵巻図に記されているものもあります。 1 香取神社 (かとりじんじゃ) 御祭神 経津主命 ふつぬしのみこと 勧請 885年(仁和元年)光孝天皇の御代 御神徳 地震除け、国土安泰 補足 場外末社(院内町・和田医院東奥に鎮座) 2 姥神社 (うばじんじゃ) 御祭神 妙見様の姥(乳母) 勧請 年代不詳(御本社の妙見様と同時期) 御神徳 子守り、子育て 3 星神社 (ほしじんじゃ) 御祭神 星香々背男神 あめのかがせおのかみ 勧請 1182年(寿永元年)9月22日 御神徳 厄除開運 4 石神社 (いしじんじゃ) 御祭神 磐長姫命 いわながひめのみこと 勧請 年代不詳(御本社の妙見様と同時期) 御神徳 寿命延長、身上安全 5 稲荷神社 (いなりじんじゃ) 御祭神 稲倉魂命 いなくらたまのかみ 【 又は宇迦之御魂神 うかのみたまのかみ 】、 保倉神 うけもちのかみ 【 又は大宜都比売神 おおげつひめのかみ 】、 稚産霊神 わくむすびのかみ 勧請 1179年(治承3年)9月19日 御神徳 商売繁盛、五穀豊穣 6 金刀比羅宮 (ことひらぐう) 御祭神 金山彦神 かなやまひこのかみ 、 大物主命 おおものぬしのかみ 【 又は大国主神 おおくにぬしのかみ 、大黒様 だいこくさま 】 勧請 1840年(天保11年)8月10日 御神徳 商売繁昌、縁結び、交通安全 7 西之宮 (にしのみや) 御祭神 事代主神 ことしろぬしのかみ 【 又は恵比寿様 えびすさま 】 勧請 1782年(天明2年)10月22日 御神徳 商売繁昌、安全豊漁 補足 兵庫県鎮座 西宮神社の御本社より勧請 8 八幡神社 (はちまんじんじゃ) 御祭神 誉田別命 ほんだわけのみこと 勧請 1181年(養和元年) 御神徳 勝運 補足 千葉常胤により鶴岡八幡宮より勧請 9 天神社 (てんじんしゃ) 御祭神 菅原道真公 すがわらのみちざねこう 勧請 1182年(寿永元年9月25日) 御神徳 受験合格、学業向上 10 日枝神社 (ひえじんじゃ) 御祭神 大山咋命 おおやまくいのみこと 勧請 1182年(寿永元年9月25日) 御神徳 家庭守護、健康良運 11 三峰神社 (みつみねじんじゃ) 御祭神 伊邪那美神 いざなみのかみ 勧請 1822年(文政5年)3月19日 御神徳 火防せ 12 神明社 (しんめいしゃ) 御祭神 天照皇大神 あまてらすすめおおかみ 勧請 1882年(明治15年) 御神徳 陽気授与、太陽神 補足 旧・横町より移転 13 御嶽神社 (おんたけじんじゃ) 御祭神 国常立尊 くにのとこたちのみこと 、 大山祇神 おおやまづみのかみ 、 瓊瓊杵尊 ににぎのみこと 勧請 1871年(明治4年)11月11日 御神徳 生活守護、衣食住 14 厳島神社 (いつくしまじんじゃ) 御祭神 市杵嶋姫命 いちきしまひめのみこと 【 又は弁天様 べんてんさま 】 勧請 1182年(寿永元年)9月25日 御神徳 福徳財宝、技芸上達、安産守護 15 美寿之宮 (みずのみや) 御祭神 水御祖大神 みずのみおやのおおかみ 勧請 2009年(平成21年)8月15日 御神徳 安産守護、延命息災 千葉神社の御祭神・北辰妙見尊星王様のお名前にある「辰」は、「天体宇宙」を意味し、また道教における「龍神」を意味しています。 また陰陽五行説によれば、妙見様の居られる北方は木火土金水のうち「水」が配された方角にあたり、妙見様と「水」とは古くから御縁の深い関係にあると伝えられています。 万物の恵の基であり、人間の生活に必要不可欠な「水」。 その水に関わる多くの龍神様・水神様を統治掌握する神様である水御祖大神(みずのみおやのおおかみ)様がお祀りされているのが「美寿之宮」です。 美寿之宮に参拝し、霊泉・延寿の井の水を一口頂く事で、各人に様々な寿(よろこび)が頂けるものと存じます。 右手にある「霊験赫灼(れいけんかくしゃく)」の碑は千葉県知事・多久安信の書です。 延寿の井.

次の