春野スヤ。 金栗四三と春野スヤはどんな結婚生活を送っていたの?

春野スヤの結婚の経緯は?離婚歴や子供など気になる生涯について調査!

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金栗四三の「家系図」と「子孫」 金栗四三の家系図を、わかりやすくご紹介いたします。 マラソンの父「金栗四三」は、1891年、酒造業者を営む「金栗家」に誕生。 男4人、女4人、合計8人兄弟の七番目、四男として誕生したのが「四三」でした。 一説によると「7人兄妹だった」とも言われているようですが・・・・八人という説もあり、はっきりわかっておりません。 父を早くに亡くした四三を育てたのは、長兄「実次」。 身体は弱いが勉強ができた四三には、特に目をかけたと言われています。 以下に金栗四三の家系図をご用意いたしましたが、細かい個人名と性別が判明しなかったため、このような形となりました。 お詫び申し上げます。 嫁「春野スヤ」・・仲間も知らなかった金栗の結婚! 1914年・・・・悪夢のようなストックホルム大会から2年がたった時、金栗は1916年開催の「ドイツ・ベルリンオリンピック」に向けて、練習を重ねていました。 そんなある日、金栗四三のもとに兄「実次」から、親戚が「四三」を養子にもらいたいと言っている、という手紙が届きます。 四三は兄に対して、「お兄さんにまかせます」と返事をしています。 「池部家」は裕福な資産家。 定職につくことなく、練習に専念できることとなります。 養母「幾江」は養子入りが済むと、四三に結婚をすすめはじめます。 お相手は「春野スヤ」さん。 1914年4月10日、四三は「春野スヤ」さんと、初めて顔をあわせます。 互いに惹かれ合うものがあったのか、二人は出会った翌日の「1914年4月10日」にいきなり結婚! これこそ「運命の出会い」というやつなのかもしれません。 大河ドラマ「いだてん」で描かれているような、幼馴染から結婚へ、という流れよりも、こちらのほうがよほど「運命」を感じさせてくれる気がします。 池部家の養子となったことで、「金栗四三」は「池部四三」と名前が変わりました。 しかし、池部家の義母の配慮により、そのまま「金栗」の姓を名乗り続けたのでした。 しかも結婚したにもかかわらず、いきなり妻と別居。 そのため、金栗の結婚は、一緒に練習していた友人ですら気が付かなかったほど。 その後2人は、熊本と東京で別居。 1916年「 ドイツ・ベルリンオリンピック」は、「第一次世界大戦」が原因で中止。 1920年「 ベルギー・アントワープオリンピック」で、金栗四三は「16位」。 1924年「 フランス・パリオリンピック」が「途中棄権」 金栗がマラソンを引退したところで、二人はようやく一緒に暮らし始めます。 二人は「6人」の子供に恵まれましたが、スヤは夫がいない間、1人で子供を育てています。 二人はその後も穏やかに夫婦生活を続け、金栗は「 1983年(昭和58年)11月13日」に「 92歳」で生涯を閉じるのでした。 金栗四三の妻「 春野スヤ」さんについて、詳しくは以下のリンク記事をお役立てくださいませ。 金栗四三の子孫が「オリンピック記念大会」に招待されていた! 金栗四三の「ひ孫」のお名前は「蔵土義明(くらと よしあき)」さん。 2012年の時点では「25歳」でした。 お仕事は熊本市内で会社員をしておられるようですね。 2012年7月14日、スウェーデン・ストックホルムで、ストックホルムオリンピックから100年の記念を祝し、「ストックホルムマラソン」と同じコースを走る「五輪100年記念マラソン大会」が開催されました。 その大会で、金栗四三の功績を讃え、「顕彰銘板」の除幕式も行われました。 そこに招待されたのが、「蔵土義明」さんです。 「蔵土」さんは、ストックホルムオリンピックのマラソンで倒れた金栗四三を介抱してくれた「ペトレ」家を訪問し、感謝を述べたとのことです。 引用元「公式チャンネル・KyodoNewsチャンネル」より 2018年11月、九州新幹線の新玉名駅の駅前に、金栗四三の銅像が完成。 除幕式には、金栗の娘3人が出席していました。 金栗が残した「オリンピック」結果一覧 金栗四三は生涯に「3度」のオリンピックに参加していますが、それらの「結果」はどんなものだったのでしょうか? 参加した順番に並べると、結果は以下の通りです。 ・「1912年スウェーデン・ストックホルムオリンピック」 結果「失踪(のちにゴールしたため、一時行方不明とされた)」 1967年に開催された「ストックホルム五輪55年記念式典」に招待され、そこでゴールテープを切る。 結果は「最下位・ 54年8か月6日5時間32分20秒3」 ・「1916年ドイツ・ベルリンオリンピック」 結果「第一世界大戦により大会が中止」 ・「1920年ベルギー・アントワープオリンピック」 結果「16位・タイム2時間48分45秒4」 ・「1924年フランス・パリオリンピック」 結果「途中棄権」 ストックホルム大会の記録「54年8ヶ月」は公式記録として、もっとも長い記録です。 金栗の「世界新記録」は本当だったのか? 「羽田で行われた『ストックホルムオリンピック選考会』で、金栗四三は当時の世界新記録を樹立したと話題になりました。 しかし、金栗がこのとき叩き出したタイムは、果たして本当だったのでしょうか?何かの間違いだったのではないでしょうか? 当時の世界新記録は 「2時間59分45秒」 対して金栗の記録は 「2時間32分45秒」 ちょうど「27分」も縮めたことになります。 果たして本当に金栗は「世界新記録」を「27分」も縮めるほどの走りをみせていたのか? 結論をいえば、「このタイムは間違い」だったと思います。 理由は4つあります。 1,「当時のマラソンの距離が、大会ごとに異っていた」 2,「直後の嘉納治五郎の発言が、間違いであることを示唆している」 3,「アントワープオリンピックでの金栗の公式記録が16位と、それほどでもない」 4,「予選会で金栗に敗れた2位3位の選手も、世界記録を破っている」 当時のマラソンは大会ごとに距離が異っていた 実は当時のマラソンは、大会ごとに距離が異っていました。 測量技術が乏しかったこともあるのでしょう。 たとえば「1896年アテネオリンピック」と「1920年アントワープオリンピック」では、実に「3キロ」以上もの差があるのです。 羽田予選会では「25マイル(40. 23km)」でした。 嘉納治五郎先生も、この「距離」については、「しっかりと細かく測量した」と自信をみせていました。 「日本人の驚くべき忍耐力を発揮したのだろう」とも言っていました。 しかし、オリンピックの公式大会ですら、大会ごとに距離が異っているのですから、当時の日本における予選会の距離が、どれほど正確であったのか、若干疑わしいのではないでしょうか。 「通常よりも極端に短い距離を走らせてしまった」という可能性が高いと思います。 または「途中で選手がコースを間違えた」なんて可能性もあると思います。 いずれにしても、距離を間違っていた可能性はかなり高いのではないでしょうか。 アントワープ五輪での金栗の記録が16位と、それほどでもない 金栗は、生涯に3度のオリンピックに出場しています。 「1912・スウェーデン・ストックホルム」 「1920・ベルギー・アントワープ」 「1924・フランス・パリ」 ストックホルム大会は「失踪」。 パリ大会では「途中棄権」、アントワープ大会では「16位」。 実は金栗、「アントワープ大会」でだけ、公式記録を残しているのです。 羽田の予選会前の世界記録が 「2時間59分45秒」(40. 23km) 1908ロンドン五輪記録が 「2時間55分18秒」(42. 195km) アントワープの金栗の記録は 「2時間48分45秒4」(42. 74km) 羽田予選会での金栗の記録が 「2時間32分45秒」(40. 23km?) これをみると、金栗が当時の「金メダリスト」よりも2km近く短く走っているとはいえ、それでも20分も縮める記録を残していることがわかります。 アントワープでは、1908年ロンドン大会より500mも多く走っているのに7分も縮めています。 それでもアントワープ大会では「16位」だったのです。 金栗が羽田予選会の当時、かなりの実力を持っていたことは事実でしょう。 しかし、「アントワープ」の大会記録をみると、それほど世界で抜きん出ているというわけではないと考えられるのです。 ちなみに金栗四三が「ストックホルム大会」で公式に残した記録は 「54年8ヶ月6日5時間32分20秒3」 もっとも長い公式記録として有名です。 以上、4つの点から考えても、おそらく「金栗四三が叩き出した世界記録」は、間違いだったのではないかと思います。 とはいえ、金栗四三が残したものは、世界記録よりも遥かに価値があるものでしょう。 その金栗が育てた日本のマラソン選手は、「鈴木房重」から始まり「重松森雄(福岡大学)」まで、実に5度も世界記録を更新しています。 「重松森雄」さんが1964年東京五輪「アベベ」の世界記録を更新したのが「1965年」です。 それから50年以上、日本はマラソンでの世界記録更新が出来ていません。 しかし「大迫傑」や「設楽悠太」などの人材も育ってきていますので、もしかすると「日本マラソン」が世界記録を更新する日も近いのかもしれません。 当初、金栗や嘉納治五郎ら「選手団」は、国に費用を負担してもらうはずでした。 ところが文部省が、突然費用負担を拒絶したのです。 もしかしたら、「日露戦争」で賠償金を取ることができなかったことなどが影響したのかもしれません・・・。 ストックホルムへの旅は、船やシベリア鉄道を利用して、およそ5ヶ月の予定。 必要となる費用は「1800円」。 現在の価値で「約500万円」。 一緒に参加する短距離走者「」は、父「」が「警視総監」、兄「」が「銀行頭取」がったため、金の心配はいりません。 しかし、落ちぶれた酒造業者出身の金栗に「1800円」という大金は、とても用意できる金額ではなかったのです。 そんな金栗を救ったのが、一緒に生活していた「寄宿舎」の仲間たち。 彼らは協力して「金栗四三後援会」を組織。 東京高師学校の卒業生らに協力を呼びかけ、なんと「1500円」もの大金を集めたのでした。 現在の価値で約「420万円」ほど。 残りの「300円」は、金栗の実兄「実次」が用意。 費用工面に協力してくれた100名以上の仲間たちに見送られて、新橋駅を出発した金栗。 必勝を誓って「スウェーデン・ストックホルム」へと旅立ったのでした。 実際には「3000円」ほどの巨費を持っていっていた・・・なんて説もあります。 巨額の費用を金栗が用意してくれなかったら、日本マラソンの今日はなかったかもしれません。 その後、金栗はアントワープオリンピックで16位。 パリオリンピックで途中棄権という結果を出します。 時は流れて54年8ヶ月後、スウェーデンから招待を受けた金栗は、「オリンピック55周年記念」のイベントに出席。 そこで、失踪に終わったマラソンのゴールテープをきることとなるのです。 タイムは 「54年8ヶ月6日5時間32分20秒3」 盛大な拍手に迎えられた金栗四三は、こんなコメントを残しています。 「長い道のりでした。 この間に孫が5人できました」 ストックホルムでは、「消えた日本人ランナー」として、今も金栗四三は人々に記憶されているのです。 そんな金栗四三さん、日本でおなじみとなっている「グリコ」のロゴになっているという噂があります。 大阪道頓堀に大きく飾られている「マラソンのゴールシーン」をイメージしたロゴ看板は有名ですよね。 「グリコロゴ」は「金栗四三」がモデルである、という噂について、詳しく調査いたしました。 よろしければ、以下のリンク記事をお役立てくださいませ。 『金栗四三』について、「ひとこと」言いたい! 毎年、お正月に開催される「箱根駅伝」 「箱根から世界へ」という言葉が表すとおり、「箱根駅伝」で活躍した選手は「世界選手権」や「オリンピック」などの大会に数多く輩出されています。 この「箱根駅伝」の開催に力を尽くしたのが金栗四三なのです。 箱根駅伝で最も活躍した選手に贈られる賞は「金栗四三杯」と呼ばれ、「今井正人」「柏原竜二」「佐藤悠基」「神野大地」など、数々の名選手に贈られています。 金栗四三がいなかったら、お正月の風物詩として、視聴率30%を記録し、沿道を観客で埋め尽くす「箱根駅伝」は誕生しなかったでしょう。 金栗四三は、記録を残すことはできなかったかもしれませんが、日本のマラソンランナー育成への貢献は、計り知れないものがあると思います。 そして、その穏やかな人柄もまた、現代まで金栗四三が愛される理由なのかもしれません。 まとめ 本日の記事をまとめますと• 金栗四三の子孫、「ひ孫」の「蔵土義明」さんが、現在「熊本市内」で会社員をしておられる。 ストックホルムオリンピックで失踪した「金栗四三」は、55年記念イベントでゴールし「長い道のりでした。 その間に孫が5人できました」と名言を残した。 100周年記念大会で、ひ孫の「蔵土義明」さんが、金栗四三を介抱してくれた「ペトレ家」を訪問した。 以上となります。 本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。 よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。 ありがとうございました 「いだてん」関連記事 よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。 これらの記事でも大河ドラマ「いだてん」登場人物の「逸話」や「功績」を簡単に理解できるように、極めてわかりやすく解説させていただいております。 「田畑政治」関連記事.

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春野スヤの結婚の経緯は?離婚歴や子供など気になる生涯について調査!

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いだてん春野スヤはバツイチ? スヤは地元熊本の女学校を卒業後、両親が持ってきたお見合い話をきっかけに重行(高橋洋)と結婚をします。 重行は名家・池部家の跡取り息子でした。 スヤは成長してもなお四三のことを好いていましたが、現代とは違い、親がお見合い話を持ってきたら嫌でもそのお見合いを受けなくてはならない時代です。 スヤは自分の恋心を秘め、重行と結婚することになるのです。 しかし、重行は元々病弱な体質だったので病死してしまうのです。 表現としては「バツイチ」よりも「死別」のほうが合うかもしれないですね。 みなさん! 第2回ご覧いただきありがとうございました。 天真爛漫で太陽のような。 と出会うシーンのロケ地は熊本県美里町の。 しかし、父親(田口トモロヲ)が病弱だったため、その造り酒屋は父親の6代目で廃業してしまい、裕福とは程遠い生活を送っていました。 四三は熊本の山奥にある農村に住んでいたので、小学校へは毎日片道12kmの道のりを、中学校では寮に住んでいたので、週末の実家帰省のたびに片道20kmを走っていたのです。 8人兄弟だった四三は、家族に負担をかけまいと、中学校卒業後は授業料がかからない海軍兵学校を受験するのですが、角膜炎のため不合格になってしまうのです。 そして、東京の東京高等師範学校(現・筑波大学)へ進学するのです。 ここで喜納治五郎(役所広司)と運命的な出会いをするのです。 彼は言わずと知れた柔道の父ですが、当時は四三の通う東京高等師範学校の学校長をしていました。 喜納治五郎のモットーが、「知育、徳育、体育の三育」でした。 要は「文武両道」ですね。 そのモットーにより、学校では年に2回マラソン大会が行われていました。 そのマラソン大会で1年生だった四三は、上級生に1位、2位は譲ったものの、1年生としてはトップの3位でゴールし、2年への進級とともに徒歩部(陸上部)へ入部したのです。 喜納治五郎は、学校長であると同時に国際オリンピック委員会(IOC委員会)にも選出され、1912年のストックホルムオリンピックへの日本人参加を強く求められていました。 ストックホルムオリンピックへの出場権をかけた予選会で四三は見事優勝し、念願のオリンピック出場が果たされるわけですが、土壇場で金銭面の補助を約束していた文部省がその約束を断るのです。 ストックホルムへの渡航費用おおよそ1800円(現在の価値にすると約500万円程度)。 四三には当然工面できません。 そこで、兄・金栗実次(中村獅童)に渡航費用を工面してほしいという文書を送ったのです。 有難いことに実次は田畑を売ってでも工面する。 と言ってくれたのですが、更に有難いことが起こったのです。 四三がオリンピックに出場するという話を聞きつけた郷土の先輩・福田源蔵が「金栗四三後援会」を立ち上げたのです。 そこで渡航費用の寄付活動をはじめました。 すると瞬く間に1500円が集まったのです。 この後援会のおかげで実次が工面するのは300円で済んだのです。 その300円も名家・池部家に嫁いだスヤが工面してくれるのです。 地元の仲間とスヤのおかげで四三は念願のオリンピックに出場できたのですね。 オリンピック出場を固辞する の心を動かした の言葉とはー。

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春野スヤの結婚の経緯は?離婚歴や子供など気になる生涯について調査!

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放送予定: 2019年1月より(全47回)• 作:宮藤官九郎• 音楽 :大友良英• 制作統括:訓覇 圭、清水拓哉• プロデューサー:岡本伸三、吉岡和彦(プロモーション)• 戦争、復興、そして…平和への祈り。 スポンサーリンク 綾瀬はるかさんが演じる春野スヤとは? それでは、綾瀬はるかさんが演じる「春野スヤ」についてみていきましょう。 春野スヤは 実在した人物です! 金栗四三との出会い 1912年(明治45年)ストックホルムオリンピック・・・ 日本で初めてオリンピック初参加を果たしたのが金栗四三です。 金栗四三は次の第6回ベルリンオリンピックに向け、東京高等師範学校に復学し学ぶかたわら、自らのマラソンのトレーニングはもちろん後輩への始動も本格的にはじめました。 その頃、四三の叔母に当たる池部幾江から、 池部家に養子縁組の話が持ちかかります。 幾江が嫁いだ池部家は、熊本県小田村の大地主でした。 ところが跡取りがなく、夫にも先立たれてしまったのです。 四三は、ベルリンオリンピックの練習に支障がなければ問題はないと考え、東京に残ることを条件に養子縁組を受け入れます。 その際、ついでに嫁を探し結婚させようと、 幾江のおめがねにかなったのが 春野スヤだったのです。 大河ドラマ「いだてん」では、スヤは四三の幼なじみという設定です。 city. tamana. 実兄・金栗実次もスヤのことを大変気に入り、幾江とともにすぐにでも見合いにすっかり乗り気だったのです。 ところが当の本人である四三はマラソン一筋! しかも師範学校の学生の身ではと、今すぐに見合いをすることを断ります。 そして1914年(大正3年)3月、師範学校を卒業した四三は、東京高等師範学校研究科へ進学。 愛知一中への赴任要請を断り、東京でマラソン一筋の道を選択したのです。 そして、一時故郷の熊本に帰った四三は 約束通り、スヤとお見合いをします。 お互い初対面だったにも関わらず、惹かれあったのでしょうか・・・ なんと! 見合いのの 翌日には結婚式を挙げたのです! スヤは四三のマラソンにかける思いを理解していました。 見合いの席でもその思いを四三に語ったといいます。 このことが、これほどまでのスピード結婚につながったかはわかりませんが、四三にしてみたら自分のマラソンに対する情熱を理解してくれることこそが、妻となる人への条件だったに違いありません。 そして、結婚式から5日後、スヤを熊本に残し単身東京へ戻りマラソンのトレーニングを開始します。 池部家は資産家だったので、四三はマラソンに専念できたそうです。 遠距離生活で支えた5年間 結婚してから 5年間、ふたりは別居状態でした。 その間はもっぱら、スヤが東京に会いにいっていました。 そして1916年、あれほどまでに熱く目指したベルリンオリンピックは 第一次世界大戦により中止されてしまいます。 四三は悔しいながらも、次のアントワープオリンピックに目標を切り替え、ひたすらマラソンのトレーニングに励みます。 アントワープに出発する直前、夫の準備を手伝おうと上京したスヤでしたが、そんなスヤに四三は「故郷も妻も忘れ、祖国のために走ろうと思っているから気を散らさないでくれ」と言って、スヤを追い返したといいます。 マラソン一筋の夫に時として叱咤激励! アントワープオリンピックでの四三は、途中で足を痛め16位に終わっています。 帰国後、四三は東京女子師範学校で指者として女子体育の普及に尽力します。 そしてこの頃から、5年間離れて暮らしていた妻・スヤを東京に呼び寄せ、ようやくふたりでの 同居生活が始まったのです。 四三は、大正13年のパリオリンピックの後、現役を引退。 マラソン選手としての第一線から退いた四三は、指導者としての道を歩んでいました。 そして昭和6年、兄・実次の死をきっかけに 四三とスヤは熊本に戻り、池部家で幾江と共に暮らし始めます。 四三には、今までの実績が買われ全国の数多くの学校からの校長就任要請が集まったそうです。 しかし、四三は、これまで支え続けてくれた家族への恩返しのため、熊本に留まることを考えていたといいます。 ある日、四三が知人より「梨園の経営」を勧められたことがあります。 一度はその気になった四三でしたが、それを聞いたスヤは 、 「梨園の経営とは何事です。 あなたはマラソン一筋に生きることが自分の務めだと言っていたではありませんか!」 と 烈火のごとく 怒ったといいます。 そして四三は知人の勧めを断ったそうです。 その後、 四三は熊本のスポーツ振興や育成にに尽力し、スヤは生涯夫を支え続けたのです。 ふたりの間には6人の子供がいました。 スポンサーリンク 春野スヤ役に綾瀬はるかさん 大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」で春野スヤを演じるのが、女優の綾瀬はるかさんです。 綾瀬はるかさんと言えば、2013年に放送された大河ドラマ 「八重の桜」の主人公・新島八重を演じています。 1985年3月24日生まれ• 広島県広島市出身• 身長:165㎝• 血液型:B型• 所属事務所:ホリプロ 《主な出演作品》 テレビドラマ 「世界の中心で、愛をさけぶ」 「ホタルノヒカリ」 「JIN-仁-」 「八重の桜」 「今日は会社休みます」 「奥様は、取り扱い注意」 ほか。 映画 「僕の彼女はサイボーグ」 「ハッピーフライト」 「海街daily」 ほか。 2000年、ホリプロタレントスカウトキャラバンで審査員特別賞を受賞し芸能界デビュー。 2004年、ドラマ『世界の中心で、愛をさけぶ』のヒロインに抜擢。 2006年、シングル「ピリオド」で歌手デビュー。 オリコン初登場8位を記録。 2007年、ドラマ『ホタルノヒカリ』で連続ドラマ単独初主演。 2013年、 『八重の桜』でNHK大河ドラマ初出演&主演。 2013年、2015年にはNHK紅白歌合戦の紅組司会を務める。 オリコン調査の「恋人にしたい女性有名人ランキング」で5度の1位獲得!(2009年、2011年、2014年、2015年、2016年) 綾瀬はるかさん2度目の大河「今から楽しみ」 第1弾の豪華キャスト発表での、綾瀬はるかさんのコメントがこちら・・・ 「宮藤官九郎さんが脚本ことで非常にワクワクしています。 初めて共演する俳優やスタッフの皆さま、そして慣れ親しんだスタッフの方も一緒だということで、撮影が今から楽しみでなりません。 以前大河ドラマ(八重の桜)のスタジオ撮影の際、朝の入り時間がNHKの職員の方と同じだったので、自分も社員になったみたいで密かに楽しみでした。 」 少しはにかみながら、いつもの綾瀬はるかさんらしい口調でコメントされていました。 とはいえ、さすが大河ドラマ主演女優! コメントには余裕すら感じられますね。 まとめ 2019年NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」の主要人物の一人・春野スヤと、春野スヤを演じる綾瀬はるかさんについてまとめてきました。 金栗四三の妻・春野スヤは、夫のマラソン人生を支え続けた素晴らしい女性です。 このスヤを綾瀬はるかさんがどのように演じるのか楽しみですね。 ちなみに主人公の金栗四三役は 中村勘九郎さん。 四三の叔母であり、のちに養子縁組で母となる池部幾江役は、 大竹しのぶさんです。 近・現代史が大河ドラマになるのは、1986年三田佳子さん主演の「いのち」以来、実に33年ぶり! 2020東京オリンピックを迎えるにあたり、日本のオリンピックの歴史を知ることができるのは嬉しいことですよね。 漠然と楽しみにしているオリンピックの見方が変わるかもしれませんよ! 【関連記事】 【関連記事】 再放送&動画配信情報はこちら。

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