井川 慶 ノーヒット ノーラン。 無安打無得点試合 (ノーヒットノーラン)

井川慶氏 生番組でマスクマンに扮し全力投球、4人を“完封”トレンド上位にも登場― スポニチ Sponichi Annex 野球

井川 慶 ノーヒット ノーラン

井川がポツリ…「そういえばランナー1人も出してないですね。 まだ1本も打たれてないですね」 6回か7回が終わったあたりだったと、野口氏は記憶している。 飄々とした表情の井川が、ふと言った。 「そういえばランナー1人も出してないですね。 まだ1本も打たれてないですね」。 その一言に、面食らった。 「こいつはすごい。 こういう状況なのに、冷静に見ているんだなと」。 誰よりも地に足がついている姿が、何とも頼もしかった。 局面が変わったのは8回。 先頭の新井貴浩にフルカウントから直球を打ち返され、一塁手の関本賢太郎が打球を弾いた。 「ヒットかな」と思った野口氏は、固唾を飲んで電光掲示板を見つめる。 記録はエラー。 「ランプが『E』ってついたので、すごくほっとした部分はあった」。 マウンドの井川に、違いは特に感じられない。 そこで代打が告げられ、打席には前田智徳。 「一番怖いバッター」と警戒していたが、置かれた状況は悪くなかった。 1死一塁。 初球に要求した内角への際どい直球が逸れて死球に。 「結果的に逃げることに成功しましたね」。 そう野口氏は当時を振り返る。 2死一、三塁までピンチは広がったが、快音は許さなかった。 最終回もすんなり終わらない。 先頭の代打・木村一喜に四球を与え、不穏な空気が漂う。 試合は、7回に奪った虎の子の1点を守りきる展開。 被安打ゼロは続いていたが「ものすごくいい試合だったので、まずはこの試合を勝ちたいというのが第一だった」と野口氏は思っていたという。 その後、2死までこぎつけ、最後の打者は嶋重宣。 首位打者を快走し、当時のセ・リーグシーズン最多安打記録まで5本と迫っていた「赤ゴジラ」を迎えた。 「そろそろ(安打が)出るころかなというくらいに思っていました」。 野口氏には嫌な予感もあったが、18. 44メートル先から伝わってくるのは痛いほどの気迫。 「ものすごい顔をして、とんでもない力感で投げてくる。 最後の力を振り絞って立ち向かってくれた」。 渾身の直球で左飛に仕留め、マウンドにできた祝福の輪。 ナインに担ぎ上げられる井川の頭を、飛び跳ねてポンポンとたたいた野口氏は「終わったーよかったーと、いろんな意味で力が抜けました」と安堵感に満たされたという。 その余韻に浸ったまま、宿舎へ。 クールダウンでフィットネスバイクを漕いでいた井川に話しかけに行くと、さらりと言われた。 威力抜群の直球をはじめ好投手なのは言うまでもないが、魅力はそれだけじゃない。 「キャッチャーが出すサインの意図をしっかり考えてくれて、力の強弱をつけながらバッターを牛耳ってしまうピッチャー」。 8歳下の左腕に、あらためて恐れ入った。 野口氏自身にとっても、ノーノーは大きかった。 「周囲の目を引きつけることはできた。 いいアピールにはなったのかなと」。 マスク越しに焼き付けた鮮やかな記憶は、いつまでも色褪せることはない。

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梶岡忠義

井川 慶 ノーヒット ノーラン

経歴 [ ] からへ進学。 専修大学時代は4番エースとして、3年連続優勝に貢献した。 専修大学卒業時に阪神から声がかかったが、となりへ行くこととなる。 に満州から帰国し、発足した中央工業の野球部に入る。 翌にから勧誘されるが、阪神への義理を通し、自ら電話で阪神に連絡をとり、阪神に入団する。 監督から譲られた背番号「18」を背負い、の南海戦で初勝利を挙げると、1年目からに出場するなど、新人ながら(26勝)に次ぐ22勝を挙げ、1. 92はチームトップ(リーグ6位)となる大活躍で、阪神の戦後初優勝に貢献した。 2年目のにはの戦で9回2死からに初を打たれて惜しくもを逃すものの、で行われた初の公式戦であったの南海戦でついにノーヒットノーランを達成。 この時が初めて「ノーヒットノーラン」という言葉を使い、梶岡の快挙を報じた。 この年、リーグ最多の35に、にわずか1勝及ばなかったが2年連続20勝となる26勝を挙げる。 前年の酷使がたたってを痛め、は疲労から13勝に留まるが、同年のシーズンオフには痛めた肩の治療のためにへで出かけていたことが幸いとなり、の引き抜き騒動に巻き込まれずに済んだ。 その後も、12勝、13勝にとどまる。 にはに通算100勝となる白星を飾ると、3度目の20勝となる21勝に防御率1. 71をマークしてのを獲得するなど復活し、同い年の(初代ミスタータイガース・の弟)とともにダブルエースとして活躍した。 二軍投手コーチを兼任するが一軍登板はなく、同年シーズン終了後に引退。 投手として通算131勝を挙げた一方で、としても通算12を放っており、これは阪神投手陣(や藤村富美男ら兼任選手を除く)の中で歴代最高の本数である。 引退後は主に二軍投手コーチを務めた。 さらに、退団後も阪神タイガースOB会会長として毎試合のようにに通ったり、還暦野球などの活動を続けていた。 の第83回に孫の梶岡千晃(習志野高 - 中央大 - NTT東日本)が出場。 の被害を受け、に移り住んでいた梶岡は、に乗って孫の応援に駆けつけ、「習志野・梶岡、偉大なおじいちゃんの前で活躍」となどで報道された。 午前5時37分、のため死去。 82歳没。 人物・選手としての特徴 [ ] 性格は積極的で、ファイト溢れるプレーが身上。 「変化球なんか投げれるかい」と振りの早いから繰り出す一本で勝負したが、故障してからはアウトドロップと呼ばれた外角低めにコントロールされた鋭いを交えた投球に移行した。 その後も激しいプレーが多く生傷が絶えなかったが、「猛虎魂」の見本のような選手でなんかへっちゃらだと言われた。 また、同年代に活躍した藤村隆男に対しては強いライバル心を持っており、藤村が登板すると「負けてくれ」と思ったことさえあるという。 その一方で、最優秀防御率のタイトルを獲得した時の賞金で自分には、夫人にはをプレゼントしたという微笑ましいエピソードも残っている。 詳細情報 [ ] 年度別投手成績 [ ] 37 28 24 5 0 22 8 -- --. 733 1132 280. 1 204 6 109 -- 1 102 2 0 74 60 1. 92 1. 12 50 41 35 5 2 26 17 -- --. 605 1495 367. 2 325 20 97 -- 3 124 1 0 127 104 2. 54 1. 15 30 23 15 1 1 13 10 -- --. 565 816 190. 2 199 20 53 -- 0 91 1 0 101 84 3. 96 1. 32 29 19 13 2 1 12 9 -- --. 571 768 184. 0 173 24 62 -- 1 64 2 0 82 73 3. 57 1. 28 35 23 10 1 2 13 7 -- --. 650 775 180. 1 200 17 53 -- 6 62 2 0 88 69 3. 43 1. 40 38 27 20 3 3 21 8 -- --. 724 1014 257. 2 191 9 68 -- 4 75 0 0 61 49 1. 71 1. 01 40 33 18 3 3 16 13 -- --. 552 1007 250. 1 220 19 70 -- 6 80 0 0 95 84 3. 01 1. 16 31 27 5 1 1 8 11 -- --. 421 705 172. 2 171 7 41 -- 1 43 3 0 74 58 3. 02 1. 23 9 6 0 0 0 0 2 -- --. 000 152 36. 1 35 5 14 0 0 11 1 0 17 17 4. 14 1. 35 通算:9年 299 227 140 21 13 131 85 -- --. 606 7864 1920. 0 1718 127 567 0 22 652 12 0 719 598 2. 80 1. 各年度の 太字はリーグ最高 タイトル [ ]• :1回 (1952年) 記録 [ ]• 出場:1回 (1952年) 背番号 [ ]• 18 (1947年 - 1949年)• 1 (1950年 - 1951年)• 3 (1952年 - 1955年)• 32 (1956年 - 1957年)• 50 (1958年 - 1961年)• 66 (1962年 - 1964年) 脚注 [ ].

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【パワプロ2018】再現選手

井川 慶 ノーヒット ノーラン

経歴 [ ] プロ入り前 [ ] 出身。 大洗野球スポーツ少年団で野球をはじめ、小学生までは右投げだった。 高校時代も体のバランスをとるために右投げの練習は続けていた。 プロ入り後も、オフに帰郷するたび、自らの後輩である大洗の小中学生相手に野球教室を開いている。 3年春の県大会、対戦で、7回参考記録ながら18奪のを達成。 しかし夏はのためほとんど登板機会がなかった。 県大会決勝の対戦(水戸市民球場)に痛み止め注射をして登板したが、自らのミスなどで4点を失い敗退。 全国大会出場はなくとも一部では名前が知られており、・と並んで「高校生左腕三羽烏 」と呼ばれた。 2位でに入団。 担当スカウト菊地敏幸。 この時はも指名を一時検討していたが、先述の腰痛を理由に見送った。 高校では2級・3級の資格を取得している。 阪神時代 [ ] 2月28日。 高知・春野球場で「平成の怪物」のプロ入り後オープン戦初登板相手として登板する。 井川は制球に苦しみながら、の期待に応え、3回を無失点で終える。 5月2日の対戦()にで一軍プロ初登板を果たした。 5月7日の対戦()で4回にから初奪三振、5月19日の対広島戦()でプロ初登板し初勝利を挙げた。 は9試合に登板し、5試合で先発登板したものの、勝ち星はわずか1つしか挙げられずにシーズンを終えた。 は監督からに抜擢され、4月24日の対巨人戦(甲子園)でプロ入り後初勝利。 監督推薦によりの出場を果たした。 最終的にはリーグ2位の2. 67という成績を残したが、打線の援護がなく、チームも4年連続最下位で、9勝13敗と負け越した。 防御率2位での負け越しは1991年の以来であった。 は監督がに代わり、3月30日の対巨人戦()でを務め、3対1で完投、チーム12年ぶりの開幕戦勝利に貢献した。 夏場に調子を落としたが、初の2桁勝利となる14勝を挙げ、206奪三振でのタイトルを獲得。 同年にはオールスターゲーム(球宴)のファン投票でセ・リーグ先発投手部門にて初めて最多票数を獲得し選出されている。 も開幕投手を任され、黒星を喫したものの、6月・7月に4戦連続完投勝利を挙げ、8月2日の勝利で12連勝を記録。 連勝中はゲンかつぎとして髪を切らなかったため、約3か月間も髪を伸ばしっぱなしになりのような髪型になっていた。 なお同年にはオールスターゲームのファン投票でセ・リーグの先発投手部門にて2位得票ながら(2002年から2年連続で)当選したが 、これは1位得票・()が故障により出場を辞退したことによるものである。 詳細は「」を参照 2003年は最終的にセ・リーグでは1999年の(巨人)以来4年ぶりの 20勝投手となり、阪神を18年ぶりのリーグ優勝に導いた。 とのでは第1戦と第4戦に先発登板。 第1戦はダイエーの先発が井川と同じく同年20勝を挙げたが登板したことで、20勝投手同士の投げ合いとなった。 しかし5回3失点で降り、勝敗は付かなかった。 なおチームはサヨナラ勝ちしたが、最終的に日本一にはなれなかった。 同年オフまで快適という理由で長らく寮生活を続けていたが、退寮指令を受け、寮長の定年を節目に退寮。 寮では模範生で、途中からは若手の講師役にも指名されていた。 の対広島戦(広島市民球場)でプロ野球史上71人目となるを達成。 同年は前年より調子を落とし11敗を喫し、防御率も3. 73と悪化したが、14勝を挙げてチームのエースとしての役割を果たした。 オフにでのを希望したが、球団との交渉が決裂。 自費での参加となり、否定的な報道や一部世論の反発に遭った。 以降毎年オフに球団に対しポスティングによるメジャー移籍を希望することになった。 8月23日の対広島戦(広島市民球場)で1,000投球回を達成。 このとき井川が連続三振を奪った勢いで捕手のが記念ボールをスタンドに投げ込んでしまい、ベンチ前にほとんどの選手とコーチが出て受け取ったファンに頭を下げ、記念ボールを返してもらった。 同年は2軍落ちもあったが、13勝9敗防御率3. 86の成績で2年ぶりのリーグ優勝に貢献した。 ではと対戦。 第1戦の先発を任されたが、6回5失点で敗戦投手となった。 阪神投手陣は大きく打ち込まれ、ストレートの4連敗で日本一を逃した。 には5年連続2桁勝利を達成。 球団はそれまでの貢献を考慮して3年越しの希望であったメジャー移籍を容認したため、11月10日にポスティングによるメジャー挑戦を表明。 を代理人とした。 11月29日にが2,600万194(当時のレートで約30億円)で独占交渉権を得て落札した。 ヤンキース時代 [ ] 2006年12月27日に5年2,000万ドル(2011年まで毎年400万ドル)+出来高で契約。 ヤンキース時代 2月に結婚を発表。 4月7日の対戦()でメジャー初登板。 5回8安打4四死球2本塁打7失点で降板したが、その後ヤンキースが逆転したため勝ち負けはつかなかった。 4月18日の対戦(ヤンキー・スタジアム)で、6回5安打5奪三振2失点でメジャー初勝利を挙げるが、その後も投球フォームや制球が安定せず中継ぎへ降格。 4月28日の対戦では、先発投手が負傷降板した後リリーフとして緊急登板、6回を無失点に抑えてメジャー2勝目を挙げた。 この好投が認められて先発に復帰したものの、5月7日にに降格。 6月22日の試合でメジャー復帰したが、7月28日に2度目のマイナー降格。 9月22日の試合でメジャー再復帰し中継ぎとして登板。 25日には昇格後初めて先発し5回を0点に抑えたが、勝ち星はつかなかった。 結局この年は2勝3敗、防御率6. 25、1. 67と不振に終わったが、実力を評価する声は多く、「ヤンキース以外なら活躍できる投手」 、「ナ・リーグに行けば大化けする」との声も上がり 、が「年俸を全て引き継ぐ形で獲得したい」と積極的な姿勢を示したが、ヤンキースがポスティングの入札金の分担まで要求したため破談となった。 は前年の不振により開幕前から先発としての構想には入っておらず、では中継ぎとしての起用が続いた。 また、開幕前の大学生との練習試合では満塁本塁打を打たれるなど、出だしからつまずいて結果を残せなかった。 若手起用のため、開幕はAAA級で迎えた。 5月9日にメジャー昇格し、その日の対戦に先発したが、3回を11安打6失点で敗戦投手となり、15日にマイナー降格。 6月28日に再昇格し、対戦の9回に登板し、1回を無失点に抑えた。 しかしその翌日に再びのマイナー降格を通告された上、7月26日にはメジャー契約を解除され、から外れた。 本人は「メジャーリーグでローテーションを守れるピッチャーを目指して頑張りたい」と語ったが、結局この年はスクラントンで14勝6敗、防御率3. 45、WHIP1. 19の好成績を残し、3Aのベストナインに当たる「オールスターチーム」の左腕投手部門に選出されたものの、メジャーリーグでの勝ち星を挙げることはできなかった。 オフには過去の反省と今後のチーム編成について会見したGMのから「井川の獲得は失敗だった」とコメントされるなど厳しい評価が続いた。 キャッシュマンからは(メジャーに残る方策として)横手投げへの転向も示されたが、断ったという。 はスプリングトレーニングに招待選手として参加し、15回3分の1を投げて1失点だったが与四球率5. 35と四球が多く、3月23日にマイナー行きを通告され、2年連続で開幕をスクラントンで迎えた。 スクラントンでは前半戦は9勝4敗、防御率4. 04、WHIP1. 24の成績を残していたが、後半戦は1勝4敗、防御率5. 66、WHIP 1. 70と不調に陥った。 最終的にはチーム最多の10勝8敗、防御率4. 15、WHIP1. 41の成績を残したが、メジャーでの登板はなかった。 12月にはを申請中であることを明らかにした。 29日には地元紙の『』が掲載した「過去10年のニューヨークのプロスポーツ選手ワースト10」において1位に選ばれた。 もスプリングトレーニングに招待選手として参加したが、中継ぎとして2回3分の2を投げて失点5、防御率16. 87、WHIP1. 88と振るわず、3月13日にマイナーに降格。 スクラントンでは先発として10試合に先発し防御率3. 96、WHIP1. 24の成績を残したが、リリーフでは12試合の登板で防御率5. 00、WHIP1. 65と結果を残せなかった。 このシーズンもメジャーでの登板はなく、2年連続でメジャーの試合に出場することはなかった。 オフには前年に申請していたグリーンカードを取得し、ヤンキースとの契約終了後もMLBでのプレーを希望していることを明らかにした。 はキャンプからマイナーでスタート。 故郷の大洗町がで被災したことで3月14日に一時帰国したが20日に再渡米し、開幕はAA級で迎えた。 4月21日にはスクラントンでAAA級の対戦に先発するも、その試合以外はトレントンで5先発を含む11試合に登板し、6月12日にスクラントンに昇格。 当日AAA級の対戦に先発し、球団史上最多タイ記録となる73先発を記録した が、トレントンで故障者が続出したことに伴い17日にトレントンに再降格した。 26日にはスクラントンに再昇格したが、2試合に先発した後に再降格し、左ひじの張りで入りした。 8月中旬に復帰し、最終的にリリーフではマイナー通算10試合の登板で1勝0敗1セーブ、防御率1. 90、WHIP1. 01の成績を残したが、先発では同10試合の登板で2勝2敗、防御率4. 72、WHIP1. 57の成績に終わった。 MLBで成績を残せなかった要因として、球団側からの信頼度の低さと獲得の際の調査不足により、数度の失敗でチャンスを失ったことを挙げている。 井川の獲得は当時のヤンキースGM補佐のの強い推薦により実現したが、1年目のスプリングトレーニングでブルペンに入った際、エプラーはブルペン捕手に「どうだい? すごい球を投げるだろう」と聞いたところ、「故障をしているならわかるがとてもメジャーのレベルじゃない。 制球は最悪だ」と返される場面があった。 しかし井川本人はアメリカでの5年間について「(失ったものは)ないですね。 すべてが自分の血となり肉となってます」と語り、マイナー生活も悪いことばかりではなかったと語っている。 一方、メジャーで通用しなかったことについては2017年のインタビューで「井の中のかわずでしたね。 世界に出て、能力が高い選手もたくさんいて努力で埋まらない差が身に染みて分かりました。 メジャーで投げたかったですけど、すごく勉強になりました」と述べている。 上述の通り、2007年にはパドレスがトレードでの獲得に積極的な姿勢を示したことがあった。 また、2008年と2009年には日本の球団が獲得を打診したことがあり、その際にキャッシュマンは井川に「君の能力はメジャーリーグには適応しないというのが我々の評価だ。 日本の球団との取引はヤンキースの財政的な負担も軽くする」と井川に直接話したが、同時に「しかし君がヤンキースにいたいのならこのトレードを断ることもできる」とも伝え、結果的に井川は2度ともトレードを拒否した。 なお、5年間のマイナー通算成績は、107試合登板(うち先発83試合)で36勝25敗1セーブ、防御率3. 83、奪三振419だった。 オリックス時代 [ ] に阪神時代の恩師であるが監督を務めるへの入団を自身の公式サイトにて発表し、6年ぶりにNPB復帰が決まり。 背番号は阪神・メジャー時代と同じく「29」となった。 5月9日に一軍登録されると、同日の対戦()に、先発投手としての一軍公式戦へ2,032日ぶりに登板した。 しかし、4回表にへ2球目を投じたところ、右太股のを訴えて62球で降板。 7月11日の対戦で8回3安打1失点に抑え、2006年10月16日以来2,095日ぶりに日本で白星を挙げた。 7月26日の対楽天戦でも7回1失点で勝利投手となり、続く8月2日の対西武戦でも7回を無失点に抑えたが、この時に左脇腹を痛めてしまった。 その後は2試合連続で8失点し、8月16日に登録抹消。 8月31日に一軍復帰すると、2試合連続でを達成したものの敗戦投手となり、9月14日の対楽天戦で先発した際に左脇腹痛が再発して 1回限りで降板し、そのままシーズン終了となった。 結局、日本球界復帰初年度は12試合の先発で2勝7敗、防御率4. 65に終わった。 そして岡田もこの年限りで監督を解任された。 10月30日にはオリックス移籍前から違和感を持っていた左肘の遊離軟骨と骨棘の除去手術を受けた。 は術後リハビリ中も腰に違和感を抱えるなどもあり復帰は5月末であったが、そこから8月頭までの9試合に先発し、勝敗こそ3勝3敗の五割だったが防御率2. 59の成績だった。 8月に二軍落ちをして以降はチーム事情も重なり一軍復帰はなくシーズンを終えた。 はオープン戦で結果を残し、開幕ローテーション入りを勝ち取った。 その後異例の中3日で4月3日の対楽天戦に先発し、5回無失点で勝利投手となった ものの、を機に先発投手の頭数の関係で5月に登録抹消されると、ルーキーのや井川と同じ先発左腕ののローテ定着もあり、以後一軍での登板はなかった。 オフには、同じくマイナーリーグから復帰しオリックスと契約したへ「経験を伝えられることもあると思う」と橋渡し役を買って出た。 には、一軍公式戦での登板機会がなく、の公式戦でも0勝4敗、防御率14. 40と不振を極めた。 シーズン中の6月頃から食事療法に取り組んだ結果、2ヶ月間で体重を約12kg減らした が、10月2日に球団からを受けた。 オリックス退団後 [ ] 「アメリカからの帰国後では一番いい状態」として 、現役続行を模索。 2015年11月10日にで開かれたには参加しなかったが、NPB他球団以外のプレーも視野に、代理人に交渉を任せながら自主トレーニングへ専念していた。 2月からは、独立リーグの(BFL)に加盟するの練習に参加。 井川自身は9月に、公式ブログを通じて「ブルーサンダーズの試合で登板できる機会を頂戴できれば」という意向を示した。 参加は、阪神時代にトレーニングコーチだった(当時コーチ、2017年より監督)からの誘いによるものだった。 しかし、正式な契約に至らなかったため、シーズン終了まで実戦登板の機会はなかった。 独立リーグ・兵庫時代 [ ] 2016年12月15日付で、兵庫との選手契約を正式に締結した。 阪神、ヤンキース、オリックス時代と同じ背番号 29となった。 この時点ではオープン戦や練習試合のみ出場できる練習生契約で、体調などが整った場合にリーグ戦に出場できる本契約へ移行することが想定されていた。 同月22日に臨んだ記者会見では、「1年間ずっと練習してきたので、野球に対する思いはまだまだ残っているが、(NPBへの復帰など)先のことはまだ考えていない。 まずは、(兵庫の選手としてリーグ戦で)1シーズンしっかり投げられるように身体を仕上げたい」との抱負を述べた。 には、3月31日付で、兵庫と支配下選手契約を結んだことを発表。 4月には、2日のリーグ開幕戦で救援投手として2年振りの公式戦登板を果たすと、先発投手として臨んだ20日の試合では6回無失点の好投でBFL初勝利を記録した。 その一方で、6月には「何とか、もう一段階(レベルを)上げて、自分の球を投げて、気分よく終わりたい。 1年間しっかり投げて納得いく形になれば、潮時かなと思っています」という表現で、この年限りで現役生活を終える可能性を示唆していた。 結局、BFLの公式戦全体では、11勝0敗、防御率1. 09、94奪三振という好成績をマーク。 2年間のブランクを感じさせない投球で、最多勝利・最優秀防御率・最多奪三振のタイトルを獲得した。 10月5日には、兵庫の一員として、で阪神二軍との練習試合に先発。 3回を投げて1被安打1失点という内容で、古巣のマウンドを後にした。 なお、試合後には「やりきった感はあります」とのコメントを残す一方で、自身の去就については「すべて終わってから考えようと思います」として明言しなかった。 シーズン終了後の11月27日、契約満了となる11月30日をもって兵庫を退団することが発表された。 発表に付されたコメントで、「このまま引退という事は考えておらず、現役は続行するつもりで一旦休養に入りたい」と述べるとともに、今後も「何らかの形」で兵庫に関係する意向を示している。 兵庫退団後 [ ] 2018年7月にの『』(特捜! 激撮! 張り込みマネースコープ)で、現在の年収は「0円」で、現役復帰を目指しトレーニングを続けているとされた。 またでは、現状を「休養」と述べ、兵庫の選手とのトレーニングを継続していることを明らかにし、兵庫を退団した理由は「独立リーグは若手の場所」という考えによるとした。 同年11月4日開催の兵庫OB戦で先発登板し、3回で6奪三振。 現役続行には「難しいかな」とコメントした。 2019年は東京ドームにて7月29日に開催されたプロ野球OBによるエキシビジョン戦「サントリードリームマッチ 2019」に「ドリームヒーローズ」の一員として参加し、先発投手として1回を投げ無失点。 試合後に更新された本人のブログで「これからも、自分に厳しくトレーニングに励んでいき、いつでも投げられる状態をキープし、またいつの日か、マウンドに立つことができればと願っています」と記し、復帰を目指しトレーニングを続けている旨を明かした。 のように落ちる 、が武器。 ヤンキース移籍後はやも投げるようになった。 ボールの威力自体はメジャーでもトップクラスとの評価を受けており 、2007年には「芯でとらえられる率(ハードヒット・アベレージ)」の低さがに次ぐチーム2位の. 196をマークした。 スクラントンでのチームメイトらは井川について「ビッグリーグで投げるべきピッチャー」 「上でやれる力はあっても、そういう機会に恵まれないことだってある」と語っていた が、から「四球が多いといった制球力の問題よりも、コースが甘くなることが最大の問題」と言われ 、またから「球は悪くない。 問題は制球力」と言われる ように、コマンド(狙ったスポットに投げる能力)の不足や日本時代から高かった被本塁打率の高さなどによりメジャー昇格を果たせなかった。 は、井川がメジャーリーグで苦しんだ原因としてチェンジアップの制球力を挙げている。 井川本人は「チェンジアップの浮き球は日本人はけっこうミスしてくれるんだけど、こちらの選手には良い確率で持っていかれてしまう」と振り返っている。 デーゲームを苦手としており、登板時はサングラスを着用する。 人物 [ ] コントロールが悪かった新人時代、当時の監督である野村より「の的に当てるイメージで投げろ」とアドバイスを受けた。 自らもダーツボードを購入している。 オフシーズンは自主トレの一環として茨城県内の大会に参加している。 の一面もあり、2012年には『』の第16回 JAPAN WINNER'S CHAMPIONSHIPで関東ブロックのエリア大会を勝ち抜き全国大会に進出した。 、より、将棋親善大使を委嘱されるとともに初段免状を贈られている。 兵庫時代には、の本拠地のあるでBFLの試合が催される際に、神戸市の自宅から自家用車で片道2時間以上かけて球場へ通っていることを明かしていた。 年代は違うがとは実家が近く、小学校・中学校・高校すべて同じである。 詳細情報 [ ] 年度別投手成績 [ ] 球 団 7 3 0 0 0 1 1 0 --. 500 80 15. 1 23 1 13 0 1 14 0 0 11 11 6. 46 2. 35 9 5 0 0 0 1 3 0 --. 250 172 39. 1 36 5 19 1 0 37 7 0 19 19 4. 35 1. 40 29 28 3 2 0 9 13 0 --. 409 829 192. 0 174 11 89 6 3 171 6 0 76 57 2. 67 1. 37 31 29 8 4 2 14 9 1 --. 609 830 209. 2 163 15 53 1 7 206 8 0 63 58 2. 49 1. 03 29 29 8 2 3 20 5 0 --. 800 839 206. 0 184 15 58 3 3 179 5 0 72 64 2. 80 1. 17 29 29 6 3 1 14 11 0 --. 560 840 200. 1 190 29 54 0 6 228 5 0 95 83 3. 73 1. 22 27 27 2 1 1 13 9 0 0. 591 749 172. 1 199 23 60 0 1 145 4 0 91 74 3. 86 1. 50 29 29 8 3 2 14 9 0 0. 609 844 209. 0 180 17 49 3 6 194 4 0 77 69 2. 97 1. 10 14 12 0 0 0 2 3 0 0. 400 313 67. 2 76 15 37 1 4 53 5 1 48 47 6. 25 1. 67 2 1 0 0 0 0 1 0 0. 000 24 4. 0 13 0 0 0 0 0 0 0 6 6 13. 50 3. 25 12 12 0 0 0 2 7 0 0. 222 278 62. 0 64 5 31 0 2 36 3 1 35 32 4. 65 1. 53 9 9 0 0 0 3 3 0 0. 500 205 48. 2 48 2 15 0 2 41 2 0 15 14 2. 59 1. 34 8 8 0 0 0 2 2 0 0. 500 149 33. 0 37 4 12 0 0 28 0 0 17 14 3. 82 1. 48 :11年 219 208 35 15 9 93 72 1 0. 564 5815 1387. 2 1298 127 453 14 31 1279 44 1 571 495 3. 21 1. 26 :2年 16 13 0 0 0 2 4 0 0. 333 337 71. 2 89 15 37 1 4 53 5 1 54 53 6. 66 1. 2014年度シーズン終了時• 各年度の 太字はリーグ最高 タイトル [ ] NPB• :1回 (2003年)• :1回 (2003年)• :3回 (2002年、2004年、2006年)• セントラル・リーグでは、1972年までと2013年以降表彰 表彰 [ ] NPB• :1回 (2003年)• :1回 (2003年)• :1回 (2003年)• :3回 (2002年4月、2003年6月、2003年7月)• :1回 (2003年、捕手:)• :1回 (2003年)• 優秀:1回 (2001年)• MVP特別賞 (2002年 ) 記録 [ ] NPB投手記録• 初登板:1999年5月2日、対6回戦()、5回表に2番手で救援登板、1安打2四球1死球3失点で降板• 初奪三振:1999年5月7日、対6回戦()、4回裏にから• 初完投勝利:2001年4月24日、対4回戦()、9回1失点• 初完封勝利:2001年8月17日、対横浜ベイスターズ20回戦(横浜スタジアム)• 初セーブ:2002年10月12日、対広島東洋カープ28回戦()、8回裏に3番手で救援登板・完了、2回無失点• 初安打:1999年6月1日、対横浜ベイスターズ9回戦(阪神甲子園球場)、3回裏にから左翼へ二塁打• 初打点:2001年5月10日、対横浜ベイスターズ7回戦(横浜スタジアム)、7回表にから投手前スクイズ NPBその他の記録• 出場:3回 (2001年 - 2003年) 独立リーグでの投手成績 [ ] 14 1 11 0 0 1. 00 300 82. 0 43 1 18 0 94 2 0 11 10 1. 10 0. 74 通算:1年 14 1 11 0 0 1. 00 300 82. 0 43 1 18 0 94 2 0 11 10 1. 10 0. 各年度の 太字はリーグ最高、 赤太字はBFLにおける歴代最高 独立リーグでのタイトル・表彰 [ ] BFL• 最多勝利:1回 (2017年 )• 防御率1位:1回 (2017年 )• 最多奪三振:1回 (2017年 ) 背番号 [ ]• 29 (1998年 - 2008年、2012年 - 2015年、2017年) 登場曲 [ ]• 「」 脚注 [ ] []• 夢追い紀行. 2008年10月11日時点の [ ]よりアーカイブ。 2013年5月24日閲覧。 ヤンキース井川が地元で野球教室開催 2007年1月14日15時28分• Sponichi Annex 2011年10月27日 17:41• NPB. (NPB). 2020年3月2日時点のよりアーカイブ。 2020年3月2日閲覧。 NPB. 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