ブラック スワン。 ブラック・スワン

ブラック・スワン降臨│手嶋龍一オフィシャルサイト

ブラック スワン

米朝会談決裂 米国と北朝鮮は「今回は合意しないことで合意した」ということで、わが国から見ればまずは無難に終わったということだろうと思います。 ニュースを受けて、韓国株が大きく下落、日経平均も下げましたが短時間で消化する程度の問題だろうと思います。 それよりも、大きく変動することが確実な株式相場で、経済成長の鈍化がまず確実(=企業業績悪化懸念)で、その中でアメリカ株がいつ反落しても不思議でないくらいの値戻しを遂げたのに、日本株の戻りはいかにも鈍い、という現時点の日本株相場は何とも気持ちが落ち着かないことおびただしい、という状況です。 昨日であれば、わが国の1月小売業販売額、百貨店・スーパー販売額、鉱工業生産(速報値)など、いずれも「予想通り」芳しくない数字でしたし、夜10時30分に発表された米国の10-12月GDPも成長鈍化を示すものでした。 (いわゆる「バックミラーに移る光景ではありますが。 ) しかしながら、10-12月期米GDP成長率2. 6%は、予想(2. 2%)よりは「マシだった」ということなのでしょう、為替市場の反応は「ドル高・円安」、時間外の日経平均先物相場は「上昇」という反応でした。 とりあえず、現時点は「大きな変動を示す株式相場の中で、上を目指す戻り相場の局面にある」という認識でいいのかもしれません。 2019年3月期の決算を見てから動こう、と様子見の市場参加者も多いものと思われますが、買い方からすれば日経平均2万2千円超えの水準まではせめて今回の戻りで到達して欲しいものだと願っているでしょうね。 ブラック・スワンとグレー・リノ ブラック・スワン(黒い色の白鳥)とは、滅多に起きることはないが、起きると世界的に株価大暴落などをもたらす事象、を言うのだそうです。 よく例としてあげられるのが「リーマン・ショック」です。 一方、グレー・リノ(灰色のサイ)は、すでに目の前にある問題ながらその悪影響が無視されている問題点、を指すそうです。 サイは目の前にいつもいますが、普段はおとなしいので別に何の問題もない、しかし、いったん暴れだすと手がつけられない、ということで。 今例をあげるなら、次のようなものでしょうか。 1.中国の民間国有企業債務、不動産への過剰投資。 2.巨額に積みあがったCLO( Collateralized Loan Obligation、ローン担保証券、金融機関が事業会社向けに貸出をしている貸付債権を証券化した金融証券)。 (中国を含む)新興国への過剰な投融資、企業向けローン商品の積み上がり、などが現時点で見られる「グレー・リノ」というわけです。 特に、CLOについては、リーマン・ショック時の「サブプライム・ローン」を連想させますから、大きな懸念材料ではあります。 「例え」ですから、厳密な定義のある言葉ではないと思いますが、ロング・ポジションの市場参加者からすれば「いつも注意しておかなければならず、状況によっては非常に注意しなければならない事柄」ですし、ショート・ポジションで儲けよう、という市場参加者にとっては、それらによって相場が暴落する局面がいつ到来するか、そのチャンスをいつも考えている事柄、ということになるのでしょう。 私の感じですが、天変地異とか戦争勃発といったタイプでない「ブラック・スワン」は、「グレー・リノ」を原因として、政策ミスなど何らかの「人為的な失敗」によって起きる、ように思います。 つまり、誰にでも見えている「グレー・リノ」が少し動くと、その後ろに「ブラック・スワン」が居た、という感覚でしょうか。 例えば、リーマン・ショックの例ですと、ショックの1年以上前からサブプライム・ローンに関連した「グレー・リノ」現象がそこかしこに見られたものでした。 リーマン・ショックの半年前には米国でベアー・スターンズ社のJ. Pモルガン・チェイスによる救済があったりしました。 そして、リーマン問題が深刻化したとき、米議会が救済をためらうという大失策を犯して「ブラック・スワン」が現れたという図式だったように思います。 近い将来、「グレー・リノ」の背後の「ブラック・スワン」を目の当たりにすることがまたあろうかと思います。 いつも注意深くしている、または、その時は大きく儲けるチャンスだと思う。 どちらかになりたいものですよね。 2019年3月1日 証券アナリスト 松下律.

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ブラック・スワン[下]―不確実性とリスクの本質

ブラック スワン

戦時中ではないのだから過剰な自制は必要ないし、相互監視などもってのほかだけれど、逆にお気楽なユーチューブ・ラリーが続いているのも、いただけない。 仮にそれが「はげまし」の連鎖だとしても、自粛解除のあとはどうするのか。 きっとライブやドラマ撮影や小屋打ちが再開して、ふだんの平時に戻るだけなのだろう。 もっとも自粛中のテレワークはけっこう便利そうだったので、うまくリモート・コミュニケーションをまぜるだけになるのだろう。 思うに、ニューノーマルなんて幻想なのである。 その宿命を背負っているのは、なんといっても病院などの医事現場である。 感染治療も感染対策もたいへんだし、治療や看護にあたる従事者の心労も続く。 経営もしだいに逼迫していくだろう。 なぜこうなっているかといえば、原因はいろいろあるけれど、細菌やウイルスがもたらす疾病が「個人治療」だけではなく「人類治療」にかかわるからである。 人間一人ずつに対処して治療する。 これに対してウイルス対策は「究極要因」を相手にする。 いわば人類が相手なのである。 人類が相手だということは「生きもの」全部が相手だということで、人間も「生きもの」として見なければならないということになる。 これについては長谷川眞理子さんの『生き物をめぐる4つの「なぜ」』(集英社新書)という好著がある。 ゼツヒツの1冊だ。 進化医学では感染症の発熱を感染熱とはみなさない。 ウイルスなどの病原菌が生育する条件を悪化(劣化)させるために、われわれの体がおこしている現象だとみなす。 免疫系の細胞のほうが病原菌よりも高温性に耐性があることを活用して発熱をもたらしたのである。 だからすぐさま解熱剤を投与したり、体を冷却しすぎたりすることは、かえって感染症を広げてしまうことになりかねない。 ウイルスは血中の鉄分を減少させることも知られているが、これもあえてそういう対策を体のほうが選択したためだった。 「苦労する免疫」仮説を唱えて話題を呼んだ。 そういえば、かつてパラサイト・シングルといった用語をつくり、その後もフリーターや家族社会学について独自の見解を発表していた山田昌弘が、2004年に『希望格差社会』(筑摩書房)で、ネシーの「苦労する免疫」仮説をうまくとりあげていたことを思い出した。 いずれも大いに考えさせられた。 イーワルドはTED(2007)で急性感染症をとりあげ、「われわれは、細菌を飼いならせるのか」というユニークなトークを展開している。 イーワルドの言い分から今回のCOVID19のことを類推すると、武漢での飲料水や糞尿や補水がカギを握っていたということになる。 COVID19パンデミックの渦中の4月25日、HCU(ハイパーコーポレート・ユニバーシティ)第15期目の最終回をハイブリッド・スタイルで開催した。 本楼をキースタジオにして、80人を越えるネット参加者に同時視聴してもらうというスタイルだ。 リアル参加も受け付けたので、三菱の福元くん、リクルートの奥本くん、大津からの中山くんら、5人の塾生が本楼に駆けつけた。 さあ、これだけの参加者とぼくのレクチャーを、どういうふうにAIDAをとるか。 「顔」と「言葉」と「本」を現場と送信画面をスイッチングしながらつなげたのである。 まずは本楼で5台のカメラを動かし、チャット担当に2人(八田・衣笠さん)をあて、記事中継者(上杉くん)が付きっきりで事態のコンテンツ推移の様子をエディティングしつづけるようにした。 スイッチャー(穂積くん)にも立ってもらった。 かくしてハイブリッドHCUは、昼下がり1時の参加チェック開始からざっと7時間に及んだのである。 だからテレワークをしたわけではない。 ぼくは最近のテレワークにはほとんど関心がない。 当時はFAXもなく、オートバイで資料やダミーや原稿を運びあって、制作編集をしつづけたものだった。 最近のテレワークは適用機材の仕様に依存しすぎて、かえって何かを「死なせて」いるか、大事なことを「減殺しすぎて」いるように思う。 プロクセミックスとアフォーダンスがおバカになってしまうのだ。 テレビもネット参加の映像を試みているけれど、いまのところ芸がない。 はたしてうまくいったかどうか。 それは参加者の感想を聞かないとわからないが、ディレクターには小森康仁に当たってもらい、1週間前にラフプランをつくり、前日は映像・音声・照明のリハーサルもした。 こういう時にいつも絶対フォロアーになってくれてきた渡辺文子は自宅でその一部始終をモニターし、コメントしてくれた。 当日の現場のほうは佐々木千佳・安藤昭子・吉村堅樹が舞台まわしを仕切った。 安藤の胸のエンジンがしだいに唸りはじめていたので、この反応を目印に進めようと思った。 書物というもの、表紙がすべてを断固として集約表現しているし、それなりの厚みとボリュームもあるので、見せようによっては、ぼくの「語り」を凌駕する力をもつ。 けれどもやってみると、けっこう忙しく、目配りも届ききれず、自分が多次元リアル・ヴァーチャルの同時送受の浸透力にしだいに負けてくるのがよくわかった。 76歳には過剰だったのかもしれない。 まあ、それはともかく、やってのけたのだ。 すでに昨年10月から演劇ではこまつ座の座長の井上麻矢ちゃんが(井上ひさしのお嬢さん)が、スポーツからは昔なじみのアメフトのスター並河研さんとヘッドコーチの大橋誠さんが、ビリヤードからは大井直幸プロと岡田将輝協会理事が、文楽からは2日にわたって吉田玉男さんのご一門(3役すべて総勢10人余)が、そして茶道から遠州流の小堀宗実家元以下の御一党が(宗家のスペースも提供していただいた)、いったい稽古と本番とのAIDAにあるものは何なのか、いろいろ見せたり、話したり、濃ゆ~く演じてみせてくれたので、これをあらためて振り返るのはたいへん楽しかった。 たとえばベンヤミンやポランニーやエドワード・ホールだ。 ついでに最新刊の『日本文化の核心』(講談社現代新書)からのフリップも入れた。 とくに日本株式会社の多くが平時に有事を入れ込まないようになって、久しく低迷したままなので(いざというとお金とマスクをばらまくだけなので)、こちらについてはかなりキツイ苦言を呈してみた。 このことを前提にしておかない日本なんて、あるいはグローバルスタンダードにのみ追随している日本なんて、かなりの体たらくなのである。 そのことに苦言を呈した。 もっと早々にデュアルスタンダードにとりくんでいなければならなかったのである。 つまり地球生命系のアントロポセンな危機が到来しているということなのだが、そのことがちっとも交わされていない日本をどうするのか、そこを問うた。 ぐったりしたけれど、そのあとの参加者の声はすばらしいものだったので、ちょっとホッとした。 そのうち別のかたちで、「顔」と「言葉」と「本」を「世界と日本」のために、強くつなげてみたいものである。 RNAウイルスの暴風が吹き荒れているのである。 新型コロナウイルスがSARSやMARSや新型インフルエンザの「変異体」であることを、もっと早くに中国は発表すべきだったのだろう。 そのうえで感染症を抑える薬剤開発やワクチンづくりに臨んでみたかった。 せめてフランク・ライアンの『破壊する創造者』(ハヤカワ文庫)、フレデリック・ケックの『流感世界』(水声社)を読んでほしい。 千夜千冊ではカール・ジンマーの『ウイルス・プラネット』を紹介したが、中身はたいしたことがなく、武村政春さんの何冊かを下敷きにしたので(講談社ブルーバックスが多い)、そちらを入手されるのがいいだろう。 「自粛嫌い」のぼくも、さすがに家族からもスタッフからも「自制」を勧告されていて、この2週間の仕事の半分近くがネット・コミュニケーションになってきた(リアル2・5割、ネット参加7・5割のハイブリッド型)。 それはそれ、松岡正剛はマスクが嫌い、歩きタバコ大好き派なので、もはや東京からは排除されてしかるべき宿命の持ち主になりつつあるらしい。 そのうち放逐されるだろう。 学生時代に、このコンベンションに付き合うのは勘弁してもらいたいと思って以来のことだ。 下戸でもある。 だから結婚式や葬儀がひどく苦手で、とっくに親戚づきあいも遠のいたままにある。 たいへん申し訳ない。 レイ・ブラッドベリの家に行ったとき、地下室にミッキーマウスとディズニーグッズが所狭しと飾ってあったので、この天下のSF作家のものも読まなくなったほどだ。 これについては亡きナムジュン・パイクと意見が一致した。 かつての豊島園には少し心が動いたが、明るい改装が続いてからは行っていない。 格闘技はリングスが好きだったけれど、横浜アリーナで前田日明がアレクサンダー・カレリンに強烈なバックドロップを食らって引退して以来、行かなくなった。 ごめんなさい。 子供時代はバスケットの会場と競泳大会の観戦によく行っていた。 それは7割がたは「本」による散策だ(残りはノートの中での散策)。 実は、その脳内散歩ではマスクもするし、消毒もする。 感染を遮断するのではなく、つまらない感染に出会うときに消毒をする。 これがわが「ほん・ほん」の自衛策である。 ぼくとしてはめずらしくかなり明快に日本文化のスタイルと、そのスタイルを読み解くためのジャパン・フィルターを明示した。 パンデミックのど真ん中、本屋さんに行くのも躊らわれる中での刊行だったけれど、なんとか息吹いてくれているようだ。 デヴィッド・ノーブルさんが上手に訳してくれた。 出版文化産業振興財団の発行である。 いろいろ参考になるのではないかと思う。 中井久夫ファンだったぼくの考え方も随所に洩しておいた。 次の千夜千冊エディションは4月半ばに『大アジア』が出る。 これも特異な「変異体」の思想を扱ったもので、竹内好から中島岳志に及ぶアジア主義議論とは少しく別の見方を導入した。 日本人がアジア人であるかどうか、今後も問われていくだろう。 1月~2月はガリレオやヘルマン・ワイルなどの物理や数学の古典にはまっていた。 この、隙間読書の深度が突き刺すようにおもしろくなる理由については、うまく説明できない。 「間食」の誘惑? 「別腹」のせい? 「脇見」のグッドパフォーマンス? それとも「気晴らし演奏」の醍醐味? などと考えてみるのだが、実はよくわからない。 新型コロナウィルス騒ぎでもちきりなのだ。 パンデミック間近かな勢いがじわじわ報道されていて、それなのに対策と現実とがそぐわないと感じている市民が、世界中にいる。 何をどうしていくと、何がどうなるはかわからないけれど、これはどう見ても「ウィルスとは何か」ということなのである。 けれどもいわゆる細菌や病原菌などの「バイキン」とは異なって、正体が説明しにくい。 まさに隙間だけで動く。 ところがウィルスはこれらをもってない。 自分はタンパク質でできているのに、その合成はできない。 生物は細胞があれば、生きるのに必要なエネルギーをつくる製造ラインが自前でもてるのだが、ウィルスにはその代謝力がないのである。 だから他の生物に寄生する。 宿主を選ぶわけだ、宿主の細胞に入って仮のジンセーを生きながらえる。 ところがこれらは自立していない。 他の環境だけで躍如する。 べつだん「悪さ」をするためではなく、さまざまな生物に宿を借りて、鳥インフルエンザ・ウィルスなどとなる。 もっとはっきり予想していえば「借りの情報活動体」なのだ。 鍵と鍵穴のどちらとは言わないが、半分ずつの鍵と鍵穴をつくったところで、つまり一丁「前」のところで「仮の宿」にトランジットする宿命(情報活動)を選んだのだろうと思う。 たとえば一人の肺の中には、平均174種類ほどのウィルスが寝泊まりしているのである。 さまざまな情報イデオロギーや情報スタイルがどのように感染してきたのか、感染しうるのか、そのプロセスを追いかけてきたようにも思うのだ。 まあ、幽閉老人みたいなものだが、何をしていたかといえば、猫と遊び、仕事をしていたわけだ。 千夜千冊エディションを連続的に仕上げていたに近い。 木村久美子の乾坤一擲で準備が進められてきたイシス編集学校20周年を記念して組まれたとびきり特別講座だ。 開講から104名が一斉に本を読み、その感想を綴り始めた。 なかなか壮観だ。 壮観なだけでなく、おもしろい。 やっぱり本をめぐる呟きには格別なものがある。 ツイッターでは及びもつかない。 参加資格は編集学校の受講者にかぎられているのが、実はミソなのである。 ちょっと摘まんでみると、こんなふうだ。 赤坂真理の天皇モンダイへの迫り方も、大竹伸朗のアートの絶景化もいいからね。 イーガンや大澤君のものはどうしても読んでおいてほしいからね。 これらの感想について、冊師たちが交わしている対応が、またまた読ませる。 カトめぐ、よくやっている。 穂村弘『絶叫委員会』、原田マハ『リーチ先生』、上野千鶴子『女ぎらい』、畑中章宏『天災と日本人』、藤田紘一郎『脳はバカ、腸はかしこい』、ボルヘス『詩という仕事について』、松岡正剛『白川静』、モラスキー『占領の記憶・記憶の占領』、柄谷行人『隠喩としての建築』、藤野英人『投資家みたいに生きろ』、バウマン『コミュニティ』、酒井順子『本が多すぎる』、バラード『沈んだ世界』、堀江敏幸『回送電車』、アーサー・ビナード『日々の非常口』、島田ゆか『ハムとケロ』、ダマシオ『意識と自己』、荒俣宏『帝都物語』、白州正子『縁あって』、野地秩嘉『キャンティ物語』、ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡』、國分功一郎『原子力時代における哲学』、ミハル・アイヴァス『黄金時代』、ウェイツキン『習得への情熱』、江國香織『絵本を抱えて部屋のすみへ』、内田樹『身体の言い分』。 このへんも嬉しいね、アイヴァスを読んでくれている。 ぼくが読んでいない本はいくらもあるけれど、イシスな諸君の読み方を読んでいると、伊藤美誠のミマパンチを見たり、中邑真輔のケリが跳んだときの快感もあって、それで充分だよと思える。 もともとはモルフェウスのしからしむ誘眠幻覚との戯れなのだけれど、これを共読(ともよみ)に変じたとたんに、世界化がおこるのだ。 こんな快楽、ほかにはめったにやってこない。 満を持してのエディションというわけではないが(それはいつものことなので)、みなさんが想像するような構成ではない。 現代思想の歴々の編集力がいかに卓抜なものか、これまでのポストモダンな見方をいったん離れて、敷居をまたぐ編集、対角線を斜めに折る編集、エノンセによる編集、テキスト多様性による編集、スタンツェ(あらゆる技法を収納するに足る小部屋もしくは容器)を動かす編集、アナモルフィック・リーディングによる編集を、思う存分つなげたのだ。 かなり気にいっている。 なかでポランニーが「不意の確証」は「ダイナモ・オブジェクティブ・カップリング」(動的対象結合)によっておこる、それがわれわれに「見えない連鎖」を告知しているんだと展望しているところが、ぼくは大好きなのである。 鍵は「準同型」「擬同型」のもちまわりにある。 「世界は本である」「なぜなら世界はメタフォリカル・リーディングでしか読めないからだ」と喝破した有名な著作だ。 最後にキエラン・イーガンの唯一無比の学習論である『想像力を触発する教育』にお出まし願った。 この1冊は天才ヴィゴツキーの再来だった。 あしからず。 編集力のヒントとしては『情報生命』も自画自賛したいけれど、あれはちょっとぶっ飛んでいた。 『編集力』は本気本格をめざしたのだ。 ぜひ手にとっていただきたい。 あしからず。 ところが、気持ちのほうはそういうみなさんとぐだぐたしたいという願望のほうが募っていて、これではまったくもって「やっさもっさ」なのである。 やっぱりCOPD(肺気腫)が進行しているらしい。 それでもタバコをやめないのだから、以上つまりは、万事は自業自得なのであります。 来年、それでもなんだかえらそうなことを言っていたら、どうぞお目こぼしをお願いします。 それではみなさん、今夜もほんほん、明日もほんほん。 最近読んだいくつかを紹介する。 ジョン・ホロウェイの『権力を取らずに世界を変える』(同時代社)は、革命思想の成長と目標をめぐって自己陶冶か外部注入かを議論する。 「する」のか「させる」のか、そこが問題なのである。 同時代社は日共から除名された川上徹がおこした版元で、孤立無援を闘っている。 2年前、『川上徹《終末》日記』が刊行された。 コールサック社をほぼ一人で切り盛りしている鈴木比佐雄にも注目したい。 現代詩・短歌・俳諧の作品集をずうっと刊行しつづけて、なおその勢いがとまらない。 ずいぶんたくさんの未知の詩人を教えてもらった。 注文が多い日々がくることを祈る。 ぼくは鷲津繁男に触発されてビザンチンに惑溺したのだが、その後は涸れていた。 知泉書館は教父哲学やクザーヌスやオッカムを読むには欠かせない。 リアム・ドリューの『わたしは哺乳類です』とジョン・ヒッグスの『人類の意識を変えた20世紀』(インターシフト)などがその一例。 ドリューはわれわれの中にひそむ哺乳類をうまく浮き出させ、ヒッグスは巧みに20世紀の思想と文化を圧縮展望した。 インターシフトは工作舎時代の編集スタッフだった宮野尾充晴がやっている版元で、『プルーストとイカ』などが話題になった。 原研哉と及川仁が表紙デザインをしている。 最近、太田光の「芸人人語」という連載が始まっているのだが、なかなか読ませる。 今月は現代アートへのいちゃもんで、イイところを突いていた。 さらにきわどい芸談に向かってほしい。 佐藤優の連載「混沌とした時代のはじまり」(今月は北村尚と今井尚哉の官邸人事の話)とともに愉しみにしている。 ついでながら大阪大学と京阪電鉄が組んでいる「鉄道芸術祭」が9回目を迎えて、またまたヴァージョンアツプをしているようだ。 「都市の身体」を掲げた。 仕掛け人は木ノ下智恵子さんで、いろいろ工夫し、かなりの努力を払っている。 ぼくも数年前にナビゲーターを依頼されたが、その情熱に煽られた。 いろいろ呆れた。 とくに国語と数学の記述試験の採点にムラができるという議論は、情けない。 人員が揃わないからとか、教員の負担が大きいからとかの問題ではない。 教員が記述型の採点ができないこと自体が由々しいことなのである。 ふだんの大学教員が文脈評価のレベルを維持できていないということだ。 ラグビージャパンはよくやった。 予選リーグは実に愉快だった。 何度も観たが、そのたびにキュンキュンした。 堀江、松島、福岡には泣かされた。 これまでは力不足だった田村もよかった。 リーチ・マイケルのサムライぶりがやっと全国に伝わったのも嬉しかったが、こういうサムライは世界のラグビーチームには、必ず2~3人ずついるものだ。 リーチも田村もルークも姫野もイマイチだった。 CTBの中村のタックルとフルバックの山中の成長を評価したい。 5年ほど前は体が辛そうだった。 平尾とは対談『イメージとマネージ』(集英社文庫)が残せてよかったと、つくづく憶う。 あのときの出版記念パーティには松尾たちも来てくれて、大いに沸いた。 美輪明宏さんが「いい男ねえ」と感心していたのが懐かしい。 まさにミスター・ラグビーだったが、繊細で緻密でもあった。 「スペースをつくるラグビー」に徹した。 トップリーグよりも、冬の花園の高校生たちの奮闘を観てもらうのが、おそらくいいのではないかと思う。 ただし、カメラワークをもっとよくしなければいけない。 孫犁冰さんが渾身の翻訳をしてくれた。 『歴史与現実』という訳になっている。 孫さんは新潟と上海を行き来して、日中の民間外交に貢献している気鋭の研究者で、すばらしいコミュニケーターだ。 イシス編集学校の師範代でもある。 韓国語になった本が7冊になっているので、少々は東アジアと日本のつながりの一助を担ってくれていると信じるが、日中韓をまたぐこういう「言葉のラグビー」や「思想文化のまぜまぜアスリート」は、いまはまだからっきしなのである。 中国文化サロン、日本僑報社、日中翻訳学院、中国研究書店、日韓大衆文化セミナー、日中韓交流フォーラムなどの充実に期待する。 東方書店の「知日」という月刊雑誌ががんばってくれている。 、ムロディナウの『たまたま』に併せてタレブの『まぐれ』を紹介した。 同じくダイヤモンド社の本だ。 そのとき中身にはふれなかったけれど、『まぐれ』のサブタイトルには「投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか」と、帯には「ウォール街のプロが顧客に最も読ませたくない本!」と、煽ってあったのである。 著者のナシーム・ニコラス・タレブは、帯では「不確実性科学の大学教授にして、トレーダーの鬼才」というふうになっている。 あやしい経歴だが興味をそそる。 付け加えると、タレブはレバノンでギリシア正教の家に生まれ、ウォートンスクールに入った。 MBAを取得後、パリ大学、ニューヨーク大学で確率論のリスク管理応用を研究、デリバティブ・トレーダー兼クォンツとしても活躍した。 いまはMITに移っているらしい。 クォンツとは、不確実性を扱う数理モデルを金融データや金融商品に応用するプロ中のプロのことをいう。 それにしても、そんなトレーダーやクォンツを専門職とした大学教授が、よくも『まぐれ』(Fooled by Randomness)のような本を、鮮やかな構成と適度に乱暴な文脈で書けたと思う。 おまけにタレブは、ウォール街のトレーダーたちがしばしばバカ勝ちしたとしても、それはほとんど「たまたま、まぐれ」のせいだと理詰めで詰(なじ)ったのだ。 それが大当たりした。 さあ次の手をどうするのかとぼくも見ていたのだが、本書『ブラック・スワン』は前著を質量ともにはるかに上回る奔放なものになった。 もっと乱暴にもなった。 奔放、乱暴、おおいに結構だ。 そこに哀感がありさえすれば。 案の定、本書の献辞には「ブノワ・マンデルブロに捧ぐ」とあって、そこに「誰も彼もがローマ人の中にあって、マンデルブロは一人ギリシア人である」と付け加えているのが、泣かせた。 この著者、きっととんでもなく感受性が豊かな文芸の享受者なのだろう。 でも、何かのきっかけでトレーダーになったのだろう。 そのぶん、理屈で現実を支配しようとする連中が大嫌いなのだろう。 タレブの味方は、むろんラプラス()やベルヌーイやコルモゴロフではあろうけれど、同時にポオ()やボルヘス()でもあるようだ。 さて、本書で「ブラック・スワン」と呼ばれるのは、人のことではない。 集団でもない。 金融界や証券界のことでもない。 タレブが言いたかったことをあらかじめ一言でまとめれば、「人間には大きなランダムネスは見えないものだ、とくに大きな変動は見えないものだ」ということである。 ところがあの当時、金融証券業界のポートフォリオ・マネージャーやリスク・マネージャーたちは、その見えないはずのランダムネスをあたかも正確に織り込んだかのような確率計算書にして、たくさんの白鳥を大きなブラック・スワンにしてしまった。 トレーダーたちが金科玉条にした金融工学の半分は、実は白鳥に黒いペンキを塗ったニセ科学であったのだ。 左:一見増え続けるように見える時系列データを より大きなスケールで見た場合、 実際は線形モデルではない場合もありうる。 右:簡単にトレンドに適合するデータ。 きれいな線形モデルを描き、 予測を立てやすい。 そのことを、当時のトレーダー実務にもかかわっていたタレブが、苦(にが)みをもって自戒して、「まやかしの不確実性に惑わされるな」と言い出したのである。 それなら本書は業界告発書なのかといえば、まったくそういうものではない。 ベトナム戦争ややイラン・コントラ事件に携わった者たちだけが紡ぎ出せる展望がきっとあるように、リーマン・ショックに及んだ出来事から学べる者は、その渦中にいた者であり、失敗者であり、慚愧に堪えぬ者であることが少なくない。 そこには新たな展望に向けて這い出す者がきっといるはずなのだ。 エコノミストではあるが、日本では中谷巌()さんが、そういう一人だった。 もっとも本書の段階では、そういうせっかくの試みにとりくむニュートレーダーとしてのタレブの展望や方針は、まだまだ明確には出ていない。 タレブが言いえたことは、「世界は非対称に生まれ、いままた非対称に向かっている」という、そのことだけなのである。 そういう本書を読むには、さしあたって二つのことを理解しておいたほうがいい。 ひとつは、「社会はリスクを分離分担しあっている」ということ、もうひとつは、「リスクについてのわれわれの直観や思考は、もともとにはからっきし向いていない」ということだ。 かつて人類が原始的な生活を営んでいたときは、身体とその周辺事情を頼りにすべての判断をしていた。 どんな予測も判断もソマティックだった。 そういうときは身体や知覚にとって、変化することや新しいことが、すなわち衝撃的なことこそが、大事なことだった。 やがて社会がルールをつくり、国家が法によって現象の過剰や過小をコントロールするようになると、大事なことと衝撃的なことが分離されるようになった。 そのぶん、大事に守るべきことも別のものになり、別のところで守るようになった(たとえば貯金)。 つまりは、こうしてリスクが分断されたのだ。 以来このかた、現代社会というもの、リスクを分散管理するシステムがつくりあげた制度によって、かなり細部にわたるまで仕上がっているべきことを目標にした。 いまではコンビニの漬物にさえ消費期限のラベルが貼ってある。 消費期限のラベルは、メーカーと販売者とユーザーを区分けして、責任とリスクを同時(リアルタイム)に分担しあうための、つまりは消費者やユーザーに責任を負わせるための無責任なラベルなのである。 ベル型カーブと大数の法則 観察される平均値はサンプル数が増すとどんどん一つの値に集まり 全体がならされて不確実性は消えてしまう そのように不確実なリスクは分散され管理される 一方、古代も現代もまったく変わっていないものがある。 それはあいかわらずの欲望だ。 物欲も性欲もほとんど変わってこなかった。 そこで問題は、その変わらない欲望社会に向かって、リスクを分担しないでもすむシナリオなど書けるのかということだ。 また、そんな今日の社会で、「満足度」や「安心」や「安全」を証明したところで、何になるのかということだ。 とっくにジョルジュ・バタイユ()や松本清張()が暴いていたことである。 次に、線形と非線形ということだが、これについては自分と社会との関係、あるいは「自分から発するもの」と「状況がもたらすもの」との関係で見るといい。 その見方からすると、われわれは非線形的な関係で価値を感じるようになっていて、実は線形的なことは不得意だったはずだということになる。 もともと非線形な関係は日常生活では、いくらでもあらわれる。 喜びと水を飲む関係は、苦しいくらい喉が渇けばコップ一杯の水でもおいしいし、プールに入っていたり滝に打たれていれば水なんて飲みたくなくなっていく。 日常生活では、いつも質(定性)と量(定量)とは相対的で、説明がつかないような非線形的な関係になっている。 これに対して、「銀行に預けた金を10パーセントふやせば金利による収入が17パーセントふえる」といったことは、ずいぶん非日常的で、はなはだ線形的なのである。 だから水を飲んで喜びに浸れるという現象と、預金と金利の関係などということは、まったく別々に感じる(知る)べきことなのだ。 ところが、この二つを巧みに結びつけて、幸福感と金儲けをつなげるビジネスが大手をふって世の中を賑わせることになったわけである。 それでも世の中しばらくは、銀行利子とギャンブルとはまったく別のコースウェアで用意されていて、「自分から発するギャンブル」と「状況がもたらす銀行利子」とは截然と分かたれていた。 けれども、どうか。 これがしだいに混じってきた。 さらには、「状況がもたらすもの」としてのランダムネスがそこに加わるようになってきた。 いや、そういうフリがまかり通ることになった。 それを派手に喧伝したのが金融商品や金融派生商品(デリバティブ)を巧みに売りに出す連中だったのである。 リスク・ヘッジなどという、とんでもない魔法を使いだし、線形を非線形の計算でまぶし、非線形な生活の中に線形をもちこんだ。 そこには投資ユーザーが責任を負う消費期限のラベルが貼ってあった。 本書には、確率論や統計学の記述はほとんど出てこない。 そのぶん巻末にシャレた用語集と注解がついていて、「ベル型カーブ」(ガウスの正規分布)だの「中心極限定理」だのを数行ずつ説明をしているのだが、これは不親切である。 もっともタレブはすでに『まぐれ』を読んだであろう読者を想定しているようで、専門用語からタレブ自身もできるだけ自在になって、好きな文脈で本書を書きたかったのだろうと思われる。 というのも、本書の前著『まぐれ』ではすでに所得や資産のこと、ポートフォリオのリターンのこと、本の売上げといった集計量を予測したいなら、ガウス流のベル型カーブによる分布を使うのはやめなさい、それではまちがいばかりがおこるという暗示的結論を示していたからだ。 ガウスとベル型カーブが印刷された最後の10ドイツマルク札 では、タレブは本書の中で最終的に何が示したかったかというと、のフラクタル分布に戻りなさいと言いたかったのである。 それをタレブは「マンデルブロ的ランダムネス」と呼んでいる。 マンデルブロの幾何学は、現象が「でこぼこ」で「こなごな」の世界のためにつくられた。 そのため、フラクタル分布では、現象の大小や変遷にかかわりなく、そこに自己相似性があらわれることになった。 これではブラック・スワンはつくれない。 どの部分も全体の特色を投影しているからだ。 それがフラクタルという特色なのである。 ガウス分布と違って世界を測る比率が一定なのだ。 タレブはそこが気にいったわけである。 そうだ、富がスケールに対して自立できるのかもしれないという見方が、ここにあったじゃないか、これならブラック・スワンはつくれまい、というふうに。 純粋にフラクタルな統計量に現れる山の例 統計的自己相似世界では その特質があらゆる格差(凹凸)に現れる ふりかえって、これまでウォール街のアナリストがやってきたことは、バックテスト用のプログラムを使って、過去のデータベースの数字を並べ替えて目的に応じてあてはめていくというデータ・スヌーピングを作成してみせることだった。 そのうえで、その計算グラフを抱えて企業に乗り込み、企業が杜撰につくってきた会計を打倒する。 こういうことにはアナリスト(とくにMBAの取得者)は徹底的に訓練されている。 しかし、経済社会のランダムネスを考慮するようなことは、まったく訓練されてはいないし、その価値観を保持することもできないだろうと、タレブは自戒をこめて告白している。 相手企業の数字をまず1回目に増益に変えさせ、それを3度つづけて出させてみせることだけ、ただそれだけがミッションなのである。 そのあとは、どうなってもかまわない。 トレーダーとはそういうものなのだ。 そこには真の金融市場のランダムネスと闘っているという姿は、まったくといっていいほどない。 こんな事情の上にトレーダーやクォンツが成り立っているのだとしたら、これはとんでもないが悪質に続いていたということになるのだが、幸いなのか、不運なことなのか、いまだブラック・スワンの親分の隠しどころが割れていないものの、状況はいまゆっくりと軌道修正に向かっているようだ。 いやいや、きわどい話だ。 これでもしもサブプライム・ローンの破綻やリーマン・ショックがおこらなかったら、どうするつもりだったのか。 それにしても問題は、この程度の議論ではおさまらない。 いろいろ考えなければならないことが、わんさと残っている。 いったいリスクとは何かということ、情報の非対称性とは何かということ、それを操ってきた確率論的統計感覚とは何かということ、そこになぜ多くの擬似科学めいたものが介入してしまったのかということなどは、いまなお本格議論には突入していない。 まったくもって、めんどうなことばかりが、残されてしまったものである。 こんなことになったのは、そもそも一極的グローバリゼーションがおこしたことなのか、それで世界がフラット化したことが問題なのか、それともそういう世界を見るための道具や方法がめっぽうちゃちだったのか。 いまとなっては、そのことも見極める必要がある。 【参考情報】 (1)本書に寄せられた賛辞と批評がおもしろい。 「エコノミスト」や「フィナンシャル・タイムズ」や「ビジネスウィーク」は例によって「きわめて知的で刺激的な本」「ものすごく楽しめる。 説得力がある」「重要なメッセージを含んでいて味わい深い」といった無責任な賛辞だが、『ヤバイ経済学』のスティーヴン・タブナーは「無作法で、居丈高で、愉快で、頑固で興味をそそる」、「ワイアード」編集長で『ロングテール』の著者であるクリス・アンダーソンは「歴史と経済学と人間の欠陥を叩いてまわるドタバタ娯楽大作」、ハーバード大学のニール・ファーガソンは「驚くほど風変わり」と、それぞれ変化球で褒めた。 (2)タレブがレバノンのギリシア正教者であることは、最初に紹介したことだが、実は第1章の「実証的懐疑主義者への道」がタレブの生い立ちになっていて、1000年にわたるレヴァント地方の歴史とともに自身を位置づけていた。 ヘレニズム文化に浸ったこと、文化も宗教もつねにモザイク状だったこと、ビザンティン宗教とイスラム宗教が混淆したこと、そして15歳で警官に挑んで監獄の日々をおくったこと、レバノン内戦という先進国の現代世界史からは無視されている体験のなかにいたこと、哲学者になりたかったが、ウィリアム・シャイラーの『ベルリン日記1934-1940』を呼んで衝撃をうけたこと、そしてウォートンスクールに入ったことなどだ。 (3)タレブはもっとチャールズ・パース()とピエール・ブルデュー()に共感していることを書くべきだった。 本書ではそのことを数行しかふれていない。 次の本がそのようになることを期待したい。

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ブラック・スワン

ブラック スワン

原書が刊行されたのは2007年4月。 前著『まぐれ』同様、発売直後から、人間の思考プロセスに潜む根本的な欠陥を、不確実性やリスクとの関係から明らかにして、経済・金融関係者の話題をさらった。 さらに、「サブプライムローン危機」が発生すると、「誰一人予想もしなかったインパクトのある事象」が起こる原因を原理的に明らかにした書として爆発的に読まれ、全米で150万部超の大ヒットを記録している。 むかし西洋では、白鳥と言えば白いものと決まっていた。 そのことを疑う者など一人もいなかった。 ところがオーストラリア大陸の発見によって、かの地には黒い白鳥がいることがわかった。 白鳥は白いという常識は、この新しい発見によって覆ってしまった。 「ブラック・スワン」とは、この逸話に由来する。 つまり、ほとんどありえない事象、誰も予想しなかった事象の意味である。 タレブによれば、「ブラック・スワン」には三つの特徴がある。 一つは予測できないこと。 二つ目は非常に強いインパクトをもたらすこと。 そして三つ目は、いったん起きてしまうと、いかにもそれらしい説明がなされ、実際よりも偶然には見えなくなったり、最初からわかっていたような気にさせられたりすることだ。 彼はそんな現象を長年研究してきた。 私たちはどうでもよくて取るに足らないことにばかり気をとられてしまう。 そして相変わらず重大な事件に虚をつかれ、そんな事件が私たちの世界を形づくっていく。 本書でタレブは、私たちにはわかっていないとわかっていることのすべてを語る。 「ブラック・スワン」に立ち向かい、それを利用できる驚くほど簡単な方法を提示する。 本書の衝撃的な内容を読めば、世界の見方は一変するだろう。 さらに、第2部「私たちには先が見えない」において、まずは私たちの予測の成績について見ていく。 以降は下巻へ。 著者:ナシーム・ニコラス・タレブ Nassim Nicholas Taleb 文芸評論家、実証主義者にして、非情のデリバティブ・トレーダー。 レバノンでギリシャ正教の一家に生まれる。 ウォートン・スクールMBA修了。 博士号はパリ大学で取得。 トレーディングを行うかたわら、ニューヨーク大学クーラン数理科学研究所で7年にわたり確率論のリスク管理への応用を 客員教授の立場で 教えた。 現在はマサチューセッツ大学アマースト校で学長選任教授として不確実性科学を研究している。 前著『まぐれ』は世界30ヵ国語に翻訳されたベストセラーである。 主にニューヨーク在住。 訳者:望月衛 もちづき まもる 大和投資信託 株 審査部。 京都大学経済学部卒業、コロンビア大学ビジネススクール修了。 CFA、CIIA。 投資信託等のリスク管理や金融商品の評価・分析に従事。 訳書に『まぐれ』 ダイヤモンド社 、『ヤバい社会学』、『ヤバい経済学』 東洋経済新報社 、『ヘッジホッグ』 日本経済新聞出版社 等がある。 タレブ,ナシーム・ニコラス 文芸評論家、実証主義者にして、非情のデリバティブ・トレーダー。 レバノンでギリシャ正教の一家に生まれる。 ウォートン・スクールMBA修了。 博士号はパリ大学で取得。 トレーディングを行うかたわら、ニューヨーク大学クーラン数理科学研究所で7年にわたり確率論のリスク管理への応用を 客員教授の立場で 教えた。 現在はマサチューセッツ大学アマースト校で学長選任教授として不確実性科学を研究している。 京都大学経済学部卒業、コロンビア大学ビジネススクール修了。 CFA、CIIA。 投資信託等のリスク管理や金融商品の評価・分析に従事 本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです 予測不可能な事態は、「予測不可能」なのだから、予測できなくて当然。 つまり、どれだけ準備をしても不足の事態は必ず起きる。 それなのに、人間は色々とさも分かっている風に生きていて、知識や情報をひけらかしている。 結局、全員詐欺師といえば詐欺師ではないかと。 文章が酷すぎて、下巻を読んでいないのですが、あまりにざっくりでいいなら、こういうことでしょうか。 結論から言えば、それは当然であって、だからどうしたという本です。 結局不確実は永遠に不確実なままなのだから、それでも何かを信じて一生懸命生きるしかないわけで、あまりに意味がない本です。 懐疑主義は結局なにも生み出しません。 もちろん、盲信している人間も怖いのですが。 ただ、自分の人生に関しては盲信するしかないわけで、疑ったところで何も前には進まないのです。 何も確実なことはないのだから、全ては虚無である。 死ぬしかない。 という話になります。 そういう哲学的病はもちろん昔もあって、確かにそう思う時もありますが、だからどうした突開き直る以外に、人間は他に方法がありますか。 不確実性を論じるというもくろみもまた、世の中一般が陥っている確実性の幻想にたぶらかされています。 なぜなら、これを読んで、あるいはこれを書いて、不確実性の正体が分かっている気になっているんですからね。 どうせなら世界を解明しようと努力している研究者の方が、それが実際に徒労だとしても、そっちを応援したい。 なぜなら、前に進もうとしているからです。 そして、そうするしかないからです。 世の中の人間に腹が立った、居酒屋談義というところでしょうか。 『ジェフ・ベソス果てなき野望』(日経BP)に、愛読書の一つとして紹介されていたので、読んでみました。 それほど私は頭が良いわけではないので、理解しようなどと意気込んでは読まず、「ふむふむ」といった感じで、著者の主張に耳を傾けるといったスタンスで読みました。 (きっと、こういったスタンスで読むのがオススメ。 じゃなきゃ、眠くなります) 読み終えて、合点が行くことがいくつも出てきます。 ネタバレは良くないので、抽象的なレビューになってしまいますが、日頃から「数字」や「統計」「報道」などと接する機会が多く、中でも「合点のいかない話が最近多くないか?」と、感じている人にはとてもオススメな話です。 その理由と、次にその理由を自分がどのように使えばいいかが書いてあります。 ただ、私はこれから下巻を読むので、全貌はまだわかっていません。 ただ、著者は「経験主義者」で「懐疑主義者」でもあり、トレーダーでもあるという点から「予測」に関して綴られた本書は良著だと思います。 ちなみに、巻末で紹介されているどう著者の『まぐれ』も追加注文しちゃいました。 本書は、思想とファイナンスとべき乗則をごちゃまぜにしているところにわかりにくさがある。 人がいかにあやまりやすいかは、脳科学、認知科学、ポパーの哲学などが切り込んでいく道具だてにふさわしい。 ファイナンスについては、「まぐれ!」でタレブは必要なことを十分にいいつくしている。 ネロ・チューリップがいれば、イェフゲニア・クラスノヴァはいらない。 べき乗則、フラクタルについては、それぞれの分野との関連はあるが、物理学的な視点で論じられるべき問題であり、哲学、思想とまじると非常に誤解され、わかりにくくなってします。 米国での発刊のタイミングは、1000%グッドだったのだが、いまとなっては、「歴史はべき乗則で動く」のマーク・ブキャナンの著作や、「脳は意外とおバカである」や(あえて)「進化しすぎた脳」の池谷 裕さんの著作、あるいは目をネットワークに転じてバラバシの「新ネットワーク思考」など、類書が存在するといっていい。

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