レオナルド ダ ヴィンチ 作品。 レオナルド・ダ・ヴィンチによる絵画作品の一覧|MUSEY[ミュージー]

ルーヴル美術館 レオナルド・ダ・ヴィンチ特別展の見どころ 史上最大ダヴィンチ有名作品大集結 没後500年目の大回顧展

レオナルド ダ ヴィンチ 作品

レオナルド・ダ・ヴィンチとは? レオナルド・ダ・ヴィンチ (全名:レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ, 1452~1519年)とは、イタリアのルネサンス時代に活躍した画家、建築家、発明家であり、その他にも生理学、天文学、地質学、物理学、力学、土木工学など、非常に多くの分野において業績を残し、また歴史的価値の高い手稿を残した人物です。 彼の生まれ持った他分野に渡る天才性は、 幅広い知識と尽きない興味や創造的活動で知られたルネサンス的教養人の典型であると言え、人類史上最も多才な人物だったのではないかという意見もある「 万能の天才」。 ダ・ヴィンチは、美術は科学や自然と密接に結びついていると信じていたこともあり、その考えが彼の万能性を引き出しました。 そして、今日においてダ・ヴィンチは主に画家として有名で、特に「 モナ・リザ」と「 最後の晩餐」の2つは、世界で最も有名で愛されている絵画であると言えるでしょう。 一方で、公式な教育をほとんど受けずに全てを独学したのにも関わらず、レオナルド・ダ・ヴィンチは、深い知識を応用して様々な発明をし、それを何十冊ものノートに残しました。 そのノートには、航空学から解剖学に至るまで、様々な分野の研究結果や理論などが記されており、優れた頭脳と想像力を組み合わせて、少なくとも紙面上では、 自転車やヘリコプター、飛行機などといった発明を生み出すことに成功していたのです。 しかし、当時の世界はまだようやく活版印刷術を使って本を作り知識を共有するようになったばかり。 加えて、レオナルド・ダ・ヴィンチのノートに書かれた内容は、非常に難しいものばかりだったため、画家としてはとても称えられましたが、当時、科学者としての才能と天才的な頭脳はあまり理解されていなかったのも事実でしょう。 レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯と人生 生い立ちと教育 レオナルド・ダ・ヴィンチは1452年4月15日、現在のイタリアのトスカーナ地方、アンキアーノという村で生まれました。 (出典:) これはヴィンチ村から3kimほど郊外にあった集落で、レオナルド・ダ・ヴィンチの「 ダ・ヴィンチ」とは「 ヴィンチ出身の」という意味です。 レオナルド少年は私生児だった レオナルド・ダ・ヴィンチの父親は弁護士で公証人、母親は農家の娘でした。 しかし、父と母は結婚することなく、また、二人の間には他の子供もおらず、母カテリーナはレオナルドがまだ幼い頃に別の男性と結婚し新たな家族を作りました。 また、父と母はそれぞれ別の人と合計で17人の子供をもうけたと言われます (つまり、レオナルドと半分血のつながった兄弟が17人いた)。 このような境遇の中で5歳になる頃からレオナルドは、父セル・ピエロが所有するヴィンチ村の邸宅で暮らすようになり、この暮らしの中でレオナルド少年は、自然に対して強い興味を持っていた叔父から大きな影響を受けるようになります。 ただ、セル・ピエロにとっては私生児であったため、 レオナルド少年は簡単な読み・書き・計算以外には、正式な教育を受けることがありませんでした。 フィレンツェにおけるレオナルド・ダ・ヴィンチの初期のキャリア形成 レオナルドへ満足のいく教育を受けさせなかった父のピエロですが、彼の美術的才能を認め、レオナルドが15歳になった時、当時有名な画家であり彫刻家であったフィレンツェ人の アンドレア・デル・ヴェッキオの下に弟子入りさせます。 これが、レオナルド少年が世紀の天才画家「レオナルド・ダ・ヴィンチ」として後世に名を残す始まりとなったのです。 (出典:) そこで約10年間、ダ・ヴィンチは画家・彫刻家としての腕を磨き、また機械技術に関しても学びました。 そして1472年、レオナルド・ダ・ヴィンチが20歳の時、フィレンツェの画家ギルドに認められ、「マスター(親方)」の称号を獲得します。 しかし、ダ・ヴィンチは独立することなく、ヴェロッキオの工房に留まりました。 1478年に独立 1478年1月、レオナルド・ダ・ヴィンチは最初の独立した絵画制作依頼を受け、ついに画家として独立を果たします。 その制作依頼とは、 ヴェッキオ宮殿サン・ベルナルド礼拝堂の祭壇画の制作依頼でした。 また1481年5月には、サン・ドナート・スコペート修道院から「 東方三博士の礼拝」の制作依頼も受けています。 しかし、 レオナルド・ダ・ヴィンチが、これらの作品を完成させることはありませんでした。 彼はミラノのスフォルツァ公に召喚され、エンジニア、建築家、宮廷で行われる舞踏会などのデザイナー、そして特に彫刻家として活動するためにミラノへ移住したのです。 ミラノでの活動開始から世界的有名な作品が出来るまで ミラノへやってきたダ・ヴィンチはまた、スフォルツァ一家から、高さ5メートルもなる初代ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァを記念した 巨大な騎馬像の制作依頼を受けます。 その結果、レオナルド・ダ・ヴィンチは、時に他のことをしながらも、 12年間の長期に渡ってこのプロジェクトに挑み続け、1493年には粘土の模型像を発表する用意を整えました。 しかしフランスとミラノの戦争「 第一次イタリア戦争」の開始が目前に迫った状況で、1494年11月には、銅像作成のための青銅がすべて大砲の制作素材として流用されてしまいます。 さらに1499年には、第一次イタリア戦争に失敗したフランスが再度イタリア半島の掌握を目指して侵攻してきた「 第二次イタリア戦争」が勃発。 フランスの目論見自体は失敗しましたが、この戦争の結果、 ミラノのスフォルツァ公が力を失うとミラノは混乱に陥り、粘土の模型像も破壊されてしまったのです。 レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」と「モナ・リザ」はこの頃に描かれた 初代ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァの巨大な騎馬像の制作を請け負っていたこと、さらに他の活動にも精を出していたことから、画家または彫刻家としてのダ・ヴィンチは寡作 (芸術家などが作品を少ししか作らないこと)でした。 そのため、現在まで残っている彼の作品はごく少数。 しかしそのうち2つは、世界で最も有名な絵画作品の一つとなっています。 この絵画は石膏上に描かれた壁画で、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁に描かれています。 そして名前の通り、聖書に登場する最後の晩餐シーンを描いており、イエス・キリストが弟子たちに向かって「 この中の誰か1人が私を裏切るだろう」と発言した場面をとらえているのです。 また、この絵画の特徴的な点は、各弟子たちの感情表現と動的なしぐさだと言われます。 「 弟子たちの中心にいながらもどこか1人浮いているキリスト」という構図は、以後何世代もの画家たちに影響を与えました。 ちなみに、この作品のモデルとなったミステリアスな微笑みで有名な女性の正体については、「いったい誰なのか?」と、何百年もの間議論がなされてきました。 そして、少し前までは高級娼婦ではないかという意見を始め10名以上の異なる人物が挙げられていましたが、最近ではフィレンツェの商人フランシスコ・デル・ジョコンドの妻「リザ・デル・ジョコンダ」であるという説が主流となっています。 現在、モナリザはフランスのルーヴル美術館に所蔵されており、毎年何百万もの見物客がこの絵画を一目見ようと訪れています。 ミラノへ戻ったレオナルド・ダ・ヴィンチ 1506年頃、レオナルド・ダ・ヴィンチは何人もの弟子を連れてミラノに戻ります。 そのうちの一人、若い貴族のフランチェスコ・メルツィは、ダ・ヴィンチが亡くなるまで最も親しい友人であり続けました。 一方で、スフォルツァ公の後を継いでミラノ公となったジャン・ジャコモ・トリヴルツィオ公は、騎馬像の形をした自らの墓の設計をダ・ヴィンチに依頼。 しかし、皮肉になことにこの騎馬像もまた完成することはありませんでした。 これは、トリヴルツィオ公が計画を途中で諦めてしまったからだと言います。 レオナルド・ダ・ヴィンチは、1507年に一度フィレンツェに戻っていますが、1508年にはミラノへ戻ってきており、最終的には1513年までこの地で暮らすこととなります。 レオナルド・ダ・ヴィンチの晩年 7年間ミラノで過ごしたレオナルド・ダ・ヴィンチは、政治的な対立により再びミラノで暮らしていくことが困難になると、ローマに移ってそこで3年間暮らします。 この頃ダ・ヴィンチは、ヴァチカンのベルヴェデーレで多くの時を過ごしたと言われます。 そして1516年、 フランス国王「 フランソワ1世」に招かれたダ・ヴィンチはイタリアを離れ、その後、イタリアへ戻ることはありませんでした。 フランソワ1世はダ・ヴィンチに「 国王専属の画家、技術者、そして建築家」の称号を与え、フランスのアンボワーズ城近くのクルーの館に住まわせ、この環境のおかげで、ダ・ヴィンチは自由に絵画制作や研究に没頭することができました。 また、ダ・ヴィンチはお気に入りの弟子「メルツィ」を一緒に連れていき、他の弟子や友人達とも一緒に時間を過ごしていました。 そのような生活を送っていた1519年5月2日、レオナルド・ダ・ヴィンチはクルーの館で亡くなります。 享年67歳でした。 レオナルド・ダ・ヴィンチの遺産や墓 レオナルド・ダ・ヴィンチの遺体は、アンボワーズ城敷地内のサン・フロランタン教会に埋葬されました。 しかし、フランス革命によってこの教会の大部分が破壊され、また19世紀諸島には老朽化のため取り壊された結果、現在遺体は、 サン・テュベール礼拝堂に埋葬されているとされます。 一方でダ・ヴィンチは、自らのお気に入りの弟子であるメルツィへ、金銭的遺産だけではなく全ての遺産を遺したため、メルツィはそれら全てを相続することになりました。 レオナルド・ダ・ヴィンチの人生を象徴する「万能の天才」について レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯を歴史の流れを追いながら見てきたわけですが、彼の人生を語る上で忘れてはいけないのが、ダ・ヴィンチの興味関心は美術の領域をはるかに超えていたことでしょう。 彼は自然科学、解剖学、機械工学、物理学、建築学、兵器製造術などを学び、また自転車やヘリコプター、潜水艦、戦車なども設計しました。 ダ・ヴィンチの残した発明のデザインは非常に正確で、実用化可能なものが多かったと言われますが、これらが実際に作られるようになったのは何百年も先のことです。 ある意味でダ・ヴィンチは、「 まだ皆が眠っている時に一足先に目覚めてしまった人」だったのです。 異なる分野を結びつけた一つの要素 ダ・ヴィンチの多岐に渡った興味と才能を結びつけたものとして、一つの要素を挙げることが出来るかもしれません。 それは、レオナルド・ダ・ヴィンチが「 視覚こそが人間の最も重要な感覚である」と信じていたことです。 ダ・ヴィンチは 「 見方を知ること」こそが、人生を豊かにして創造的に生きるためには欠かせないと考えていたのです。 その結果、 「美術」と「科学」を対象的なものではなく、むしろお互いを補完するものであると捉え、全てのアイディアはつながっていると考えたようなのです。 他分野に渡る関心は未完の作品を残した しかし、あまりにも多くの物事に関心を持ってしまったため、その生涯の中でダ・ヴィンチは、しばしば絵画やプロジェクトを未完成のまま放置してしまう傾向にありました。 例えば、画家として独立した初期の頃に依頼された、ヴェッキオ宮殿サン・ベルナルド礼拝堂の祭壇画の制作依頼や、サン・ドナート・スコペート修道院からの「東方三博士の礼拝」の制作依頼は、その典型例でしょう。 レオナルド・ダ・ヴィンチは、自然と触れ合って過ごし、科学の法則を実験で確かめたり、動物や人間の体を解剖したり、気づいたことについて考えたり書き留めたりすることに多くの時間を費やしたため、画家としての仕事が疎かになってしまうことが多々あったのです。 レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿 一方で、1490年代前半頃からダ・ヴィンチは、これらの研究をまとめたノートを作成するようになります。 何千というページが丁寧なイラストや細かく記されたコメントで埋め尽くされ、中には左利きの鏡文字で書かれているため、誰にも理解できないものもあります。 これらのノートは、しばしば「 レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿」と呼ばれ、彼の死後、世界中に散らばり、現在いくつかの博物館・美術館でバラバラに保管されています。 例えば、「レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿」の一部である「 アトランティコ手稿」は、ミラノのアンブロジアーナ図書館に収蔵され、 コウモリの生理学や航空学、物理学の研究を基にして考案された飛行機のような物の設計図が記されています。 また、イギリスのウィンザー城に収蔵されている「 ウィンザー手稿」には、人間の骨格、筋肉、脳、消化器や生殖器官などの解剖学的研究が綿密に記されており、この研究によって、人体の作りに関する正しい知識がより多くの人へ広まりました。 合わせて読みたい世界雑学記事• ダ・ヴィンチは人類史上における最も優れた万能の天才と言われ、彼が遺してきた絵画や研究結果をまとめたノートは、数百年以上経った現在でも、多くの人の興味を引いています。

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レオナルド・ダ・ヴィンチ先生の天才エピソードを紹介ニャ!by〇〇

レオナルド ダ ヴィンチ 作品

レオナルド・ダ・ヴィンチ Leonardo da Vinci 1452-1519 イタリア 盛期ルネサンス 、と並ぶ盛期ルネサンスの三大巨匠の一人。 中でもこのレオナルド・ダ・ヴィンチは名実ともに最大の画家として知られる。 また画業の他、彫刻家、建築家、科学者としても名を馳せる万能人であった。 フィレンツェ西方のヴィンチ村で生まれ、1466年頃ヴェロッキオの工房へ入門、そこで頭角をあわらし、以後は活動拠点をフィレンツェ、ミラノを何度か往復させながらローマへ向かう。 晩年はフランソワ一世の招きによりフランスへ渡るものの、67歳で客死。 卓越した遠近法の技術も然ることながら、完璧主義者であったレオナルド自身が考案した技法の『スフマート(ぼかし技法)』を用いた作品は、以降の画家に多大な影響を与えた。 レオナルドが1500年頃に制作したと考えられている主イエスの半身像を描いた本作は160億円(2億ドル)の価値があるとされている。 レオナルド・ダ・ヴィンチ単独の制作による最も初期の作品『受胎告知』。 フィレンツェ郊外のサン・パルトロメオ・ディ・モンテオリヴェート聖堂の旧蔵となる本作は、すでにレオナルドは独立はしていたものの、まだ画家の師であった彫刻家ヴェロッキオの工房で活動をおこなっていた1472-1473年頃に手がけられたと推測され、明確な記録等は残っていないが異論なく真筆であると認められている。 祝福のポーズと共にマリアへキリストの受胎を告げる、神の使者大天使ガブリエル。 聖母マリアの気品に満ちた穏やかな表情や、非常に写実的に描写される野草や床面、空気遠近法を用いた高度な場面・遠景表現など、画面からは20歳頃のレオナルドの豊かな才能が随所に垣間見れる。 なおパリのルーヴル美術館には、かつてレオナルド・ダ・ヴィンチの作とされていたものの、現在ではレオナルドと同様ヴェロッキオの工房で学んでいたロレンツォ・ディ・クレディの作とされる『受胎告知』が所蔵されている。 関連: ロシアが誇る美の殿堂、エルミタージュ美術館の至宝、レオナルド・ダ・ヴィンチ初期の作品『ブノワの聖母』。 やや硬さを感じる聖母マリアの左手、幼児キリスト右脚の厳しい明暗や境界線など、レオナルドらしさが存分には感じられず、画家屈指の名作とは呼べないまでも、作品が持つ気品や慈愛に満ちた聖母の表情は、初期の作品とは思えないほど優雅かつ繊細に描かれている。 本作は名門貴族クラーキン公のコレクションからフランスの画家レオン・ブノワの手に渡り、その後、ロシア皇帝ニコライ2世が購入したことから『ブノワの聖母』と呼ばれることとなった。 また画面右上の白々とした窓の風景は未完成の為、又はレオナルド自身が塗りつぶしたなどの理由が推測されている。 レオナルド独自の技法『スフマート(ぼかし技法)』によって表現される聖母の輪郭は、暗い背景に溶け込み、慈愛に満ちた聖母の人物をより際立たせている。 聖母マリアが差し伸べた小さな花を見つめる幼児キリストの表情は幼いながらも気高さと神々しさを放ち、救世主であると同時に絶対者としての威厳に満ちている。 なお画面右上の白々とした窓の風景に関しては未完成とする説、レオナルド自身が塗りつぶしたとする説などの様々な理由が推測されている。 ルネサンス三大巨匠のひとりレオナルド・ダ・ヴィンチ未完の傑作『東方三博士の礼拝』。 本作は1482年にレオナルドがミラノへと向かった為、モノクロームの状態(未完状態)でフィレンツェに残された作品で、1621年にはその所有権がメディチ家へと移行している。 前景では画面中央に配される聖母マリアと幼子イエスを中心に、東方の三王や民衆たちが円状に囲みながら平伏すような姿で聖母子を礼拝している。 そこでは様々な人物において性格付けや行動的人間性が示されており、レオナルドの自然主義的側面が明確に表されている。 さらに後景左側には廃墟的な階段や建築物、後景右側には騎馬の一団が描き込まれており、画面内の空間構成や構図展開において類稀な革新性を見出すことができる。 さらに主題の解釈においても、当時、問題視されることになった主の御公現(エピファニア。 主イエスへの公式的礼拝)を意識させる内容が示されており、レオナルドのそれまでの伝統に捉われない挑戦的な意図が感じられる。 現在ポーランドのツァルトリスキー美術館が所蔵しているレオナルドが制作した肖像画の代表作のひとつ『白テンを抱く貴婦人の肖像』。 最初のミラノ滞在時に制作された肖像画のモデルはミラノ公ルドヴィーコ・イル・モーロの愛妾(または同氏が結婚以前に寵愛していた)チェチリア・ガッレラーニと推定されており、背景に輝く肌の質感を透明感のある色彩で描かれた本作は、今なお色褪せることなく、完成されたレオナルドの作品として公開されている。 黒色真珠を身に着ける、ミラノ公ルドヴィーコ・イル・モーロの愛妾、チェチリア・ガッレラーニの肖像にみられる、左斜め方向を見つめる視線、微かに微笑む口元と、成熟した女性ではない、あくまで若々しい少女の表情を、卓越した観察眼で捉えた。 またチェチリア・ガッレラーニがやさしく抱いている、写実的に描かれた当時、冬の衣服として用いられていた白テンの毛皮は、本作では純潔の象徴としても解釈される。 言わずと知れたルネサンス期の天才レオナルド・ダ・ヴィンチ不朽の祭壇画『岩窟の聖母』。 このルーヴル美術館版は画面全てがレオナルドの真筆とされ、本来ならばミラノのサン・フランチェスコ・グランデ聖堂の礼拝堂を飾る作品であったが、当時、レオナルドとこの祭壇画の依頼主との間で作品の構成や報酬を巡りトラブルがあり、それを仲裁した(当時ミラノを治めていた)フランス王ルイ12世に、レオナルドが献上したとされる。 本作では聖母マリアを中心に、左に幼児の姿をした洗礼者聖ヨハネ、右部分に祝福を与える幼子イエスと、大天使ウリエルを配されているが登場人物に神的人格の象徴である光輪が描かれていない点や、大天使ウリエルが人差し指で首を斬る仕草を示している点、洗礼者聖ヨハネと幼子イエスの明確な区別が為されていない点(通常、洗礼者聖ヨハネにはアトリビュートである獣の衣や十字の杖などが描かれる)などから祭壇画としての役割が果たせないとして、祭壇画の依頼主から受け取りを拒否されている。 なお一部では大天使ウリエルが洗礼者聖ヨハネの守護天使であることから、洗礼者聖ヨハネが神の子イエスを祝福していると、洗礼者聖ヨハネと幼子イエスの解釈を逆とした異説が唱えられているも、確証は得ていない。 関連: が当時のフランス王ルイ12世に献上されたため、改めてサン・フランチェスコ・グランデ聖堂へ納められた作品となったのが本作『岩窟の聖母』。 本祭壇画はレオナルドが描いた最も重要な中央部分(本作部分)とその開口戸となる両脇部分から構成され、その両脇部分はデ・プレディス兄弟が担当しており、本作のやや硬質的な表現手法や明暗対比の大きい暗中の陰影表現などから、構図はとほぼ同じであるが描いたのはデ・プレディス兄弟とするのが一般的な説である。 本作ととの最も決定的な差異は登場人物にある。 幼児洗礼者聖ヨハネにアトリビュートである十字の杖と衣を加え、幼子イエスとの間に明確な区別が為されている他、大天使ウリエルを除く聖母マリア、幼子イエス、幼児洗礼者聖ヨハネには神的人格の象徴である光輪が描かれている点や、大天使ウリエルの軽やかな衣服の表現やポーズの変更など、より依頼者の望みに則した表現が用いられている。 関連: レオナルド・ダ・ヴィンチ作『最後の晩餐』。 本作は技巧的にも、壁画で通常用いられるフレスコは使用されず、油彩とテンペラによって描かれているため、完成後まもなく遜色が始まり、それに加え食堂が馬小屋として使用されたことで湿気に晒されたことや、第二次大戦での建物全壊(奇跡的に壁画は無傷)などが重なったことによって、壁画として保存状態が悪かった期間が長かった為、もはや、この傑作を原型のまま鑑賞することはできない。 関連: 『モナ・リザ』。 レオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された、この絵画史上最も名の知れたあまりにも有名な肖像画は、レオナルド自身にとっても特に重要な作品であったと考えられており、『』、『』と共にフランソワ一世の招きにより渡ったフランスでの最晩年まで手元に置いていたことが知られている。 本作を美術史的観点から名画中の名画と言わしめるのは、一切の筆跡を残さないスフマート(ぼかし技法)による表現に他ならない。 このレオナルドによって考案された輪郭線を用いず陰影のみによって対象を表現する薄塗り技法は、同時代最大の巨匠のひとりを始めとするの技法とは決定的に異なっており、その完成には膨大な時間と手間がかかる。 当時レオナルドが滞在していたサンタ・マリア・ノヴェッラ教会の廻廊の二本の円柱が両端に描かれている(本作はその両端部分がどこかの時代に切断されたと推測される)ことが研究によって明らかになっている本作で用いられる、肖像画において斜めに対象人物を配する構図は主に初期ネーデルランド絵画で用いられていた構図であり、その後、交友のあったを始めとする数多くの画家達の肖像画制作の過程において多大な影響を与えた。 著書『美術家列伝(1550年)』の中のフランチェスコ・デ・ジョコンドの妻リーサ・ゲラルディーニ説からモナ・リザと呼称されるようになった本作の最も大きな謎のひとつであるモデルについてはジュリアーノ・デ・メディチの愛人説、コスタンツァ・ダヴァロス説、自画像説、イザベラ・デステ説、レオナルドによる極めて高度に理想化された人物像とする説など諸説挙げられるも確証を得るに至らず、依然として不明であり今なお研究と議論が続いている。 なお本作は1911年に一度盗難に遭うも2年後、フィレンツェで発見された。 なお画家と同じくルネサンス三大巨匠のひとりに挙げられる年下のは本作を残しており、このスケッチは本作の研究資料として現在も重要視されている。 論拠としてモナリザの瞳の中に両者の頭文字「L」と「S」が記されているとしている。 今後の更なる調査が期待される。 しかしルーヴルのものと比べ同作品の素材がカンバスである点など異論も数多く残されており、今後の動向が注目される。 ルネサンス三大巨匠のひとりであり、万物の天才とも呼称される画家レオナルド・ダ・ヴィンチが残した秀逸的下絵習作『聖アンナと聖母子(画稿)』。 本作は画家晩年期の最高傑作の1点と名高く、レオナルドが最後まで手放さなかったルーヴル美術館所蔵の『』に通じる、大凡10年ほど前に制作された画稿(下書き)である。 画面上部に配される聖アンナは娘である聖母マリアへ慈愛的な眼差しを、聖母マリアはその胸に抱く幼子イエスへやや憂いを帯びた眼差しを向けており、三者の関係性を視線で表している。 また神の子として降誕した幼子イエスは、同じく幼子の姿をした洗礼者聖ヨハネへ祝福の仕草を示しており、聖ヨハネは信仰深い眼差しを幼子イエスへ向けている。 来歴として少なくとも1791年には英国のロイヤル・アカデミーに所蔵されていたことが知られている本作は、レオナルドが1482年から18年間滞在したミラノを離れる最後期に手がけられた画稿であるが、その表現手法に注目しても明確な線描(トスカーナ美術の典型として知られる)と立体感と光彩を独特に誇張したキアロスクーロ(明暗法)を用いた人物描写は、画家の卓越したデッサン力をよく示すものであり、今も観る者を驚かせると同時に強い感銘を与える。 なお本作とは別に1501年フィレンツェのサンティッシマ・アヌンツィアータ修道院で公開された習作の存在が伝えられている。 関連: 完成していればレオナルドの最高傑作のひとつとして数えられていたであろう、晩年期に制作された未完の大作『聖アンナと聖母子』。 また未完とはいえ、人物の柔らかくも甘美さを併せ持つ表情や、スフマートで描かれる卓越した表現技法などから、多くの画家がこの作品を模写している。 キリストに手を差し伸べ抱き上げる聖母マリアは、新約聖書ルカ福音書では、夫となる聖ヨセフとの婚約中、大天使ガブリエルから受胎告知を受けたとされる。 五世紀前半からは神(キリスト)の母や無原罪の女性として崇敬の対象となった。 この世の終焉に現れるメシア(救世主)とされる羊と戯れる幼子キリストの名称は元来、油を塗られた者の意で、王に与えられる称号であった。 夫であるヨアヒムと20年近く連れ添いできた始めての子供で、聖母マリアの母として知られる聖アンナの我が子(マリア)と孫のキリストを見つめる表情は、聖者に相応しく穏やかさと慈しみに満ちている。 制作の詳しい経歴は不明だが、ダ・ヴィンチ最晩年の作品とされる『洗礼者聖ヨハネ』。 晩年期は失意の中フランソワ一世の招きによりローマを去り、フランスへ向かったダヴィンチが同地で描き、本作と『』、『』の三作品は生涯手元に残した。 なおモナリザを思わせる聖ヨハネの端正な顔立ちと微笑みは、ダ・ヴィンチが同性愛者だったという推測に基づき、寵愛していた弟子ジャン・ジャコモ・カプロッティ(通称サライ)をモデルにしたという説もある。 ヨルダン川でキリストの洗礼を行なった者とされる洗礼者聖ヨハネは、バプテスマのヨハネとも呼ばれ、都市生活から離別し、神の審判が迫ることを説き、人々に悔い改めの証として洗礼を施すが、ヘロデ王の娘サロメの願いにより斬首刑に処された。 また本作を始め、レオナルド作品によくみられる、この天に向け人差し指を指すポーズ。 ここでは天からの救世主キリストの到来を予告し、道を平らかにするよう悔悛を説いてると解釈されている。

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天才レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯・年表まとめ【作品や名言、死因も紹介】

レオナルド ダ ヴィンチ 作品

タップでお好きな項目へ:目次• ナビゲーター、ジャコモ どーもぉ~。 レオナルド・ダ・ヴィンチ先生の弟子 ジャコモですにゃ。 レオナルド・ダ・ヴィンチ先生を紹介する時は呼ばれてなくても出てきますニャ。 まず、先生の天才ぶりを示す絶対に外せないエピソードはこれですニャ。 弟子入りしてすぐにうますぎる!! レオナルド・ダ・ヴィンチ先生は14才(年齢はいろんな説があります)でヴェロッキオさんの工房に弟子入りしますニャ。 そこでレオナルド・ダ・ヴィンチ先生はヴェロッキオさんの絵の一部を描かしてもらうのです。 が、ヴェロッキオさん、もうビックリ! うますぎますニョ! もう全体の絵の中でそこだけ明らかに浮いていますから。 ヴェロッキオさんはショックのあまり、画家をやめてしまいますニャン。 ちなみにこの作品の名前は 『キリストの洗礼』といいますニャ。 関連記事 >>>> 万能の天才 万能の天才。 これはレオナルド・ダ・ヴィンチ先生の 代名詞のようなもんですニャ。 ダ・ヴィンチ先生は絵だけで、とてつもニャいのに、どの分野でも一流ですニャン。 ダ・ヴィンチ先生の万能の天才分野とちょっとお茶目(?)なエピソードを紹介しますニャン。 解剖学 レオナルド・ダ・ヴィンチ先生はより正確な絵を描くために人体解剖をいっぱいスケッチしていましたニャン。 それが教皇にバレてしまって、禁止にされると、今度は夜な夜な墓をあさって死体を引きずり出していましたニャ。 ちなみに、先生の描いた解剖図はあんまり細かいところまで正確ニャんで、その後の医学の発展にも役立っていましたニャ。 設計 レオナルド・ダ・ヴィンチ先生と言えば物理も数学も建築もニャンでもござれ。 ニャので、先生の描いた設計図は当時としてはとっても実用的(?)で目新しいものがいっぱいですニャ。 たとえば、 <時計> ゼンマイ仕掛けで動きますニャ。 レオナルド・ダ・ヴィンチ先生は寝坊がとってもお嫌いですニャ。 だから、これでみんなのお寝坊をやめさせようとしましたニャ(おいらとしたら余計なお世話ですニャ)。 <自動車> やっぱりゼンマイ仕掛けですにゃ。 ずっと時代が後になってから、この設計図をもとに造られたけど、まるで動かなかったらしいですニャ。 <大鎌付き戦車・機関銃・投石器・高射砲……> そのころのイタリアではいっぱい戦争がありましたニャ。 レオナルド・ダ・ヴィンチ先生は、そっちの方でも確かな腕を持っていた、ということですニャ。 でも、じゃあニャんで先生はそんニャに天才にニャッたのでしょうか。 その秘訣(ひけつ)がここに隠されているかもしれませんニャ。 先生のそのとっておきの技とは、ニャンと 両方の手でいっぺんに絵が描けますニャ。 それも上手ですニャ。 片方で馬、もう片方で鹿を描いて見世物にもしていましたニャン。 たいがいどこでやっても大うけですニャン。 人間は左と右に脳がありますニャ。 その両方をきたえたからこそ、あの天才ぶりがあったのではニャいか、といわれていますニャン。 ウニャ?むずかしいニャ、ちょっとこれ、……フー、フニャ~~!(飽きてあくび)。 きょうのまとめ.

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