ユア ストーリー オチ。 【ネタバレ有】ドラゴンクエストユアストーリーが自分史上最底辺の評価、という話

映画『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』感想。大人になれない僕たちにオカンが説教しにくる映画

ユア ストーリー オチ

観てきました。 感想を書くべき作品だと感じたのでこうして記事にさせていただきました。 以下記事を読む前の注意点• 映画の核心を含むネタバレがあります• 約12000字の長文です• 辛口評価です• 同時期に公開された『劇場版 Over Quartzer』の内容に触れて比較する箇所があります 以上を承知の方のみお読みください。 まず最初にこれだけは誠意を以て伝えます。 この映画は親子連れで観に行ってはいけません。 もしかしたら世のお父さんお母さんは、上映後に瞳を輝かせている子供に対して「これがぼくわたしが昔夢中になってたゲームなんだよ」とちょっぴり自慢げに語る情景を想像しながらこの映画を観に行く計画を立てているかもしれませんが、そのような光景を実現することは不可能です。 この映画は5をプレイしたことがない子供が観ても楽しめないし、お話を理解することができません。 この作品は5をプレイした大人の懐古のために作られています。 なので絶対にを知らない子供を連れて行ってはいけません。 私たちは、子供から大人に成長する中で、いつの間にか挑戦する心というものを失っていたのかもしれません。 なけなしのおこづかいで買ったゲームや観た映画がつまらなくて「チクショウ!」となる体験をするにはなかなか難しい時代になりました。 にはユーザーたちの生の感想が溢れ、いざお金や時間を使ってゲームや映画に触れようと思えば、その前に必ずインターネットの情報をチェックしてそれが「ハズレでないか」を確認するのが王道です。 雑誌のレビューよりも、匿名板を飛び交う胡乱な情報合戦よりも、それらより遥かに信頼できる上で口コミとして交わされる膨大な情報量の感想たち。 私も最近映画を観るときはなどでなんとなく面白そうという情報をれてから観るようになっていました。 しかし今回のの映画化に、というゲームで幼少期を過ごした私は強い感慨を覚えていました。 その冒険の形はゲームをプレイする人によって違うでしょうが、皆さんが心の中にの思い出をそれぞれの形で持っているように、私も私自身の体験としてのを持っています。 の感想を踏まえて観に行って「いやぁ〜大傑作でしたねぇ」「巷で言われているようにあそこの演出は原作を尊重できていない悪手でしたなぁ」みたいな知った風な口を効くことは簡単です。 けれど、本当にそれでいいのでしょうか? いくらに溢れる感想から面白いか面白くないかを判断できるといっても、この膨大な情報が身近に溢れる現代だからこそ、敢えてそれをシャットアウトすべきときもある……。 この『ユア・ストーリー』と銘打たれた映画を、私は私自身の物語として享受したい。 他の誰でもない、私だけのとして受け止めたい。 なので私は、この映画を予告編などの公式情報以外のネタバレや感想を一切見ず、ただまっさらな私自身の心のみでぶつかることにしました。 もしかしたらつまらないかもしれない。 「こんなのじゃない!」と駄々をこねてしまうかもしれない。 でもそれでいいじゃないか。 面白かった、つまらなかった、感動した、笑った……そんな感情の起伏のひとつひとつが私のという体験を、私自身を作っていくんだ。 もう一度わたしは挑戦したい。 童心に還ってこのという物語を受け止めたい。 そう覚悟した私は、公開日当日に定時退社し、もう子供ではない大人としての生活リズムの身体のまま、けれど心だけはあのときの童心を強く秘めつつ、都内の映画館で『 ユア・ストーリー』を観たのでした。 その結果は。。。 つまらなかった。 いや〜つまらない。 つまらないとしか言いようがない。 どんな作品だったとしても、たとえ原作の想い出を裏切るような体験だったとしても、私は映画を鑑賞することによって生まれる喜怒哀楽の感情をひとつの貴重な体験として尊重しようと思っていました。 しかしこの映画は 《無》でした。 ただただ映画全体が虚無で、ポカンとすることしかできない。 劇場の椅子に座ってスクリーンを眺めている間ずっと退屈で、最初と最後のシーン以外に心がほんの僅かさえも動かないんですよ。 の壮大な世界観とそこで繰り広げられる冒険が《無》という何かに落とし込まれたものを体験してきました。 けれど前情報なしで体当たりで映画を観に行って「失敗した〜」という体験を久しぶりにできて、そういう意味では非常に有意義でした。 まさしくなけなしのお小遣いで買ったゲームがつまらなくて「チクショウ!」となる感覚。 を通じて、子供の頃に持っていて大人になる中で次第に忘れていってしまった冒険心を再び取り戻せた気分です。 ありがとう、(?) これからどこがどうつまらないのかを語るわけですが、それがなかなかに難しいんですよね。 あそこが原作と違くてガッカリしたとか、あの表現がダサくてむかついたとか、そういうのじゃないんです。 前述した通りすべてが《無》に満ちている。 一応、最初と最後のシーンは心が動いたということで、まずは最初のシーンから語るのですけど、いや〜あれには動揺しました。 冒頭にて、魔王が封じられた魔界とそれを封印した天空人、そして勇者だけが扱うことのできる伝説の剣について語られます。 いわばの冒頭のアレが、お馴染みのあのテキストウィンドウで語られていくのです。 正直この演出にはワクワクが止まりませんでした。 そして物語の幕が開くとそこには…… 原作である版のゲーム画面がドカン!と表示されていた。 主人公(リュカ)を出産するパパスとマーサ• 船で旅をする主人公とパパス• レヌール城にておやぶんゴーストと対決する主人公と• のゲレゲレを仲間にする主人公 これらの展開が実際のゲーム映像と共に繰り広げられていきます。 ポスターと予告編にて3DCGで描かれたキャターたちを観ていた私は、凄まじい動揺を受けると共にこれらの映像が示すものに次第に気づいていきます。 「これ、ダイジェストか?!」 わかってはいた。 一本の映画に5の壮大な物語がそのまま収まるはずがない。 どこかしらの要素をオミットしたり、物語の筋書きを大幅に書き換えたり、ゲームから映画にメディアが変わる以上は様々な描写の見せ方が変わってくるのは承知していた。 しかしまさか実際のゲーム画面を用いてダイジェストにするとは。。。 たしかに原作付きの作品で諸々の商業的縛りによりダイジェストを展開しなければならないとき、一番やりやすくてなおかつ観客の間にも齟齬が発生しない方法が何かといえば、そりゃまぁ原作をそのままやることなんですよね。 最初に「親子連れで観に行ってはいけない」と書いた理由のひとつがこれで、 劇中で語られる「との出会い」「フローラとの出会い(版は幼少期にフローラと出会うシーンはないのだけどダイジェストではいい感じに捏造されてる)」「ゲレゲレとの出会い」「ゴールドオーブの入手」は全てゲーム画面のダイジェストで終わるため、 原作を知らない人は後にと再会し、フローラと再会し、ゲレゲレと再会してもなんのことやらさっぱりなんです。 ゴールドオーブなるものを幼少期の自分が持っていたので時間を超えてそれをすり替える……という流れも映画一本だけでは意味不明です(5を象徴する物語上のギミックのひとつなので削りたくないのはわかるけど。。。 ) この時点で「この映画は単体で作品として成立させる気はない」ということに気づき、私は作品を鑑賞する心構えを大きく変えることになります。 そんなこんなで壮大なの世界観を原作のゲーム画面そのままで表現したダイジェストの後、パパスがゲマに焼き殺されるところから実質の物語が始まります。 そしてその実質の物語が限りなく《無》なんです。 心が全く揺れ動かない、虚無の冒険が幕を開けます。 とりあえず以下の箇条書きを読んでください• 住人が兵士ひとりとヘンリー王子しか描かれない(そこが城ということすら認識できない)• 雪中に佇むパパスの一軒家のみ描かれる(ただの一軒家なのでという単語が村の名前と理解できない)(妊娠〜出産を経る月日が描写される間もずっと降雪してる)• ルドマンとフローラしかいないルドマン邸(使用人とかはが怖くてみんな逃げちゃったのかな?)• 原作では村人に話しかけることでその村の生活や状況などを推察したりできるが、この映画の村人はガヤ以上の喋りはしないモブなので、その村や街の人々の暮らしは見えてこない• そのため魔王と魔物が世界を脅かしている様子がイマイチ見えてこない(それっぽく侵略の様子が描写されるが宙に浮いている)• 劇中の重要な設定として天空人の単語が繰り返し語られるが、魔王を封印した彼らがかつてどのように暮らしていたのかなどのバックボーンは一切描写がない(もオミットされている)• ことが登場するが、彼についてのバックボーンも一切ない• やなどの名前がちらりと出てくるが、さりとて世界観を補強する役割はなく、映画としては不要なただの無駄情報として提示される• 街の移動が世界地図の表示や航海する船のカットで済まされる箇所が多すぎる• 「やくそう」と「てんくうのつるぎ」以外の名前がついたアイテムは登場しない• などの状況により映画の世界がの世界だという認識が持てない 3DCGで描かれた『 ユア・ストーリー』の世界はの世界として成立していません。 それどころか以前にひとつの「世界」としてすら成立していません。 そこで起きる出来事を私は「世界」を舞台にした「冒険」と受け止めることができませんでした。 えげつないと感じたのは、兵士とヘンリーしかいないやパパスの家しかないが3DCGで描かれる度に、私の脳みそはそれらを補完するべく必死にのドット絵で描かれたマップ画面を思い出そうとするんです。 目の前で3DCGの映像が流れているのに、それを補完するためにドット絵を思い浮かべる必要があるってどういうこと? 3DCGで描かれる壮大なの世界を堪能するために映画館へ足を運んだはずなのに、実際はドット絵で描かれたゲームの方が遥かに世界の豊かさに満ちあふれているんです。 そんなのアリか? そして世界観のみならず物語においても、様々な虚無が私を襲います。 サンチョって誰?(の設定はオミットされているのでパパスに付き従う召使いっぽい言動の彼が誰なのかは最後までわからない)• 大神殿を建設する奴隷として働くが、その大神殿は最後までその映像が描かれず、何のために石を運んだりしていたのかが最後までわからない(最終決戦の舞台は大神殿の上空にある場所)(掘った穴をまた埋め直すとかそういう類のやつかな?)• ヘンリーはダイジェストが終わるといつの間にかから攫われて、次の場面で気づけば隣にいて一緒にゲマに捕まり、その後大神殿を脱出するとすぐに場面が移り、結局何故彼がそこにいたのかよくわからないまま別れる(ヘンリーが物語に存在する意味は最終決戦にその他大勢と一緒に助太刀に駆けつける以外にない)• 「のルドマンが天空の剣を持っているらしい」「大神殿城下街ではが人間に化けているらしい」と物語を進める情報が特に捻りもなく登場人物から「そういえばこんな話があるよ」とばかりに素で提示される• 上に同じく登場人物が唐突に「!」「!」と叫びながら嵐や炎を呼び出す。 いやわかるよ?それがMPを消費して発動する魔法という行動で、レベルアップすることでそれらを取得し、モンスターとの戦闘を優位に運ぶことができるのは知ってる。 フローラが主人公の持つ本当の気持ちに気づかせるため占いばあさんに変身してとの仲を取り持つが、どうして彼女が他人に変身したり真実の愛に気づけるような薬を持っていたのかは一切説明されない(変身は的な魔法と推察できるのだけど、そもこの世界における魔法という概念がロクに説明されていない)• 最初はフローラを結婚相手として考えていたが、薬を飲んで深層意識に沈み自己暗示をアンロックすることでその奥底にある最愛の相手がであることに気づく。 しかし全てが理屈の上の物語展開と演出であり、そこに観客が感情移入できる余地は一切ない• 「背中を任せられる相手が本当に大切な人なんだ」と喧嘩しながらも一緒に冒険をしてきたを結婚相手に選ぶが、幼少期のとの想い出はダイジェストのゲーム画面でしか描かれないので、映画の登場人物としてのオリジナルの性格付けをされたとした冒険や観客としての彼女への思い入れは、の近所の穴でと対決した以上のものがない• 尺の都合上あらゆる出来事がまさしくイベントをこなすかのように進行するので、に来て結婚イベントが発生し結婚相手を選ぶまで劇中で一晩の時間しか経っていない。 もフローラも実質に来て初めて登場したキャターなので、ワンナイトの勢いで結婚相手を即決しているような状況• 天空の剣を鞘から引き抜けない主人公は真の勇者ではない!といった描写が頻出するが、息子が天空の剣を引き抜く肝心のシーンは「石化が解かれた!すごい年月が流れてる?君は僕の息子?あっ間違えて天空の剣を渡しちゃったらなんか使いこなしてるよ!」ぐらいのスピード感で描かれるので感動する余裕すらない• 劇中でことわざの誤用にツッコミが入るシーンがあるのだけど、そもファンタ世界で日本のことわざが出てくるのがよくわからない(全体的な台詞回しにおいても「やばい」みたいな俗な言葉遣いが多く、もちろん原作ゲームの台詞で物語を進行させるのは無理なので脚本家の色を出す必要があるのだけれど、それにしてもどこか世界観にそぐなわない違和感を覚える)• 物語のテンポがめちゃくちゃで、謎の説明シーンに?となったり「ここが盛り上がるところですよ!」と暗に言ってくるようなシーンに「お、おう」と無理やり感情を高めなければいけなかったりする が映画化され、その物語が5を下敷きにしたものになると知ったとき、私は心の中で「なるほど」と頷きました。 5は親子三代に渡る物語です。 父の志を受け継ぐ息子。 家族愛というものは普遍的なテーマです。 5を原作として選ぶことにより、家族愛といった要素に乗せて、を知らない人も心揺さぶられる物語を届けることができる……映画を観る前までは5というチョイスにただ唸ることしかできませんでした。 しかし実際は違いました。 この映画に家族愛みたいな要素はありません。 ちぐはぐなダイジェストと物語進行で、親子三代のドラマを感じることすらできません。 「本当の勇者は主人公ではなくその息子だった!」という5最大のギミックすらあやふやです。 親から子へ継がれる親子三代のドラマが成立してない• 結婚相手を選ぶにおけるドキドキ感やら恋愛やらのドラマも成立していない• 原作ゲーム画面でダイジェストをしている以上、一本の映画として成立させることを諦めている• かといって割り切って原作の雰囲気を懐かしもうとしても、の世界観を表現することさえできていない そんなこんな破綻を抱えたまま物語はクライマックスへ。 最後の最後で復活した大魔王は、実はと置き換わって世界に介入したウイルスであり、なんとこの世界が仮想現実のゲーム世界だったことが判明します。 それにより主人公以外のゲーム内時間は停止し、3DCGはテクスチャを剥がされ灰色のポリゴンとなり、そのポリゴンは分解されて塵へと消えていきます。 絶望する主人公。 主人公は現実世界においてただの平凡な会社員であり、をリメイクした仮想現実を体験できるゲームにおいて幼い頃にをプレイした想い出に浸りながら主人公になりきっていただけだったのです。 この瞬間、この物語におけるあらゆる謎が解かれます。 本当に自己暗示だった) Q.どうしてには兵士とヘンリーしかいないし、はパパスの家しか出てこないし、全体的に3DCGによる世界観の表現がガバガバなの? A. ゲームだから Q.どうしてこの映画はちぐはぐでめちゃくちゃでつまらないの? A. ゲームだから Q.ユア・ストーリーって? A. ゲームだから そういうことだったのかリリン……となるばかりの超展開。 これまでの物語がどんなにつまらなくても、それがゲームだったからと言われたら仕方ありません。 つまらないことさえ伏線だったのです。 なるほど〜そういうことだったのか〜ゲームだったらつまらなくても仕方ないな〜 ってそんなわけあるか!!!!!!!!!!!!! 「実は全部ゲームでした」というどんでん返しがこの映画が娯楽作品として破綻していて一時間以上《無》の映像を観せられることの免罪符になるかといえば全くなりません。 しかしこの物語展開が、この映画が、スタッフ一同によって真摯に作られているということは観客の私にも伝わってきました。 「そもそも一本の映画でをまともにやるなんて無理でしょ」 そんなスタッフの心情が、ゲームの世界として切り捨てられ破壊されていく3DCGのキャターを通じて伝わってくるようでした。 そうです。 無理なんです。 私は子供の頃は、つまらないゲームや映画に「どうして大人たちはこんなつまらないものをさも面白いかのような嘘の宣伝をしてこの世に送り出してユーザーを失望させるのだろう……」みたいなことをぼんやりと考えることもありました。 でも今の私は大人です。 大人の私は、普段私たちが楽しんでいるゲームや映画はたくさんの人々が携わった結果であることを知っています。 良い結果を出すには人・金・時間が十分に用意されている必要があり、そして現実とは往々に残酷でそれらが不十分なまま物事に取り掛からなければならないことがあるのです。 『 ユア・ストーリー』はそれらが不十分な作品でした。 家族愛という方向性で一般層にウケることを狙うためにも、往年のファンの懐古をくすぐって満足させるにも、それらを達成するために原作ゲームの要素をうまく再構成して一本の映画として再構成する技術を持つスタッフは存在しませんでした。 そもそも映画の尺的に無理でした。 3DCGは予算の都合で町や村の情景をの世界観に落とし込んで表現することはできませんでした。 もちろんキャターたちの表情は豊かで、アクションシーンもグイグイ動き、決して品質が悪かったというわけではありません。 ただ日本の3DCGによるアニメーション表現の限界がここまでであり、ドット絵で壮大な世界観を表現していた原作が3DCG以上に偉大だった……それだけの話です。 しかし背負うのはの看板。 声優は豪華俳優陣。 一本の映画が作られるまでにはたくさんの利害関係者が関わっています。 そんな方々のためにも、プロとしての矜持のためにも、仕事で食い扶持を稼いで家族を養うためにも、決して途中で「こんなの無理だよ!」と投げ出すことはできません。 もし「ゲーム世界でした」というオチがなければ、この映画は何の価値もない駄作だったでしょう。 よくあるつまらない実写映画化と同系列……という烙印を押され、よくあるたくさんのメディアミックスにおいて恵まれなかった作品としてすぐに人々の記憶から消え去っていたはずです。 もちろん駄作の烙印と人々の記憶からの消失は避けられないでしょうが、この「ゲーム世界」というオチは映画を観に来た観客にどんなに小さくとも「オッ」と思わせるものがあったのではないでしょうか。 ウイルスによって破壊されるゲーム世界。 悲痛な叫びを上げる主人公にウイルスは告げます。 「大人になれ」 主人公のへの想い出を、ゲームという体験を、まるっきり否定する言葉。 「実はおれはウイルスに対抗するワクチンなんだ!おれの力を使え!」 ちなみにこの瞬間はじめて喋ったスラリンのCVはさんです。 映画から迷い込んできたのかな? そんなスラリンを媒介に召喚されたのはを思わせるシルエットをした光り輝く剣。 幼い頃からという作品が自分に与えてくれた勇気を糧に、偽物と切り捨てられたこのゲーム世界を通じた冒険がたしかに現実の経験として心に在ることを信じ、主人公が振り下ろした剣はウイルスを斬り裂くのでした。 こうするしかなかった。 破綻している物語をそれでも物語として繋ぎ止めるには、これしかなかった。 この映画において結局最後までウイルスやらワクチンがどういう存在なのか、どうしてそこに在るのかは判明しません。 でもこれでいいんです。 真の敵は「こんなのゲームでしょ」とゲームの体験を否定する存在であり、そしてそれに抗うのは幼い頃にゲームを通じてワクワクを体験した主人公のゲームの体験を信じる心なのです。 真の敵に抗うためのキーとなるのがスライムとなのは、それがという物語の象徴だからなのです。 実はこの世界そのものがひとつの本だった。 私もいくつか思い当たる節がある中で、映画を観ながら類似点を強く感じたのは、同時期に公開された映画『劇場版 Over Quartzer』でした。 映画のテーマと同じくも子供たちの夢を背負って立つ作品。 平成が終わり令和の世へと踏み入れた時代において公開されたこの映画もまた、映画と同じくメタな展開をする作品でした。 映画内でタイムスリップの描写があるも、辿り着いた戦国時代におけるにおいては馬を使う予算がないせいか、武田軍の騎馬隊がなんと騎馬戦で表現されます(は?) そんなムチャクチャな展開の後に待ち受けるラスボスは「平成をやり直す」という目的を掲げていました。 ラスボスの目的は、これまで20作品の間で色々とムチャクチャだったの歴史をやり直し、凸凹な世界観を統一してキチンとした作品として舗装することだったのです。 「そもそもこの作品つまらなくない?」という究極のメタが敵となる映画において、しかし主人公たちは諦めず「たとえ凸凹でもこの平成という時代を生きてきた自分たちの一歩一歩を信じる」という信念の前にラスボスは(いわゆる令和おじさんのパロディのポーズをしながら爆散して)敗北します。 物語世界に対するメタで作品を成り立たせている両映画ですが、しかし私が感じる作品への評価はまるで違いました。 例えるなら、映画はジオウ映画における騎馬戦のシーンだけを100分近くひたすら流して、最後の1分で平成キックをしたような作品。 「どんなに凸凹でもこれが俺たちの生きた時代なんだ! それを否定なんてさせない!」 というメッセージは立派でも、そこに至るまでが騎馬戦100分だったら「いやこれが平成を駆け抜けた軌跡なのだとしたら平成やり直したほうがよくない?」ってなっちゃうじゃないですか。 そもそも映画はメタを語る前に本筋がつまらない……虚無なんですよね。 映画の最後に出てくるメタの部分は「最高!と共に青春を過ごした俺たち最高!」みたいな話以上に、そもそも 物語が破綻しているのをどうにか作品として繋ぎ止めるためにやっているわけで、それが終盤までの物語がつまらないことへの免罪符になるかといったら前述の通りならないわけです。 最後に何をやっても、私が映画を観ている約100分は「 つまらない」という感情でいっぱいだった。 最後のメタ展開はそのつまらなさへの言い訳でしかなかった。 そもそも本気でメタ展開で物語を成立させるなら、序盤の時点でこれがバーチャル世界だと提示するだとか、もっと他のやり方があったはずなんですよね。 『スライムはの象徴!そこから引き抜かれるで、ゲームなんて嘘っぱちなんて言うやつに見せつけてやろうぜ!』 これはラストの展開で伝えたかったであろうメッセージを私の言葉で書き起こしたものです。 言いたいことはわかる。 わかるよ。 でも伝わらない。 例えば「ゲームなんてくだらね〜笑」といじめられてた少年がそれでもゲームの可能性を信じて、大人になってゲームデザイナーになったり、そうでなくてもゲームがあったからこその人生を送る映画のラストがこれだったら感動していたと思います。 でもこの映画で「所詮ゲームなんて嘘っぱち」という話が出てきたのはラスト10分未満くらいのところなわけで、そこで「それでもゲームの可能性を信じる俺たち!泣」みたいな話をされても呆然とすることしかできませんよ。 スラリンの「おれはワクチン!(CV. )」で私は考えるのをやめました。 でも最初に述べた通り、やはりこういう「つまんない映画観ちゃったな〜損したよ」みたいな体験も、大切な経験だと思うんですよね。 映画の中ではをプレイする幼い頃の主人公は瞳を輝かせていましたが、現実ではパパママからの誕生日プレゼントとかで買ってもらったゲームがとんでもないで後悔するとかそういうこともあったはずなんです。 面白いだとかつまらないだとかそういった喜怒哀楽の経験が全部ひっくるめて人間を形作る糧となり、そうして人生というものは続いていく……。 人によってはラストの展開を「観客に対して不誠実だ」と思うかもしれません。 でもあれだって映画の制作スタッフが一生懸命頑張った結果なんです。 私はあの結末を(クソつまらなかったという形で)受け入れています。 私が映画を観た劇場では、の仕事終わりに映画を観に来たスーツ姿のサラリーマンたちが映画が終わると同時に「まぁ、仕方ないよね」と口々に話していました。 私たちは子供から大人になったのです。 そしてその中で成長したのです。 「仕方ない」を大人になったが故の諦めとして捉えてしまう人もいるかもしれません。 けれど私はそうは思いません。 「仕方ない」という言葉は諦めではなく赦しなのです。 広い視野を以て物事を捉えられるようになった大人による、誰かの失敗を受け止めてその心情を慮って許すという優しい心なのです。 どんな映画作品にもそれに仕事として取り組んだスタッフたちがいる。 作品への評価は別として、誠実に作品と向き合ったスタッフに対して、最低限の敬意を持ちたい。 という作品に触れて育った私ですが、決してゲームのキャターのようにカッコよく優しく強い存在にはなれません。 ありがとう、 ユア・ストーリー ありがとう、こんな映画を観ても赦せるだけの懐の深さを作ってくれたジオウOQ たとえどんなにつまらなくてもそれが「ユア・ストーリー」だと言われてしまったからには、それが私という人生の物語の一部に組み込まれてしまったという事実を受け止めて生きていくよ。 でもまだ観ていない方は、わざと地雷を踏んで「こりゃひで〜わ笑」となる遊びをしたい方以外は観ない方がいいよ。

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ドラクエ映画の感想が面白くない(酷い)衝撃の理由やオチの反応まとめ!

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ドラクエのキャラクターで好きなのはスラりん。 「一番弱い者が重要な役割を果たすのが好き」と話す山崎貴総監督=東京都世田谷区の東宝スタジオ 1986年の第1作以来、80以上のタイトルが発売され、全世界での累計出荷・ダウンロード販売数が7800万超を数える人気ゲームシリーズが「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」(八木竜一、花房真監督)として3DCGアニメーション映画化された。 総監督は「アルキメデスの大戦」が公開されたばかりの山崎貴。 単なるゲームの映像化から脱却した物語の世界に引き込む。 行方不明となった母親を探すために、父のパパス(声・山田孝之)と共に旅に出たリュカ(同・佐藤健)の冒険を描く。 1992年に発売された「ドラゴンクエストV 天空の花嫁」のゲーム展開がベースだ。 脚本は山崎総監督が自ら執筆した。 ゲームの要素を過不足なく盛り込んだ内容は前後編、あるいは3部作でも展開可能なボリュームだが、「分けて作る気はなかった。 ドラクエだけに関わっているわけにもいかないので」とジョーク交じりに話す。 以前から映像化のオファーを受けていたものの、固辞していた。 「映画として戦えることが見つからなければ、作る意味がない。 そこで生まれたのが、クライマックスで起きる驚くべき『どんでん返し』。 おきて破りとも取れる趣向は、山崎監督からゲーム世代に向けたメッセージにも受け取れる。 ドラクエの熱烈なファンではなかったが、映画作りの過程でその世界に接し、「これは人生を疑似体験させるゲーム」と感じたという。 「例えば、奥さんを選ぶ。 こういう選択を子供にさせるゲームはすごいし、そうした(人生を疑似体験する)要素は映画でも大事にしたかった。 今回加えた『オチ』がなくても見られる映画にしなければとの思いは強かったが、原作のパワーにはすでに十分面白いものがある。 通常は映像が完成してから声を吹き込むが、今作ではまず、声を録音してからそのトーンに合わせて映像を製作した。 「役者が絵を決めていく。 役者が持つスキルをもらって映像を作ろうと思った。 声優ではなく、俳優をキャスティングしたのはそのため」。 演じ手と作り手が一体となって作品を作り上げた。 山崎総監督が長編3DCGアニメを手掛けるのは、「フレンズ もののけ島のナキ」(2011年)、「STAND BY ME ドラえもん」(14年)に続き3作目。 今年12月には「ルパン三世 THE FIRST」の公開も控える。 過去2作は日本的なテイストが濃厚だったが、今回はヨーロッパ調。 「作風は題材によって変わっていく」と言い、日本的なムードにこだわるつもりはないと強調する。 3DCGアニメの強みは「海外に出て行きやすいこと」だという。 「2D(の手書きアニメ)はすでに巨大なシステムが出来上がっており、僕らが新たなジャンルを切り開くには3DCGしかない」 「ルパン三世」後の構想は未定。 「個人的にはピクサーのようなカートゥーニー(漫画的)なものでなければヒットしない気もするが、そうなると、作品の幅が狭まる。 3DCGアニメを作ろうとすると、簡単に3、4年は吹っ飛んでしまうので、安易には題材を選べない」と悩ましい心情を吐露した。 「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」は8月2日公開。 制作会社「白組」でミニチュア製作や合成作業のスタッフとして多数の作品に関わり、2000年に「ジュブナイル」で長編映画監督デビュー。 代表作に大ヒットした「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズや「永遠の0」など。 2020年に開催される東京オリンピックのエグゼクティブ・クリエーティブ・ディレクターも務める。

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映画『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』感想。大人になれない僕たちにオカンが説教しにくる映画

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総監督は「ドラ泣き」で有名な『STAND BY ME 』の監督でもあったさん。 『』とさんという約束された成功だと思われていた本作だったハズだが、実際に劇場で観てみると上映後の館内が響めきが走り、ザワつくという『ミスト』を劇場で観て以来の現象が起こった。 正直、私もまさかこんな展開になるとは思っておらず、「なんなんだ、何を見せられたんだ?」という困惑がしばらく頭から離れなかった。 そんな本作について書いていきたい。 ネタバレ全開なので注意してくれ。 観てない人は是非劇場で。 RTA5 この映画は5と最後のオリジナル要素の二部構成で作られている。 まぁそこは仕方ない。 そもそもこの映画、テーマも含めて5初見さん向けの映画では全く無く、皆さんご存じの5をこう映画的表現します。 懐かしいでしょ。 と作り手と観客が確認しながらラストのオリジナル要素まで突っ走る映画なので、まだゲームもしたことない人はまずゲームをクリアしてからこの映画を観て欲しい。 そして5と言えば、嫁論争。 正直私はこの嫁論争が鉄板のネタにされすぎていて、半分嫌にもなっていた。 ネットでもリアルでも5の話になるとまず嫁論争に発展する。 いや、5でもそれ以外の事を少しは語りたいんだが!?と真顔になる。 そもそも私がフローラ派だったのも影響して、派からの執拗なまでの煽りをどうしてもネットに生息していると受けてしまうし、最近では公式がもはやほぼ一強を隠さなくなってきたし、の生みの親である堀井さんが「ほとんどの人が選ぶと思っていた」とか言って死体蹴りしてくるし、最近ではフローラよりデボラの方が人気あるのでは!?疑惑まである。 いやいやいや「フロータを選んでアンディから寝取りの気持ちを味わえ、が田舎でイヤイヤ寝取られる妄想が出来て2度美味しい理論」は常々発信していきたい(何の話だ) 本筋に戻るが、本作でもフローラではなくが選ばれる。 (C) ユア・ストーリー製作委員会 しかも、フローラを選ぶように自己暗示かけていたのに関わらずを選ぶのである。 これじゃ私のフローラちゃん、完全に負けヒロインやんと頭を抱えていると、実はフローラは主人公がを好きだという内なる気持ちに誰よりも早く気付き、変装して恋のキューピット役になっていた事が判明する。 負けヒロインなのは負けヒロインなのだが、一矢報いた感があったのでまぁ妥協できるラインかなと思う。 それにしてもどうあがいてもを選ぶこの公式、本当にフローラは当て馬的存在なのだと思ってしまい悲しい。 あと、中盤にが捕まるシーンとか「あれ、ここ同人で観た事ある!」ってなってニヤニヤしてしまった私は汚れた大人。 許せるか、許せないかラストの展開 分かりやすく言うと出来の悪い『レゴムービー』のような作品。 ラスト、実は冒険してた世界がVRの世界だったことが分かる。 実はVRの世界だった 実はVR 実VR これは夢オチと双璧なす程の荒れる展開である。 別に夢オチとかVRオチ自体が悪い訳ではないが、安易に出来る割に今までの積み重ねを一気に無に返す強力な呪文なので、繊細に扱い、観客が納得いく展開にしないと信頼関係がなくなる展開だと思う。 私がこういう実はゲーム世界でしたとか、仮想空間でしたとかのオチに初めて触れたのが『3』だった。 これも今までのシリーズは一体何だったんだと怒るファンが大勢いて、私は子供ながらゲームオチって人を怒らせる禁じ手なんだな、怖いなという印象をずっと持っていた。 そして本作である。 純粋に5が好きな人が怒る気持ちも分かる。 空想の世界を楽しんでいる人に対してこれは空想だぞって説教してくるなんて不粋の極みみたいなモノだし、「うるせ~しらね~」案件である。 こっちはゲームの世界をゲームだと想いながらもゲームだと思わずに遊んでいる訳で、令和になった時代に、そんな「ゲームはまやかしではない」という使い古されてカビが生えた主張して、さも感動的なテーマのように上から押しつけられるのは辛い。 そして作中で映画はVRなので自由に設定を変更した上で体験が出来る事が明らかになるが、『5』好きを公言している主人公が、100分に納めるという映画上の制約の為に本来あった様々な設定の数々を省略してしまうのは、あまりにも製作陣による5ファン軽視だと捉えられても仕方ないと思うし、幼少期カットとする主人公、本当に5好きなのか? そもそも、冒頭の演出もおかしい。 5はですよ。 こういう事があると、内なるISSAが言う「お前のへの想いって歩きにくくないか?凸凹じゃないか?」と。 同じような題材だった『レゴムービー』との最大の違いはやはり、原作と原作のファンへの想いと愛情と敬意の差だったと思う。 製作陣は反省して欲しい。 、タイトルを観て欲しい。 (C) ユア・ストーリー製作委員会 Rが反転している。 RとはRealの頭文字である。 そしてそれを反転、即ち逆の意味にすると そう、Virtual こんな所から伏線があったというどうでも良い話を挟みつつ、本題に戻る。 そもそも別にVRオチなくても成立した話だし、最悪様出さなくてもゲマをラスボスにしても良かった。 それでもあえてVRオチを持ってきた本作。 パンフレットを読むとシリーズの生みの親である堀井さんもがっつり脚本に関わっているみたいなのでさんの暴走という訳でもない。 それでもこの展開を強行した理由を考える。 やはりのある台詞が本作のテーマなんだと思う。 幼少期にで『5』を遊び、制服を着てPS2でリメイク『5』を遊ぶ。 そしてVRで本作を遊ぶ。 童顔だが、そんな年齢なら恐らく私たちと同世代の30代前後だろう。 そんなもはやおっさんである主人公が昔を懐かしみいつまでもゲームを遊ぶ。 そんな主人公に対してゲームのウイルスでもあるが言う。 「大人になれよ」 本作のボスであり、ゲームのウイルスでもある彼自身には野望も信念もない。 ただ、ウイルスの創造主である人から「送られたから来た」だけで「ゲーム壊す」ようプログラミングされているだけで「送り主はゲームなんていい加減卒業しろ言ってた」と代弁するだけ。 本当にVR世界を壊す必要がない。 しかも、ウイルスとしても謎である。 なぜなら、パスワードとか個人情報を抜く訳でもなく、ただ「もうゲームをやめろ」と説教してくるだけなのだから。 それはまるで子供時代の「お母さん」である。 子供時代にゲームで遊ぶ時の最大の壁と言っても良いお母さん。 ゲームなんてやめて勉強をさせようとするお母さん。 ゲームなんて無駄だと言うお母さん。 そして無理矢理ゲーム機の電源を強制的に切ろうとするお母さん。 まだ、セーブもしてないんだぞ! そんなお母さんに対して主人公は反発する。 ゲームは決して無駄ではない。 ゲームでの出会いは決して意味がない事なんてない。 それらは例えリセットされても、僕の血肉となり、経験となり、生き続けると。 その時の感動は虚構とはいえ今の人生に一部であり、ニセモノだけど本物だったと。 力強く説得してくれる。 そして最後は成長した子供の姿を見てお母さんは安心して成仏する。 それはまるで、当時を遊んでいた人、今も遊んでいる人、FF派の人、をやった事なくてもゲームが大好きな人、大人になりゲームをやめた人、そして今も大人という当たり前に誰もがなれると信じていたのに未だに大人になれそうにない全ての人に、あの頃の冒険心を蘇らせてくれると共に、それらゲームに支えられて生きてきた事全てを肯定させてくれる。 それはまるで使い古されてカビ臭い古い主張かもしれないが、それでもある意味そういう「古さ」という感覚も踏まえて、『』シリーズにしか出来ない優しい終わり方だと思うし、堀井さんがゲーム論で常々語っている「プレイヤーを驚かせたい」という考えにも通じていると思う。 そしてなぜ題材が『5』なのか。 これはやはり5は親子がテーマであり、一人の子供が立派な大人になるまでのストーリーだからだと思う。 ユアストーリーというタイトル通り、本作の主人公とはつまり観客一人一人である。 そして本作を観ているあなたは、子供の頃から5を遊ぶ、共に成長し、困難を切り抜けて来た。 例え、ゲームの中のような立派な勇者になれなくても、にも負けない可愛い妻や子供がいて幸せな光景。 これこそが、僕の人生なのだと誇り高く叫ぶような人生を送っているのだろう。 そんな人生と5は重なるのだ。 だからこそ最後のの台詞である 「家族を幸せに」という台詞が響く。 これはゲームではなく現実の事を言っているのだ。 ちなみに私は子供もいないし、結婚もしていないのでここら辺は敗北感しかなかった。 映画に説教される現実が辛い。 はぁー現実でも魔物が襲ってきてを不幸にしてくれねーかなー あと、この映画で一番駄目なのは、ゲーム世界を元に戻すワクチンプログラムのデザインがだったこと。 これ5やぞ!やぞ!BGMも5以外の奴多かったし、何かこうファンサービスのセンスが僕と違いすぎてノイズでした。 VRでと子供作るシーンとか迫力凄そうとか思ってニヤニヤしてしまった私は汚れた大人。 — livedoornews 主人公の「リュカ」という名前で色々問題が起きているが、映画を観れば分かるが、子供の頃から「リュカ」という名前を使っていたみたいだし、恐らくさんの作品に影響されて主人公がこの名前を選んだと推測されるので、是非諸問題が無事に解決してくる事を祈ります。 正直100分で5を完結させるのは無理だし、完成度もそんなり高くはない。 さんのキャラ絵じゃないのも不満だし、というか不満言い出したら切りがない。 良かった所はさん筆頭に声優陣はまぁ無難で良い出来だった(最初のパパスの独白のシーンは正直この映画大丈夫かと不安にもなったが) 個人的には今更ゲームをそのまま映画化されても反応に困る所があったので、こういう挑戦してくれたのは嬉しい(の逆襲レボリューションみたいなのが一番好きくない) 最後に、発売から25年以上経っている『5』だからこそ出来たストーリー展開だと思う。 個人的には許しがたい岩石の様な重みの側に一輪の花が咲いている様な気持ち(ポエム) 色々叩かれていて大変だけど私はひっそりと応援しているぞ。 ただ、双子の妹の存在消した意味あったか?.

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