ダイナマイト 発明。 アルフレッド・ノーベル~ダイナマイトの発明とノーベル賞の設立~

ダイナマイトで富を得たアルフレッド・ノーベルは、死後の評価を気にしてノーベル賞を作った?

ダイナマイト 発明

亡くなるときには大富豪だったノーベルは、スウェーデンストックホルムの有能な建築家の三男として生まれました。 しかし、父親は建築家で満足することなく、発明家としての人生を歩きはじめます。 しかし残念なことに才能を開花できず、破綻してしまいました。 父はストックホルムを後にして、ロシアのサンクトペテルブルクに移りますが、家族はストックホルムに残り、極貧生活を送りました。 アルフレッドは、小さいころから体が丈夫でなかったため、愛情を注いで育てられたようです。 その母に報いるように勉強をしたためか、彼は小学生の頃から優秀でした。 母は子供たちに、「誠実さ」と「勤勉さ」を大切にするようにと育てました。 彼の能力を見抜いていた母のお手柄というべきか、アルフレッドの何事にも真摯に打ち込む姿勢はここから生まれたものと思われます。 でも、発明で失敗して国を後にした父親を見ていたのに、なぜ、発明家を目指したのか…?不思議だとは思いませんか? 1837年、単身サンクトペテルブルクに行った父は、ストックホルム時代に発明していた機械や、爆発物の製造で成功していました。 この爆発物は新型の機雷と地雷です。 これをロシア軍に売り込み、軍は武器の一つとして採用しました。 父はそのお金を元手に鋳物工場を作り、大砲の台や車輪を製造し成功します。 その後、1842年に妻子をサンクトペテルブルクに呼び寄せました。 ストックホルムの貧しい生活とは全く逆転し、秀逸ぶりを発揮していたアルフレッドにはたくさんの家庭教師を付けて英才教育を施しました。 特に、化学と語学に力を注ぎ、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語など、5国語を話していたようです。 語学を学びたかった理由の一つは、文学が大好きだったからだとか? 海外遊学を決意したアルフレッドは父の仕事に関係がある中欧とイギリスを旅行し、その後、著名なペローズ教授から「実験室で一緒に仕事をしよう」と招待を受けてパリを訪問しました。 パリでも彼は、まだたくさんの詩を書いていました。 その後、父の使いでニューヨークに行き、発明家で実業家だったジョン・エリクソン(スウェーデン人)と出会わせています。 実は、父は蒸気の代わりに空気を熱して動力にできないかとの研究をしており、エリクソンは蒸気機関発明の一人者だったため、彼の力を必要としていたようです。 父には、文学の道を断ち切りたい狙いがありました。 2年の外国遊学を終える頃には、父の気持ちが伝わったのかアルフレッドの心は、すでに決まっていました。 ここまで軍の受注により仕事を得ていた会社ですが、ロシアがクリミア戦争に敗戦して戦争が終わりました。 1856年に政府は突然滞っていた債務の返済を中断してきたのです。 しかも戦争が終わったことにより、武器の受注も無くなり、破産寸前となってしまいました。 国からの仕事は利益もほとんど出ていなかった上に仕事もなくなり、1859年、ついにノーベル親子会社は破綻しました。 父と母と幼かった末の子は、故郷のストックホルムに逃げるように帰りました。 しかし、ここでも神の降臨はありました。 債務を整理し、今度はノーベル兄弟会社として再出発することに成功しました。 これは、兄弟のルードヴィが粘り強く、誠実さと信念をもって事業再開のため試行錯誤した結果でした。 一方、アルフレッドも何か、新しいものをと実験を繰り返していました。 この実験は、後世に残るものではありませんが、「ガス計量器」と「気圧計」という計器でした。 これで、アルフレッドは、初の特許を取りました。 ここで、着目したのが、狙って爆発させるための起爆装置でした。 1862年に、サンクトペテルブルクで水中爆発実験に成功し、スウェーデンでは特許を獲得しました。 「ノーベル式油状火薬」を確立したことにより、「アルフレッド・ノーベル氏、脅威の新式爆薬を発見!」と、新聞や雑誌もこぞって彼を書きたて英雄的な扱いをしています。 順調に見えていましたが、1864年に工場で爆発事故が起こってしまいました。 アルフレッドの研究を手伝っていた弟エミールも犠牲になりました。 通行人や隣人を巻き込む5~6人が犠牲になったといわれています。 この事故で、スウェーデンでは実験が禁止されたほどの衝撃的な出来事で、アルフレッドはドイツのハンブルクに工場を移しました。 アルフレッドは、事故について死ぬまで一切口にしていません。 事故後、世間の風当たりは強く冷ややかでしたが、スウェーデンのある資産家から資金援助を受けられることになり、1864年11月に世界初のニトログリセリン製造会社を設立することができたのです。 彼は、チラシに新爆薬の利点を書き、それを見た人たちはこぞって爆薬を注文しました。 しかし、この新爆薬は、シベリア鉄道の作業員死亡事故に始まり、パナマの貨物船が爆沈し74人もの死者を出すなど、あちらこちらで事故が多発しました。 またもやアフルレッドは窮地に立たされました。 この事故にもめげず、研究を続けたアルフレッドは、珪藻土(けいそうど)という堆積岩を見付けたのです。 この珪藻土にニトリグリセリンをしみ込ませ、起爆実験をしてみると、すこぶる調子のいいもので、威力も他のものと比べると5倍も大きかったとか。 これがダイナマイトの完成でした。 1867年に特許を獲得し、最終的にはダイナマイトの生産において50か国で特許を取得し、100ヶ所の工場を作り大富豪になりました。 1875年には、摩擦や衝撃に強いゼラチン状の爆薬を完成させ、1884年に無煙火薬のバリスタイトを発明しました。 この頃、スウェーデン王立科学アカデミーの会員になり、フランス政府からレジオン・ド・ヌール勲章を授与され、1893年には、ウプサラ大学から名誉学位を与えられました。 彼にとっては、人生最高の時でした。 ダイナマイトを作ったことにより、アルフレッドは一生贅沢しても使いきれないほどの巨万の富を得ました。 父の会社の工場の残務整理を任され見事に復活させた、兄ルードヴィの死をアルフレッドと間違えた新聞が見出しに『死の商人、死す』と書いたのです。 彼は、弟まで亡くして苦悩の末に作りだしたダイナマイトを世に出したことにより、「死の商人」と呼ばれました。 死後どのような評価を下されるかと、不安だったノーベルは、妻子がいなかったこともあり、自分の遺産をつぎ込んでノーベル賞を創設するよう遺書を残しました。 これにより、5つのノーベル賞とノーベル財団が設置されました。 アフルレッドの膨大な遺産を巡る様々なトラブルを乗り越え、1901年に初めてのノーベル賞が与えられました。 最初の物理学賞は、皆さんご存知、X線で有名な、ドイツのヴィルヘルム・コンラート・レントゲンです。 ノーベル賞に平和賞があるのには、アルフレッド・ノーベルが世界平和を気にかけていたからでしょう。 2018年の冬期平昌オリンピックでは、平和の象徴であるオリンピックを、弾道ミサイルを頻繁に撃ち警戒されている北朝鮮で、一部の競技が開催されるかもしれないとの報道がありました。 現在、世界中で様々な争いが起こっています。 ダイナマイトが、アルフレッド・ノーベルの思いと違う方向に向かわないことを祈るばかりです。

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ノーベルがダイナマイトを作った理由と経緯がつらい。ノーベル賞へつながる想いとは…?

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アルフレッド・ノーベルが、ダイナマイトを発表した。 1867年アメリカとイギリスでダイナマイトに関する特許を取得し、1867年07月14日にダイナマイトを発表した。 1871年、珪藻土を活用し、より安全となった爆薬をダイナマイト Dynamite と名づけ生産を開始した。 50カ国で特許を得て100近い工場を持ち、世界中で採掘や土木工事に使われるようになった。 このダイナマイトの開発で巨万の富を築いたことから、「ダイナマイト王」とも呼ばれた。 その遺産を、ノーベル賞創設に使った。 ニトログリセリンは、目的通りに爆発させることが難しいという欠点があったので、アルフレッド・ベルンハルド・ノーベルは起爆装置を開発した。 その起爆装置で、1862年にサンクトペテルブルクで水中爆発実験に成功し、1863年にはスウェーデンで特許を得て、1865年には雷管を設計した。 アルフレッド・ベルンハルド・ノーベル自身も死にかけ、怪我をした。 この事故で当局からストックホルムでの研究開発が禁止されたためハンブルクに工場を建設。 ニトログリセリンの安定性を高める研究に集中した。 そして、1866年、不安定なニトログリセリンをより安全に扱いやすくしたダイナマイトを発明した。 1867年07月14日にダイナマイトを発表した後、何人の人がダイナマイトが原因で死んだのだろう。 」と言って、これを辞退した。 このときは候補に挙がっていたことを知ってあらかじめ辞退の書簡をノーベル賞委員会に送付していたが、書簡の到着が遅れたためノーベル賞受賞決定後に辞退することとなった。 彼は、自発的に辞退する最初のノーベル賞受賞者であった。 2012-11-30---デズモンド・ツツ大僧正、EUはノーベル平和賞を受賞する価値無し! 2012-11-05---国際平和団体は、ノーベル平和賞が違法と訴えた! 2012-02-27---2012年のノーベル平和賞に対する231人の候補者。 1895-11-27---ノーベル賞を作ることにサインした。 1867-07-14---アルフレッド・ノーベルが、ダイナマイトを発表した。

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ノーベル――ダイナマイト発見とノーベル賞と

ダイナマイト 発明

右の写真は白黒で色までは分かりませんが、偉人の雰囲気が感じられます。 性格は人とのつきあいを楽しむ素晴らしい人だった」と、第三者は言っていたようですがノーベルが54歳 1887年 のときに兄に宛てた手紙には自分自身のことをこのように語っていました。 「この惨めで半病人のアルフレッド・ノーベルはこの世に産声をあげたときに、人道的な医師によって窒息させられていればよかった。 」 最大の長所:見ぎれいにしていて、決して他人の足手まといにならないこと 最大の短所:家族がなく、機嫌が悪く、腹の調子が悪いこと 最大の要求:生きたまま埋められないこと 最大の罪:富の神マンモンを崇拝しないこと 人生の有意義な出来事:なし 参考文献:U・ラーション編 『ノーベル賞の百年』 ユニバーサルアカデミープレス このときのノーベルはすでに自分の研究で大きな業績や多大な財産をなしていました。 科学者として幸せな人生を歩んだように思えます。 しかしこの手紙からは自分の存在を否定し、まるで自分自身のことを呪っているかのようです。 なぜ、こんな思いを抱いていたのでしょうか? それは彼の発明品とその社会での使われ方にありました。 ノーベルは1833年にストックホルムで発明家の家に生まれました。 9歳の時にロシアのサンクト・ペテルブルグに移り住みます。 このサンクト・ペテルブルグは周期表をつくったメンデレーフも縁があり、化学史にはときおり出てくる有名な場所です。 物心ついたノーベルは化学に興味を持ち、発明家の父とニトログリセリンによる爆薬の開発に没頭しました。 ニトログリセリンは非常に反応性が高く、少しの振動でも爆発する大変危険な液体です。 そのままの状態では目的の場所に持ち運ぶ間に爆発する危険があります。 そこでノーベル親子はニトログリセリンを安全に使いやすくするために板状の珪藻土に吸収させて持ち運びを簡単にし、取り扱いやすく改良しました。 これがダイナマイトです。 当初、ダイナマイトはトンネル建設などの土木工事に使われ、早く・安全に掘削できるとして多くの需要がありました。 しかし、ダイナマイトの威力は、工事ではなく戦争などで大量虐殺に使われるようになっていきました。 ダイナマイトの特許料で世界屈指の資産家になったノーベルですが、自分の発明品が武器として使われることに悲しみ、ノーベルは、1895年11月27日に世界で広く知られることになる遺言に署名をしました。 「私のすべての換金可能な財は、次の方法で処理されなくてはならない。 私の遺言執行者が安全な有価証券に投資し継続される基金を設立し、その毎年の利子について、前年に人類のために最大たる貢献をした人々に分配されるものとする。 」 つまり、ダイナマイトによって得た資産を人類に最大の貢献をなした人々に与えるということです。 この遺言をもとに設立されたのがノーベル財団で、彼の遺志の通り1901年から現在まで、ノーベル賞として賞金が贈られています。 受賞者は2011年までに総勢853名にのぼります。 ダイナマイトに限らず、科学技術の発展は私たちの生活を豊かにし、必要不可欠なものです。 しかし使い方によっては私たちの生活だけでなく命をも脅かすものにもなります。 日々、世界中で発展している科学技術を私たち人類のため、生命のため、地球のために役立てられるように願います。 ノーベル賞の予習も終わり、あとは今年の受賞者発表を待つのみです!!受賞者の発表は10月8日から始まりますが、授賞式はノーベルの命日である12月10日にストックホルムで行われます。 平和賞のみ同じ日にノルウェーのオスロで開催 あなたは人類のために何ができますか? 今から、人類のために出来ることを探して今後のノーベル賞を狙いましょう!!.

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